2012/11/18 イザヤ27:1~6 時が来れば

・「その日」のレビヤタン
  「その日」神の民を脅かし、訴えるレビヤタン(サタン)が罰せられます。同時に神は御民を「麗しいぶどう畑」として守り、育み、最高の実を作られます。  このことは旧約時代と比較すれば180度の変化で、すべてイエス・キリストの贖いによって成就することです。このお取り扱いの変化は、御民の喜びであり歌となります。

 ・「麗しいぶどう畑」の歌
  神は「麗しいぶどう畑」を愛情深く見守ります。「絶えずこれに水を注ぎ」「夜も昼も見守って」います。成長の害となる「いばらとおどろ」を踏みつぶします。そのようにして最上の実を育て上げます。
  丁度そのように神は、私たち信仰者と教会を絶えず見守り、愛の業を日々なしておられます。

 ・和を結ぶ
 神は私たちに対して「わたしの」守りに頼るように促します。その条件は信じ、信頼し、「和を結ぶ」ことです。「和を結ぶ」とは、実際に平和の業をなすことです。つまり偶像崇拝を止め、神を第1とした生活スタイルと礼拝を持つことです。

 ・時が来れば
  「時が来れば、ヤコブは根を張り…」とあります。神は御民を日々、守り育てていますが、目に見える変化は「時」が来なければ、しっかりと判別はできません。
  そこで私たちに必要になることは神の約束を信じて、神の「時」を待つことです。「時が来れば」、私たちも「花を咲かせ…実を満たす」のです。

2012/11/11 志の堅固な者と全き平安

・私たちの「強い町」…神の都
 「その日」とは、イザヤにとっては未来の時代ですが、私たちにとってはまさに「今の時」です。この時代に、神は私たちのために「強い町」を建設されました。
  それは目に見える城塞都市ではなく、イエス・キリストを基礎とする霊的な町で、目に見えるいかなる守りよりも強固です。また「ハデスの門」もそれに打ち勝つことができません。

・志の堅固な者
  「強い町」である「神の都」に入ることができる者は、「誠実(アーメン)を守る正しい民」とあります。それは「信仰によって義と認められた者」ということです。さらに「志の堅固な者」です。それは神に心をしっかりと向けて「信頼し続ける人」のことです。

 ・全き平安
  「全き平安」とは、「シャローム、シャローム」ということです。それは地上の力によっては獲得することができません。ただ、神の圧倒的な恵みの力によって実現します。
 地上には必ず患難があり、目に見える「シャローム」は永続しません。しかし「全き平安(シャローム シャローム)」は地上の患難の中でこそ、実現していきます。つまり信仰者の志は、患難の中で強化されていくからです。ローマ5:3~5に次のようにあります。 「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す…。この希望は失望に終わることがありません。」

2012/11/4 イザヤ25:1~9 希望の神

・私の神
  「主よ。あなたは私の神。」とあります。「あなた」と「わたし」の関係は、人格関係を表し、互いの信頼関係で成り立ちます。イザヤは神に対して絶対的信頼を置き、その信頼感の中で祈り、賛美し、崇めています。その関係は、神が招いてくださった結果、成立するものであり、イザヤはその招きに対して、身を投げ出すように応答していました。

 ・砦である神  イザヤが主なる神を信頼するのは、実際に信頼に値する神だからでした。まず、「横暴な者たち」をしずめ、「弱っている者」「貧しい者」たちのために砦となってくださるからでした。神の民は、世において「弱っている者」「貧しい者」です。世の力にたよらず、悪と組むことがないからです。

 ・死を滅ぼす神  さらにイザヤは神である主は、「永久に死を滅ぼされる」神と告白します。神は全知全能であること、御民に対して限りない愛と恵みを注がれること、この2つの信仰によって、この究極の告白をしています。
  この箇所は1コリント15:54 に引用されていますが、主イエス・キリストの贖いによって明瞭にされた真理です。

 ・希望の神  「待ち望んだ私たちの神」とあります。それは希望の神と言うことです。人は期待が裏切られたり、希望を失うときに、崩壊していきます。しかも世のものは必ず期待を裏切ります。ただ私たちに対して、「あなた」「アバ、父」と呼ばせてくださる神のみが、私たちの希望なのです。