2020/4/26 コロサイ4:2~18 目をさまして祈る


・目を覚まして  世にとらわれる私たちは、世の楽しみ、煩い、絶望、悲しみの中で、霊の目は眠った状態になります。そこで「祈り」という手段を通して、目覚める必要があります。その時に、心に神の臨在とキリストの愛と救いの世界が、明るく照らしだされます。  パウロは福音宣教を担う者たちのために、そして自分自身のためにも祈るよう要請します。「キリストの奥義」は、多くの人々の祈りの力でベールが取り去られて、宣教者によって力強く語られ、証しされるからです。 ・外部の人に対して 「外部の人に対して賢明にふるまい…」とあります。外部の人々はキリスト教についていろいろな偏見を持っている場合があります。絶えず「鳩のようなすなおさ」と「蛇のような」賢さが必要となります。そのためには「いつも親切で、塩味のきいた」ことばが大切です。そのようにして「地の塩、世の光」とされます。 ・最後のあいさつ  パウロは彼の周囲にいる弟子たちを紹介した後「私が牢につながれていることを覚えていてください」と自筆であいさつします。「牢」はパウロがキリストの使徒であることの証そのものでした。またキリスト信仰者は、どのような境遇の中でも「目を覚ましていれば」、明るく輝く存在であることを示すことばとなっています。

2020/4/19 コロサイ3:18~4:1 「従うこと 愛すること」


・新しい夫婦関係
 キリスト者はキリストとの霊的関係を目に見える現実でも具体的に表すことが求められます。まずは夫婦関係です。「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」とあり、「夫たちよ。妻を愛しなさい」とあります。キリスト者は地上では互いにキリストに対するように「従い」「愛する」者たちです。まずは夫婦間で信仰が現されるべきです。

・新しい親子関係
「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい」とあります。律法においても両親を敬うように命令されていますが、それを凌駕する自発的従順です。「父たちよ。子どもをおこらせてはいけません」とは、親もまた神の愛を習うことが求められています。戒めるにしても愛が背後にあることが求められています。

・新しい主従関係 
 当時は奴隷制の社会でした。キリスト者の奴隷は、霊的には王とされ自由人とされています。しかし具体的な制度の中では主人に心から従うという姿勢で、キリストへの従順を実践します。また主人は奴隷に対して「正義と公平」が求められます。
 パウロの時代は、現代とは異なった社会制度ですが、私たちもキリスト者として具体的日常生活で「従うこと」「愛すること」そして「正義と公平」を実践しましょう。それが私たちの地の塩としての役割です。

2020/4/12 イースター礼拝 マタイ28:1~20 復活のイエスと弟子

・安息日の翌朝、マリヤたちがイエスの墓を見に行ったとき、大地震が起こり墓石が脇に転がっていました。主のみ使いがそこにいてイエスの復活を告げ、弟子たちにガリラヤに行くように伝えるよう命じます。
 弟子たちは伝え聞いた通りにガリラヤの指示された山に登った時、そこで復活のイエスに出会い、礼拝しました。

・弟子化命令
 復活のイエスは「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命令します。弟子とするとはバプテスマを授け、イエスの教えを守るように教えることです。その弟子たちは、父と子と聖霊の交わりに入れられ彼らもまた復活のいのちを宿すことになります。弟子の姿勢について別の箇所には次のようにあります。「…自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」 16:24

・インマヌエル
「わたしは、世の終わりまで…あなたがたとともにいます」とのイエスの約束が記されています。それはマタイ福音書冒頭にあったインマヌエル(神は私たちとともにおられる)預言の成就を意味します。
 私たちもまた、洗礼に預かり弟子とされた者たちです。心よりイエスに従う姿勢を持ち、約束されているインマヌエルの素晴らしさを味わい尽くしましょう。

2020/4/5 マタイ27:45~54 エリ エリ レマ サバクタニ

・十字架と暗闇
 主イエスは弟子たちに捨てられ、ユダヤ人に捨てられ、ローマ総督のもとで十字架刑に処せられました。その時「全地が暗くなって三時まで続いた」とあります。暗闇は天体や気象現象というよりも霊的な現象で、旧約預言者らによって預言されていた「終わりの日」の出来事です。神が罪に対する怒りを公然と現された現象です。しかしここでは、神の子イエスに神の怒りがくだされています。

・エリ エリ レマ サバクタニ
「エリ エリ レマ サバクタニ」とは詩篇22篇にあるキリスト預言の言葉です。主イエスは予言の成就として叫んだのですが、同時に彼自身の嘆きと苦しみの表出でした。「エリ]とは「私の神」、「レマ サバクタニ」とは「どうして私を見捨てたのですか」という意味です。父の神は永遠の愛でイエスを愛していたのですが、ここでは怒りによって彼を「見捨て」ています。神の子だけが知る永遠の絶望と悲しみです。

・なだめ
 イエスの十字架は一般的に罪の贖いであるとしますが、その本質は「なだめ」です。単に法的な身代わりの死というだけではなく、苦しみが伴うのです。この受難週、「私]のための贖いとなだめの尊さを覚えるようにいたしましょう。

2020/3/29 コロサイ3:15~17 キリストの平和


・キリストの平和
 「キリストの平和」とは、キリストが神と私たちとの間に築いてくださった平和のことです。それは何によっても壊されることがない絶対的平和で、その関係の中で恵み、希望、聖霊と神の愛が私たちに注がれます。「…支配するように」とは、私たちが、それを拒まずに、どのようなときにも心から受け入れることです。

・キリストのことば
 「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ…」とは、ただ覚えるだけではなく、理解して、人生の基礎、柱、屋根として、心に刻むことです。キリストのことばは、即、キリストの平和の具体的手段です。また「互いに教え、互いに戒め」とあるように、み言葉は礼拝と交わりの中で強く、深く心に刻まれます。

・平和の都
「詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌い…」。詩篇とキリスト頌栄の歌、御霊による自由な歌によって、神に対する感謝を心の内に満たし、また外に向かっても現すようにということです。
 このようにしてキリストの教会は平和がやどる神の都として、あらわにされます。現代の人々も、このような群れを待ち望んでいます。