2021/9/26 召天者記念礼拝 イザヤ26:19 あなたの露は 光の露

・「あなたの死人は生き返り」
 「あなたの死人」とは主なる神の民のことで、地上で信仰を全うして、今は「死人」となっている人々のことです。死者は生きかえることなどないということは、地上の考え、常識です。しかし神によって復活の啓示があり、預言者自身も告白をしています。さらにまた、自分自身についても「私のなきがらはよみがえります」と告白します。

・「あなたの露は 光の露」
 「露」はエルサレム周辺では夏の日照りの中で作物などを生かす恵みそのものでした。そこで「あなたの露」とは、地上の悲惨の中で、信仰者にくだされる神の恵みを表します。「光」とは、神の臨在と生命を意味します。そこで「光の露」とは、神の臨在と命が宿る露ということで、信仰者たちが地上で受け取る神の恵みは、そのまま復活の生命であり、その約束であることを告白しています。実際に、草花に降りる朝露に、光が輝く光景は、そのような神秘を覚えます。

・「地は、死者の霊を生き返らせ」
 「地」とは、古代において死者を飲み込み閉ざす世界とされていました。しかし神の民は、恵みと復活の約束を受けている者たちであるゆえに、そこに閉ざしたままにすることはできず生命の世界に「投げ出す」ということです。ダイナミックな啓示であり、それに同調して預言者もダイナミックに告白しています。
 私たちもまた、死が一切を支配するような世界に生きていますが、日々、神の生命の露を受け取り、復活信仰を告白していきましょう。
 

2021/9/19 イザヤ46:3~4 あなたを背負う神

・「わたしに聞け」
 人が高齢になると新たな危機に直面します。仕事のリタイアー、肉体と記憶等の弱さ、そして将来の展望などについてです。そこで不安を覚え色々と考えるのです。
 しかし神ご自身が「わたしに聞け」と語りかけています。「あなた」の創造者かつ贖い主の語りかけですから、当然、神のことばに耳を傾けることが最善です。

・あなたを背負う神 
「胎内にいる時からになわれており…運ばれた者よ」とあります。人は母の胎内で誕生し、幼子として担われ、やがて大人として成長します。しかし、背後で「にない」「運んで」くださったのは、神ご自身であったという霊的事実を確認させています。
 私たちの場合、何も考えなければ、母が父が、また周囲のお陰、自分の力で成長してきたと思ってしまいます。しかしみ言葉を通して、あらためて神が「あなた」を 「にない」「運んでくださった」と認識することが大切です。

・白髪になっても
「あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う」とあります。「しらがになって」とは高齢となり、力がが衰えた時、様々な人間関係が希薄になる時、それゆえに将来について不安を抱く時のことです。しかし、絶対的な「わたし」である神は「あなた」をこれまでと同じように「背負う」と約束しておられます。それは神の大きな恵みによります。老年こそ神の恵みの深さを深く味わう時となるということです。
 

2021/9/12 ルカ福音書13:10~17 アブラハムの娘のため

・病の霊につかれた女の癒やし
 主イエスはある安息日に、会堂で18年間、病の霊につかれて腰が曲がった女を見かけて、御元に招き、み言葉により癒やしました。「女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた」とあります。主イエスの救いがあるところでは神の栄光もまた現れて、褒めたたえがあります。

・アブラハムの娘のため
「それを見た会堂管理者は」安息日に癒やしの業が行われたことに憤ったとあります。それに対して主イエスは、安息日に牛やロバの綱を解いて水を飲ませるのに、どうしてアブラハムの娘をサタンの束縛から解いてはならないのかと、彼らの偽善を指摘します。
 またサタンの束縛を解いた主イエスこそ、安息日を凌駕する安息の主、神の子キリストであることを示しています。

・信仰によるアブラハムの娘のため
 ガラテヤ3:7に「信仰による人々こそアブラハムの子孫」とあります。つまり、今は私たちキリスト者が、信仰による子孫とされて、神に選ばれ、愛された者とされているということです。それは私たちの生涯の中で、さらにキリストの栄光が現され、サタンの束縛が打ち砕かれるためです。また、そのことで神が絶えず、賛美されるためです。
 

2021/9/5 ルカ福音書13:6~9 いちじくの木のたとえ

 ・いちじくの木のたとえ
 「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた」けれども、一向に実をならせる気配がないことを見て「切り倒してしまいなさい」と番人に命じています。これは旧約の民が神によってカナンの地に植えられたのにもかかわらず、その頑なさゆえに実をならすことがなかったことを示しています。

・裁きの猶予とキリスト
 それに対して番人は「木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。…それでもだめなら、切り倒してください。」番人もまた、神のうちにある憐れみを示しています。神は旧約の民に対して恵みと忍耐を示し、さらに憐れみとチャンスをも与えて、最善をなしたのです。
 ところが彼らは、キリストという最後のチャンスをも無にして、結局は神によって断ち切られます。

・キリストの民と実
「倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。」ローマ11:22
 私たちは神のいつくしみによって、新しい神の民として召されてキリストに結び付けられています。それはすべて神のために実を結ぶためです。「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。」エペソ5:9 とありますが、私たちも精一杯の実をならせるようにいたしましょう。

2021/8/29ルカ福音書13:1~5 悔い改めなければ

・「ガリラヤ人たち」の非業の死
 主イエスは「ガリラヤ人たち」の非業の死について聞いた時、人々の受け止め方について非難しています。人々は彼らの隠れた罪について噂し、それと比較して自分たちは、まだましで善人というような考えでいました。つまり、人々はそのゴシップをネタにして、自己義認と自己正当化していたのです。そのことはシロアムの塔の出来事の場合も、全く同様でした。

・悔い改めないなら
 まず「そうではない」と彼らの自己義認の考え方を否定し、かれらもまた同じように罪人であることを明確に示します。他の箇所にも「義人はいない。ひとりもいない」ローマ3:10とあるとおりです。さらに「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と、そのままの状態では滅ぶことを予告しております。この「滅び」とは単に肉体の死ではなく、永遠の滅びです。

・イエスと悔い改め
 そこで人間にとって「悔い改め」が極めて大切なことであることとしております。「悔い改め」とは、考えと思い、また行いの転換を意味するだけのものではありません。何よりも人間の中心の心の転換であり、全人の罪からの転換です。そして向かう先は、ただイエス・キリストご自身です。悔い改めにはいつの場合でも、彼に対する献身が伴います。