2016/4/24 ヨハネ福音書21:15~19 三度の問い



・ヨハネの子シモン
 ペテロの元々の名はシモンです。彼は、イエスとの出会いを通して「ケパ(ペテロ)」と呼ばれるようになりました。ケパとは岩という意味で、教会のリーダーとなり、礎となって支え導くようにとの意味です。
 確かに、彼はリーダーとしての素質を持った人物で、誰よりもイエスに従うという思いがありました。しかし、肉の弱さも多分にあり、十字架前にイエスを三度否認するという挫折を体験します。

・三度の問い
 復活した主イエスは、そのペテロに対して三度の問いかけをして取り扱われます。「あなたは…わたしを愛しますか」との問いに対して、ぺてろは三度「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」 と応答します。かつて否認したペテロでしたが、主イエスの十字架をとおして愛と恵みを示されて、より深い愛を表明します。

・「わたしの羊を飼いなさい
 これに対して主イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と三度、畳みかけます。それは教会を養い育てる牧者としての働きへの召命でした。ペテロはそれを、しっかりと受け止めて献身し、召命に応えて、その生涯を全うすることになります。
 私たちはペテロとは立場が異なりますが、イエスに対する愛はイエスに対する奉仕として現されるべきであるのは、かわりありません。私たちに対するイエスの召命に、心から献身して応えて行きましょう。

2016/4/17 ヨハネ福音書21:1~14 イエスと共に



・漁へ
 弟子たちは、復活のイエスを信じていました。しかし、どのようにして生活したらいいのか分かりませんでした。そこで空腹を満たすために漁に出かけます。しかし、彼らの生き方が誤っていたために一晩中働いても一匹も捕ることができませんでした。

・イエスのことば
 「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立」ち、弟子たちに語りかけます。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」。その通りにすると「おびただしい魚」が捕れました。これは右側がいいというのではなく、イエスのことばに従うことが大切であることを示しています。

・交わり
 イエスは岸ベで「パンと魚」を用意して「パンを取り魚も同じように」して弟子たちに与えました。主イエスは弟子たちと食事の交わりと共に霊の交わりをされたのです。主イエスとの交わりの中で弟子たちは霊肉共に養われたのです。このようにして、弟子たちはイエスの昇天にいたるまで、訓練されて、成熟した者たちに変えられていったのです。

・イエスと共に
 私たちもこれと同じです。キリストを信じた後、キリスト者としてどのようにして生きて行くか、訓練が必要です。それはみ言葉に聞き従うこと、イエスとの交わりを保つことです。それによって、この地上でもイエスと共に生きることが可能となります。

2016/4/10 ヨハネ福音書20:30~31 いのちを得るため


・The Bookの宗教
 ヨハネ福音書の著者は弟子のヨハネで、「イエスが愛された弟子」と自己紹介しています。それは最も身近でイエスを知り、観察できた者ということです。またヨハネと共にいた使徒団も「彼の証しは真実」と証言しています。
 神の真理は「ことば」を通して伝えるという旧約の伝統がありますが、イエスにある真理も「ことばを通して完全に伝えられるのです。まさしくキリスト教は「The Book」の宗教です。

・「しるし」と神の子キリスト
 ヨハネは福音書を書いた目的の1つはイエスがなした「しるし」を伝えるためであると語ります。「しるし」とは、真理を示すための奇跡ということです。つまりはイエスの7つ奇跡を通して、彼こそ神の子キリストであることを知るためということです。またイエスは奇跡と共に、様々な形で「わたしは…です(エゴ エミー)」と語られ、ご自分でも神の子、絶対者であることを示しております。

・いのちを得るため
また「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため」とあります。「いのち」とは地上のいのち(プシュケー)とことなる永遠のいのち(ゾエー)のことです。地上のいのちは罪があり滅ぶものですが、永遠のいのちは神に愛され、交わりを持ち、永遠に生き、復活するいのちです。私たちは、地上のいのちの弱さを覚え、イエスが提供している永遠のいのちを是非とも獲得すべきです。

2016/4/3 ヨハネ福音書20:19~29 見ずに信じる者は幸い



・イエスが来られ
 週の初めの夕方、復活のイエスは弟子たちがいた部屋に来て、彼らにその姿を現しました。しかし、トマスだけはそこにおりませんでした。彼は誰よりも目に見えるものに執着し、目に見えないものには疎い人物でした。また世界観と視野が狭い傾向がありました。その分、彼が誰よりも愛したイエスを失った時に、絶望感も人一倍に強かったと言えます。

・「見たら信じる」
 他の弟子たちが「私たちは主を見た」と語った時、トマスは「手に釘の跡を見…わきに差し入れてみなければ、決して信じません」と語っています。しかしその心は絶望感に打ちひしがれており、信じる気持ちは毛頭ありませんでした。これはトマスだけではなく、アダム以来、自分の感覚と考えにのみ執着する者の反逆性を帯びた態度です。

・「見ずに信じるものは幸い  
 しかし、主イエスはトマスをも愛して、トマスのためにもう一度、現れ、ご自分の手とわき腹を差しだします。この時、トマスは自分の不信仰と罪に深く気づいて悔い改めています。「私の主。私の神。」との信仰告白は、他の弟子たちを越えた告白となっています。
 最後に主イエスは「見ずに信じるものは幸いです」と語られますが、それは私たちに対しても語っておられることです。  

2017/3/27 ヨハネ福音書20:1~18 復活の朝



・まだ暗いうちに
 マグダラのマリヤは「朝早くまだ暗いうち」に墓に来ました。すると墓から石が取りのけられていたので、ペテロとヨハネに知らせます。彼らが来て墓の中を確認すると亜麻布だけが置いてある、イエスの亡骸は見いだすことができませんでした。彼らは不思議に思うだけでした。「まだ暗いうち」というのは辺りが暗かっただけではなく、彼らの心と信仰が暗いままであったことを暗示しています。

・なぜ泣いているのか
 マリヤは墓に留まって泣いているとはじめにみ使いが「なぜ泣いているのですか」と問いかけます。次にうしろにいたイエスも同じ問いかけをします。
 主イエスは暗闇と悲しみの中にある人に対して、まず「なぜ」と問いかけます。その人は、イエスの前で「なぜ」に答えようとする時、次第に悲しみと絶望から解放される方向に心が向けられていきます。

・復活の朝
マリヤという個人的な呼びかけによって、彼女はイエスを認めます。「羊は彼の声を知っている」とあるとおりです。彼女もまたラボニ」と応答します。
 また主イエスはすがりつくことを禁じます。そして弟子たちにイエスの復活の事実、さらに昇天することを告げるように命じます。目に見えるものに依存せず、未来における再会に向かって生きるように促しているのです。
 マリヤの体験した復活の朝を、私たちも同じように迎えましょう。