2017/2/19 創世記32:9~12,22~32 ヤボクの格闘



・ヤコブの恐れ
 ヤコブは故郷を前にして、兄エサウに対する恐れに囚われていました。それは恵みの神に対する信仰の不徹底さでもありました。そこで兄エサウに会うに際して、贈り物を用意し、さらに幾つかの集団に分け、自分と家族は最後に行くように手はずを整えました。

・ヤボクの格闘
 先に家族を渡河させてから、ヤコブは一人残ると、「ある人が夜明けまで彼と格闘した」とあります。それは肉体と肉体による格闘でしたが、同時に、祈りの必死の闘いでした。さながらこれまでの人生を想起させるような闘いでした。

・祝福の獲得
 「ヤコブのもものつがいを打った」とあります。人間の軸となる部分を、御使いが打ったのです。ヤコブは、さらに必死にすがりつき、泣くようにして祝福を求めました。それで御使いは、ようやく彼を祝福し、彼に新しい名を与えました。イスラエルとは「戦いに勝った」という意味でした。

・朝日の中で
 「太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこを」とあります。彼の姿は、もはや人間の力に頼らず、神の祝福にのみ生きる人の姿でした。ヤコブの体験は、後の信仰者の典型となっています。私たちも祝福の約束をいただいていますが、それを本当に自分のものにするためには、人間の力に頼らず、ただ神のあわれみに頼る戦いを経なければならないようです。

2017・2・12 創世記28:10~22 ベテルでの夢



・ベテルでの夢
 ヤコブはエサウから逃れて、故郷を後に、カランの方面に向かいました。しかしカランは荒野の遙か彼方の町でした。彼は寂しさと不安な面持ちで「ある所」で夜をむかえることになりました。
 「彼はその所の石の一つを取り」枕にして眠ったときに、夢を見ました。「一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている」夢でした。

・神との出会いと約束
 さらに「主が彼のかたわらに立って」とあります。 神が夢の中でヤコブと出会って下ったのです。そしてアブラハム、イサクに与えた契約を彼自身にも与えたのです。個人的に神との出会いを体験することは、大切なことで、ヤコブはひとりの信仰者として目覚めることになりました。
また神は「わたしはあなたとともにあり」「あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう」「決してあなたを捨てない」との約束を与えます。

・闇の中の光
 ヤコブは、朝、目覚めたときに、枕にしていた石を立てて神の記念とし、その場所をベテルと命名しました。その時には、不安も消え、彼の未来に一条の光が差し込んできたのでした。ヤコブの体験は、私たちに参考となる大切な信仰体験です。

2017/2/5 創世記25:10~34 エサウとヤコブ



・リベカの妊娠
 創世記25章では、アブラハムとイサクの祝福を誰がどのようにして継承するかが物語のテーマとなっています。そして人間の色々な努力や葛藤を超えて、神のあわれみが一切を支配していることを啓示しています。
 イサクの妻リベカは不妊の女でしたが、夫イサクが切に祈ることによって、双子を妊娠します。しかし、彼女の腹の中で胎児がぶつかり合っているのに不安を感じて、神の下に行って、伺いを立てています。

・エサウとヤコブ「兄が弟に…」
兄が弟に仕える。」 とリベカは、神から啓示を受けます。兄とは強く、多くの祝福を受け継ぐ者とされ、弟は不用で少ないという意味がありました。当時の社会では、兄は長子として父の財産と祝福を受け継ぐ者とされていました。しかし、神の啓示は人間の思いとは、正反対のものでした。

・長子の権利を巡って
 やがてリベカは兄エサウと弟ヤコブを出産します。エサウは猟師に、ヤコブは天幕で働く人となりました。
 成人したあるとき、エサウが空腹のあまり、長子の権利を食べ物と交換に、ヤコブに譲り渡してしまいました。それはエサウは神の祝福を軽んじ、ヤコブは重んじたからでした。
 しかし聖書は、人間的な素質や駆け引きを超えて、神の絶対的な選び、あわれみによってすべてが展開していることを示しています。


2017/1/29 ピリピ2:25~30 エパフロデト



・エパフロデト…謙遜な人
 パウロはエパフロデトをピリピ教会に派遣することを伝えています。彼は、もともと、ピリピ教会の信徒で、ピリピ教会の献金をたずさえてパウロの元に来ていました。しばらくパウロの下に滞在し、伝道活動を協力し、パウロの「兄弟、同労者、戦友」と呼ばれています。彼は謙遜な人で、自分の病気がピリピ教会に伝わったことで、心配をかけていることをたいへん気にしていました。

・神のあわれみの体現者
 彼は「死ぬほどの病気にかかりました」が、神のあわれみによって癒されるという体験をしました。それはパウロにとっては慰めの体験となっていました。彼は神のあわれみの生き証人となったのです。それはまたピリピの人々にとっては、喜びとなることを、パウロは確信していました。

福音のため生命を捨てる程の人
キリストの仕事のためにいのちの危険を冒して死ぬほどになった」とあります。福音宣教のために死を覚悟して奉仕したことを示しています。エパフロデトは、謙遜さといい、献身姿勢といい、すべてキリストの心構えをもった人であったのです。
 「尊敬を払いなさい」とありますが、このような人こそ教会を建て上げ、コイノニアに喜びと生命を注ぐ器だからです。現代の教会も、このような器によって建て上げられていくのです。