2010/11/21 ローマ3:23~24 ただ神の恵みによる

・すべての人は罪を犯した
 「すべての人は罪を犯した」とあります。アダムの子孫であるすべての人間は原罪をもっていますが、また個々の罪を犯します。行いにおいて、心の思いにおいて、すべて汚れています。肉からの者は、自分の欲とエゴにとらわれ、神に対して罪を犯さないではいられないのです。
 
・神からの栄誉を受けられず
 「栄誉」とは、良いと認められて得る特権です。人間社会では、それぞれが相手を受け入れて、何らかの栄誉をもって生きていけます。そこで、神の前でも何らかの栄誉に値していると錯覚します。
 しかし、神の前ではすべて罪人なので、だれも栄誉に預かることはできず、神の国から除外されます。
 
・ただ神の恵みにより
 人の救いは、ただ神の恵みによります。百パーセント神の恵みによってなされるということです。 神の恵みによるプレゼントはイエス・キリストです。彼は百パーセントの善さを持ち、百パーセントの良き業をなしました。その一切が私たちの救いのためのプレゼントになります。

・神の恵みに浸る
 私たちが「神の恵み」に浸るためには、まず人間の業を一切放棄しなければなりません。そこでは何ら神を喜ばせることはできず、むしろ嫌悪されるのだと言うことを認めて、神の前に静まることです。
 礼拝において、心を神に向け、神の恵みの世界を凝視することです。その時、神が私たちに差しだしておられるキリストのすばらしさが、聖霊によって明らかにされるのです。

2010/11/14 ヨハネ15:13 アホチュウ物語


少し昔のことです。関西のある町にアホチュウさんという少年がおりました。アホチュウというのは名前ではなくあだ名でした。町のみんなが「アホチュウ、アホチュウ」と呼んでいました。アホチュウさんはといえば、そのあだ名があまり好きではありませんでした。それでよく一人で町をぶらぶらしていました。

 アホチュウさんの町には、1つのふみきり踏切がありました。それは「開かずの踏切」でした。ある時に、アホチュウさんが「開かずの踏切で」留められているときに、町の牧師さんが近づいてきて神の救いを伝えました。
 アホチュウさんは自分の心が汚いと思っていたので、すなおにイエス様の救いを信じました。信じたアホチュウさんに、牧師さんはみことばをあげました。「人がその友のためいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれもっていません。」
それから数年が過ぎました。アホチュウさんは船乗りになっていました。ある時に、船は嵐にあい、船底を岩にぶつけて穴があいてしまいました。水がどんどん入り込んできます。

 それを見たアホチュウさんは、とっさに穴をふさごうとしました。その間に、他の船員達は船の上に逃げることができたのです。船はだいぶ傾きましたが、何とか沈没せず、無事に港に着いたのでした。





2010/11/7 ローマ3:21~22 律法とは別の義

・「今」という時
 「しかし、今は・・・」とあります。「今」とは、預言者たちが示した「主の日」のことです。その時、旧約以来のすべての預言が成就し、律法とは別の「神の義」が明らかにされるのです。
 また「今」という時は、それは歴史上の1点を示すと同時に、福音が宣教されるすべての場と時を意味します。礼拝の場も、「今」という時です。この時、特別に神の恵みと霊が豊かに溢れるのです。

・律法とは別の義
 「神の義」とは、神が受け入れ「神の国」に入る基準のことです。旧約聖書の時代、それは律法によって示されていました。それは外側から私たちに対して要求する義でした。また律法による義を完全に満たす人間は誰もいません。
 そこで神は「律法とは別に」「しかも律法と預言者によって」預言して「神の義」を示しました。この「別の義」こそが旧新約の主たる流れであり、中心となるのです。

・キリストを信じる「神の義」
「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」とあります。
 「別の義」は、人間の業を要求しません。ただキリストを信じる信仰による義です。信じるだけで神によって受け入れられ、神の国の民とされると言うことです。
 この義(=救い)は、一民族の枠を超えて、すべての民族、すべての人に提供されており、何の差別もありません。
 この「神の義」は、今、私たちに提供されており、ただ信仰によって受け取ることができるのです。

2010/10/31 ルカ19:1~10 樹上の求道者

・取税人の頭のザアカイ
 ザアカイはエリコの町の人で、取税人の頭でした。取税人は、アウトローの階層の人々であったことと、強引な取り立てのため、一般の人々には嫌われていました。また罪人と見なされ、ユダヤ人の考える神の国からは除外されていた人々でした。
 
・樹上の求道者
 主イエスが来たときに、ザアカイは「どんな方かを見ようと」「前方に走り出て、いちじく桑の木に登」りました。
 そのままでは、彼は熱心さをもっていましたが、樹上の求道者でした。自分では一方向で主イエスについて観察するだけだからです。そのままであったなら、主イエスを頭では知っているのですが、救いの中には決して入っていないのです。

・あなたの名を知るイエス
 ところが、イエスは求道者ザアカイのことを先に覚えており、愛の対象としてその名を心に刻んでいました。
 このことは「カナンの女」、「バルテマイ」「長血の女」の物語でも共通する点です。そして私たち一人一人の名も同じようにして、求める先に愛し知っておられるのです。

・「降りて来なさい」
 「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と主イエスは呼びかけます。遠く離れて、自分だけでイエスを知っているだけでは不十分です。「降りて」イエスの前で信仰を明瞭に告白する必要があるのです。
 主イエスは私たちに対しても名を呼び、「急いで降りて来なさい」と同じ呼びかけをしておられます。