2011/4/24 マルコ16:1~20 イエスは甦られた

・週の初めの日の早朝
 主イエスは安息日が終わった次の日に甦られました。そのとき、女たちが墓に向かいましたが、すでに大きな石が動き、墓の入口は開いていました。
 古い時代が過ぎ去って、キリストの甦りと共に新しい時代が到来していたのです。そこでは一切が変転し、罪も死も、心配も不安も、大きく重い問題も、すべてのキリストの勝利に飲み込まれているのです。

・主イエスは甦られた
 「あの方はよみがえられました」とは墓の中にいた白い衣の天使の言葉です。それは第1に、墓が空である理由を示した言葉、第2にその事実を示す言葉、第3にキリストの救済の御業の一切が完遂されたことを示す言葉です。しかし、神のことばですから、それ自体が復活の力を持ちます。そして主イエスの復活の出来事は、見て分かるよりも、聞いて信じることが重要なのです。それによって復活の力と勝利は私たちを飲み込み、私たちの内側にも影響を及ぼすのです。

・ガリラヤ、さらに全世界へ
 天使は「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます」と告げます。そこでイエスと出会い、礼拝することができるのです。
 私たちの礼拝もまた、甦りのイエスと出会う場です。そこで私たちはイエスの救いの一切を受け取り、甦りの力が与えられ、神の愛に満たされるのです。
 さらに宣教命令が加えられます。「全世界に出て行き・・・福音を宣べ伝えなさい」とあります。復活の生命は、満ちあふれていくのです。

2011/4/17 マルコ15:22~41 十字架のイエス

・十字架のイエス・・初めの3時間
 主イエスはゴルゴダの丘で午前9時に十字架につけられました。その際に、主イエスは「没薬を混ぜた暴動」を飲むことなく、苦しみの限りを経験されます。また人々の罵りにさらされ、精神的にも辛さの中におかれていました。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことを」(Ⅰペテロ2:22)しませんでした。

・十字架のイエス・・暗闇の3時間
正午から午後3時まで「全地が暗く」なりました。神が御子を怒り呪ったことが、自然現象として現れたのです。それは絶望の極致でした。
 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」という叫びは、ご自分の絶望感からの叫びと共に、詩篇22:1の預言の成就です。主イエスは十字架で私たち罪人の身代わりとなられたのです。

・「まことに神の子」
 「正面に立っていた百人隊長」は「この方はまことに神の子であった」と告白します。の主イエスが十字架の上で、一切の苦しみを拒むことなく、そのまま受容された姿に、不思議な感銘、神々しさを覚えたのです。
 私たちもまた、百人隊長のように「正面に立って」十字架の主イエスを見上げるときに、感銘と覚え、同じ告白をせずにはいられません。また、その一切が、私たちの罪の身代わりとしてと思うときに深い感謝を持ち、礼拝するのみです。

2011/4/10 マルコ15:16~21 クレネ人シモンの十字架

・紫の衣とイバラの冠
 主イエスは大勢のローマ兵士たちによって愚弄されました。彼らは主イエスに「紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせて」「ユダヤ人の王さま、バンザイ」と葦の棒で頭をたたいたり、つばきをかけたりしました。
 彼らは「ユダヤ人の王キリスト」とは偽りで、十字架に定められた者、反国家、反社会的存在としてあらん限りの乱暴をしたのです。

・ヴィラ・ドロロ-サ
 「イエスを十字架につけるために連れ出した」とあります。十字架刑を受ける者は、見せしめのため町中の道を歩かされました。主イエスが歩いた道は、ヴィラ・ドロローサ(苦しみの道)と呼ばれています。主イエスが予告されたように、十字架の道を歩むことが主イエスの道でした。それはその名の通り、苦難の道であり、悲しみの道、辱めの道、罵りの道でした。

・クレネ人シモンの十字架
 十字架の時は、いかなる人でも主イエスの側に立つことが困難になるものです。しかしクレネ人シモンは強制的にではあったにしろ、主イエス・キリストのために十字架を負ったのです。
 その時には、決して喜ばしく思えませんでしたが、シモンの十字架体験は恵みと祝福となりました。事実彼の家庭はクリスチャンホームとなり、彼だけではなく妻も子どもたちは立派な働き人となったのです。
 ピリピ1:29に「キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わった」とありますが、この御言葉は真実です。

2011/4/3 マルコ15:1~15 ユダヤ人の王

・ユダヤ人の王
 祭司長とユダヤ議会は主イエスを死刑にしようとして、ローマ総督ピラトに引き渡します。訴えの罪状は「ユダヤ人の王」でした。ユダヤ人の王とはキリストを意味し、旧約以来、ユダヤ人が待望していた救い主のことでした。
 主イエスはピラトの前でも、ご自分が「ユダヤ人の王」であることを否認しませんでした。

・彼らは王を捨てる
 ユダヤ人たちの憎しみはエスカレートしていきます。彼らはかたくなに主イエスを拒み、むしろ強盗の釈放を求めます。さらに主イエスに対して「十字架につけろ」と憎しみと殺意をむき出しに、徹底して捨て去りました。

・旧約の終わり
 マルコ12章「ぶどう園のたとえ話」はこの出来事を予知しています。父の神がユダヤ人に対して預言者らを送り、最後にご自分の愛する一人子を与えて悔い改めを求めたのに、彼らは御子を拒絶し、殺害するに到るのです。それは旧約の終わりとなり、彼ら自身も捨てられる出来事となりました。
 

・新しい契約の「礎の石」
 しかし全能の神は旧約を終わらせると同時に、新しい契約を異邦人に対しても提供されます。主イエスは新しい契約の「礎の石」となりました。すべての罪人の罪を赦し、ただ恵みによってすべての人を受け入れる礎です。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない」ローマ9:33とあるとおり、誰でもイエスをキリストと信じる者は、救われるのです。