2011/10/23 ローマ10:1~13  救いの門

・「救いの門」
ユダヤ人たちは律法による自分の行いで神の国に入ろうとしていました。しかし、それは誤った手段であり、いくら熱心でも神の国に入ることはできません。いくら「律法による」門を叩いても、その前で頑張っても入ることはできません。
 イエスが到来することにより、救いの門は、もはや律法によるということはなく、徹底して信仰によって開かれるのです。「信仰による義」ということです。

・「救いの門」は御言葉による
 「信仰による義」は神の御言葉によります。神の御言葉は、「人間の努力で天に登って獲得してくる」、あるいは「人間が地の奥底に下るような苦しみを通して獲得する」というものではありません。神の子キリストが天から下り、地の奥底から復活してもたらしたものです。御言葉は人間の言葉と変わらない側面がありますが、しかし人間の言葉に似ていても、神の言葉であり、神が天からもたらした救いの言葉、すなわち救いの門です。
 そして、「みことばはあなたの近くにある」のです。

・「救いの門」に入る
 この「救いの門」に入る手段は、「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じる 」ことだけです。宗教改革者ルッターが、修道院で信仰義認を再発見したときのことを次のように述懐しています。
 「・・・私は全く生まれ変わって、開かれた門を通ってパラダイスそのものの中に入ったように感じた。」

2011/10/16 ローマ9:19~33 あわれみの器

・創造者/神の主権
 人間には傲慢な心があって、神に対しても自己主張をします。しかし聖書の神は創造者として絶対的主権があります。神は天地創造のおり、無から有を創り出された方で、人間もまたそのようにして創造されました。人間は神の前で、被造物として何の権限もないのです。それを主張することは罪を深めるだけです。

・陶器師と陶器
 神と人間の関係は、陶器師と陶器の関係と同じです。陶器師は自由に土の塊から色々な陶器を造る絶対的権利があります。あるいは尊いことに用いる陶器、あるいは卑しいことに用いる陶器と自在に、自分の意志だけで造るのです。当然、陶器が陶器師に対して言い逆らうということはありません。丁度そのように、神と人間とは存在の次元が異なっているのです。

・怒りの器とあわれみ器
 私たちは欠けだらけ、汚れだらけの怒りの器です。何のよいところもない全的堕落状態です。しかし神は、私たちに対しては「豊かな寛容」をしめして、「あわれみの器」として招いてくださっています。私たちに何か良いところがあるから、というのではなく、全く神のあわれみの主権によることです。
 「彼に信頼する者は、失望させられることがない」とありますが、彼をあわれみの門として私たちの前に提示して、招いてくださっているのです。

2011/10/9 信仰箇条第3 イエス・キリスト

・信仰箇条
 信仰箇条の学びを隔月にしていますが、これは信仰の一致と異端の誤りから教会とクリスチャンを守るために有益です。今回は第3条は「イエス・キリスト」についてです。

・イエス・キリストの人格
 「真の神であり、真の人である」とあります。これを神学用語で二性一人格といいます。神と人とは1つの人格の中で一体となっているという意味です。
 このことは聖書に基づきます。ヨハネ1:1,14またピリピ2:6~8、ヘブル1:3に記されています。このキリストの特異なご人格は神と人との仲介の働きをするために大切です。

・キリストの業
 「聖書に示すとおり、十字架の上に私たちの罪の犠牲として死なれたことを信じる」「肉体を持って復活し・・・」
 イエスの業の中心は十字架の贖罪と復活です。主は福音書においてご自分の使命を明示しておられます。「十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない」ルカ24:7。また他にも「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」ヨハネ1:29、「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」Ⅰテモテ2:6.との御言葉があります。

・異端を判別し、純粋な信仰を養う
 私たちは、信仰告白によって様々な毒のような異端を見分けることができます。同時に、安心して純粋な信仰を養うことができるのです。
 しかし最終的には自分の目で聖書に触れて確かめ、またキリストを味わうことがより大切です。 

2011/10/2 ローマ9:1~ 選びとあわれみの民

・肉の子ではなく
パウロには「大きな悲しみ」と「心の痛み」がありました。それはイスラエル人が神から離れているという現実です。彼自身がその血と伝統の中で育っていたのです。
 しかし彼はあえて、キリスト教会に入り留まったのは、神の民とされるのは、肉によるのではなく神の約束の言葉によるということを知っていたからでした。

・約束の言葉
 聖書を見ると、確かに神の民とされるのは約束の言葉によるということが明らかになります。たとえばイサクの選びの場合は「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」との御言葉によりました。ヤコブの召しも「兄は弟に仕える」との言葉によっています。そして私たちの場合も、「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる」との御言葉によって、神の民とされています。

・神の憐れみ
 さらに私たちが選ばれたのは、私たち自身の「願いや努力」によったのではなく、一方的な「神のあわれみ」によります。あえて神の民として値しない者、小さな私たちに目を留めてくださったということです。
 私たちは異国民であり、日本人の血と伝統の中に生まれ育ちました。確かに、私たちにも「悲しみと「痛み」があります。しかし私たちの場合も、神の選びとあわれみを優先して、心から応答すべきです。