2011/11/06 ローマ11:1~10 残りの民

・神の恵みの現れは?
 旧約聖書において、神はイスラエル民族に対して恵みの神でした。その恵みは、新約の時代にも失われたのでしょうか。
 そうではありません。神の恵みは不変であって、どのような中でも保たれてきました。現に、パウロにしろ十二使徒にしろ、イエスの復活の証言者であった多くの者たちもイスラエル人でした。また多くの者たちが新約時代においてもキリスト教会の中心となっていました。

・残りの民
 神の恵みはすべての民族というのではなく、その中の「残された者」に明確に現されます。旧約の預言者エリヤの箇所で「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。 」とあります。ここに「残りの民」の思想が明瞭に現れています。大半の民が偶像礼拝にうつつを抜かしていた時にも、神は恵みの選びによって、神の栄光と使命をなす民を用意しておられたのです。このことは新約時代のイスラエル民族についても同じように言えます。
 
・残りの民の使命
 また「残りの民」と言うことは、私たちについても同様に言えます。日本人のほとんどは無宗教、偶像崇拝にうつつを抜かし、あるいは自分を神としています。私たちは神の恵みによって「残りの民」とされています。
 私たちは神の朝露のようです。つまり日本に対する神の恵みのすべてが凝縮しています。神は私たちの礼拝を通して栄光を現し、私たちの証を通して永遠の希望を輝かせいます。

2011/10/30 ローマ10:14~21 福音と宣教

・救いの伝達ルート
 神はイエス・キリストを通して救いを成就されました。その救いの伝達手段はただ福音宣教のみです。山上や荒野で、一人で黙想して救いに至るということも、カリスマ的人間の言葉と霊力によって救われるということもありません。救いの伝達ルートは派遣、宣教、傾聴、信仰のみです。

・派遣と宣教
 まず神によって派遣される事が重要です。旧約の預言者たちにしろ、使徒たちにしろ、神の救いをもたらす者たちは、神によって御言葉を委ねられて派遣されています。彼らもその召命に対して自発的に応答しています。そこで救いのルートの第1歩が始まります。派遣された者たちは神から委ねられた福音のみを宣教します。それは彼らの言葉であってはなりません。また神によって派遣されたものとして継続と忍耐と鍛錬が要求されます。人間は罪ある者/欠点だらけの者ですが、神は人間を宣教者とすることをよしとしておられます

・礼拝と立派(美しさ)
 救いの伝達は、第1に教会の礼拝において実現します。牧師は召命に応えて福音を語ります。牧師は人間的に見れば欠けだらけの存在ですが、神によって「立派」とされています。福音が語られているところには神の国が到来しており、聖霊は神の国の門を個々人の心に開きます。
 
 「信仰は聞くことから始まり」とあり「聞くことはいけにえにまさる」とあります。そこに信仰が起こり、祈りと賛美と献身と奉仕が生まれ、キリストの体が立派に出現します。