2010/12/26 詩篇124篇 神は私たちの味方

・一年を振り返る
 2010年ももうすぐ過ぎ去ります。世の中でもすでに色々な形で一年を回顧しています。「暑」という一文字で括る人、衆目を集めた出来事を10大事件として掲げるなど様々です。
 しかし私たちには信仰の視点で一年を回顧することも大切なことです。

・「もしも」的回顧
 詩篇124篇では「もしも」的回顧法を用いて、「私たちのために」主が如何によくしてくださったかを覚えています。「もしも主が私たちの味方でなかったなら」、「あの時この時はどうなっていただろうか。」という風にです。
 私たちも、自分の一年についてこの回顧法を適用したとき、どのようなイメージが浮かび上がるでしょうか。主が私たちの味方ででなかったなら、私たちは試練と悪と罪によって滅んでいたでしょう。

・神は私たちの味方
 しかし、詩人は神が私たちの味方であったから「私たちは・・・鳥のように助け出された」と証しします。
 鳥が弱い存在であるように、神の民もそのままでは弱い存在です。周囲には色々な危険と試練と誘惑があります。しかし神が私たちの味方であるから、私たちはどのような危険の中でも守られ、助け出されたのです。
 神が私たちの味方であったという事実を覚えて、古き一年に感謝し新しい年の希望としましょう。

2010/12/12 イザヤ9章 大きな光

・大きな光
 イザヤは苦しみと闇の中にあるガリラヤについて預言します。それは将来与えられる「大きな光」についてでした。
 光は温もりを与え、明るさを与え、生命を与え、道を照らします。人は苦しみの中で救いの光を求めるものです。「大きな光」とは、神から地上の人々に与える救い主キリストのことです。キリストは「大きな光」として、私たちを照らすのです。

・「私たちのため」の「みどりご」
 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」とあります。「みどりご」は聖書の中心であり、世界と宇宙の中心です。その方が特に「わたしたちのため」、私たちの家族の一員のようにして誕生するのです。彼は世界の主ですが、同時に私たちの家族であり、友であり、どのようなことがあっても私たちから離れることがない方です。

・助言者、神、永遠の父、平和の君
 「その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」」
 彼は肉の目では小さく、卑しい存在ですが、信仰の目で見るときに「私たちのために」あらゆる恵みを備えた方で、まさしく私たちのための「大きな光」です。

・万軍の主の熱心
 神は愛と熱心さで、私たちの大きな光としての「みどりご」を提供しておられます。その熱心さを覚えて、私たちは信仰の目を見開いて、彼を受け入れ、素直に光に照されるべきです。

2010/12/5 イザヤ7:14 処女降誕の預言

・動揺と恐れの中で
 BC730年頃、南ユダ王国は危機の中にありました。北に隣接する二つの王国が攻めて来ようとしていたのです。この時の王はアハズでしたが、王も人々も目に見えるものに頼り、偶像神を崇めるようになり、堕落していました。
 「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」と、その時の状況が描写されています。目に見えるものにのみ、頼ろうとする人々の心はいつもこのようです。

・処女降誕の預言
 そこでイザヤは、一つのしるしを与えます。それが処女降誕の預言です。
 「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」
 処女とは「アルマー」という言葉で、聖書中すべてにおいて処女である若い女性を意味します。イザヤは注意深くこの言葉を用いています。
 処女が男の子を産むというのは奇跡です。しかもこの子は神の子キリストであることが9章から明らかになります。神は奇跡的誕生を通して、アハズ王だけではなくすべての人々に対して、ご自分の救いと臨在を示そうとされたのです。

・インマヌエル
 「インマヌエル」とは「神は私たちと共におられる」という意味です。この名の通り、処女降誕によって誕生したイエスは神の子であり、私たちとともにおられる神です。
 私たちは処女降誕の奇跡をそのまま受け入れることは、この神の救いと愛と恵みの一切を獲得することに繋がるのです。

2010/11/28 ローマ3:25 なだめの供え物

・神の怒りと「なだめ」
 神と人間には、根本的な関係が存在しています。神は怒り、人間は恐れるという関係です。神は聖く、義なる方であるので、違反を犯した罪人を裁かずにはおかれないのです。
 そこで、旧約聖書以来、神の側から「なだめ」の手段が示されました。小鳥を、羊などを「なだめの供え物」として殺して血を流すことでした。それによって神の怒りが去り、恵を回復することができると考えられたのです。

・イエス・キリストの十字架
 しかしながら、旧約の「なだめの供え物」は不完全で神の怒りも人の恐れも取り去ることができませんでした。そこで神は真のなだめとしてキリスト・イエスを地上に遣わし、十字架の死にまで到らせたのです。怒りを受けるものは、痛み、苦しみを受け、捨てられるのですが、彼は徹底した「なだめの供え物」として十字架の死を全うしました。その一切が、神のドラマとして起こったのです。

・二乗の義と招き
 十字架の「なだめ」を通して現された「神の義」は、人知を遙かに超える義でした。ただご自分を義とするだけではなく、相手をも義とするもので、いわば二乗の義、超然とした義でした。
 このようにして神は「神の義」を公に示し、同時に、私たちたちを切実な思いで招いておられます。「怒りが去ったから、愛の元に来なさい」と。私たちは「なだめの血」を信仰という器で受け、そして神の御元に近づくことができるのです。