2013/9/22 ヨハネ福音書4:1~8 旅の疲れで

・旅
  主イエスはユダヤ人との対立を避けて、サマリヤ経由でガリラヤに向かいました。サマリヤはユダヤとガリラヤ地方の中間に位置していましたが、異邦人が住む地域で宗教も慣習も異なり、本来はまったく交流のない地域でした。

・旅の疲れで
  「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろして」とあります。主イエスは人となった方でしたから、弱さを持ち、渇きも空腹も覚えたのです。
  一方では神として奇跡と復活をなし、他方では人として疲れを覚え弱さを持つ方、それが聖書が示すイエス・キリスト像です。そこに計り知れない恵みが秘められています。

 ・弱さでの出会い
  「ひとりのサマリヤの女」が登場します。彼女は民族的にも宗教的にも主イエスと断絶がありましたが、主イエスは、初めから彼女との出会いを願っていました。彼女は、初め十分に自覚していませんでしたが、弱さを覚え、渇き、疲れた女性でした。色々な断絶がありましたが、弱さという一点で持って、主イエスとの深い交わりに招かれていました。

 ・すべて疲れた人は
  人の弱さ魂の渇きは、同じ弱さ渇を持つ人でなければ、担うことができません。主イエスは私たちの弱さを担うために、私たちのもとに弱くなって来られたのです。
  「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

2013/9/22 Ⅱコリント4:7~11 土の器と宝

・土の器
  人間が「土の器」であるとは、聖書が示す姿です。 低く、卑しい存在、弱く、欠けのある存在、脆く壊れる存在ということです。私たちは年をとるごとに、弱さを覚え自分が土の器であることを再認識します。

 ・宝
   「宝を、土の器の中に」とあります。その「宝」とは、永遠のいのち、御霊 、神の愛、神の子の権利などです。私たちキリスト者は、外見は世の人々と同じでも、その内には、神の宝が豊富に入れられているのです。

 ・宝が現れる時
  私たちの内にある「宝」が外に現れる契機は、「四方八方から苦しめられる」時、「途方にくれる」時、「倒された」時です。そのような時に、私たち自身はパニックになり、弱ります。しかし神の救いが、鮮やかに現されるのです。ちょうど、土の器に欠けやヒビができ、そこから中の宝が輝くようにです。

 ・老年への勧めと励まし
  そこで、ある牧師は老年について、次のように書いています。「たとえ老年になって、孤独や悲しみがあっても、主は共にいてくださいます。…生けるキリストの御手の上で、…主の平安に支えられて、ニコニコ笑って、感謝にあふれて、日々を生きて下さい。」

2013/9/8 ヨハネ福音書3:31~36 神の契約と印

・神の契約の言葉
  主イエスは「上から来る方」で「すべてのものの上におられる」として紹介されています。つまり、天上のいかなる天使よりも、また地上のいかなる権威と力よりも優れているということです。またその「あかし」もまた、真実です。

 ・神は真実であるという印
  また「そのあかしを受け入れた者は」神の救いの契約関係に入れられます。ちょうど契約書に印鑑を押すように、主イエスのあかしを信じた人は、永遠の契約書に印を押したとみなされます。その救いの契約に異議をはさむ者は天地に誰もいません。

 ・永遠のいのちを受ける
  契約が成立した時に、そこで約束されている救いと恵みは一切が、信仰者のものになります。具体的な救いと恵みは聖書に逐一記されています。私たちはそれを確かめて知り、日々、救われるのです。その最大の賜物は永遠のいのちです。ちょうど主イエスが復活されたように、私たちの心と霊に復活の恵みと力を与えるのです。

 ・信仰者の誠実
  私たち信仰者は神によって引き寄せられて信じるものとされましたが、この神の救いの契約に入れられた者は、それに相応しい信仰と誠実さをもって生涯を全うすべきです。その時に、神がその契約を守られて、その人の生涯に永遠のいのちの足跡が刻まれるのです。

2013/9/1 ヨハネ福音書3:17~21 光の子 闇の子

・キリスト
  主イエスは救い主として闇の世界に遣わされました。そこで、キリストをとおして世にある者たちは、明瞭に光と闇として区別されていくことになります。キリストを信じる者は光の子とされ、キリストを退ける者は闇の子として留まります。  

 ・裁きと闇の子
  キリストが唯一の光なので、キリストを信じない者は、光よりも闇を愛する者です。そして、闇の子となり、世に執着して闇に染まります。また、光を憎むようになり、自分を光から遠ざけていきます。その結果、闇とともに苦しみ、滅び去ります。

 ・救いと光の子
  しかし、キリストを信じた者たちはいわば「真理を行う者」です。神に対して「まことをなし」義とされ、祝福を受ける者ということです。彼らは、キリストの祝福のただ中に導かれます。つまりは「光のほうに」導かれていく光の子です。

 ・光の子とし
  私たちはキリストを信じるという真理に導かれ、光の子とされています。そこで大切なことは、ただ真理であるキリスト信仰に留まることです。そのようにして神によって祝福され、光としての実を生み出すことができます。