2016/8/14 創世記26:1~5,12~25 祝福された人イサク



・祝福された人イサク
 神は、アブラハムに対する約束故にイサクを顧みられました。それに対してイサクは素直に、父の信仰と祝福を受け継ぎました。たとえば、飢饉の際に、人間的知恵によるのではなく、神の言葉に従ってゲラルに留まりました。
 「イサクはその地に種を蒔き、 その年に百倍の収穫を見た」とは、神が彼を祝福し、豊かな者とした具体例です。

・柔和な人
 イサクは族長たちの中では誰よりも柔和な人でした。ペリシテ人たちは彼をねたみ、井戸を塞ぐなど嫌がらせをしましたが、イサクは争うことなく、別の土地で井戸を掘りました。ところがゲラルの羊飼いたちがそこは自分たちの井戸だと主張したので、争うことなく、別の井戸を掘りました。彼は争いは避けましたが、神は彼を祝福されたのです。

・神を恐れる人
 イサクは神の祝福を約束されていましたが、彼自身も神を恐れる思考姿勢を保ちました。神が彼に現れたとき、信仰の応答として「そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った」とあります。神を恐れて礼拝するということが、彼の生活の中心にあったのです。彼の子ヤコブは、「イサクの恐れる方」とイサクの神を表現しましたが、その言葉にイサクの神信仰がそのままあらわされています。

2016/8/7 創世記22:1~14 アドナイ・イルエ



・試練
 イサクが10才位の時、神はアブラハムを試練に遭わせられました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを…全焼のいけにえとして…わたしにささげなさい。」
 厳しい命令であったにもかかわらず、アブラハムはイサクを連れて「翌朝早く…神がお告げになった場所へ出かけて行」きました。そこには「非常に悩んで」という言葉はありません。

・アブラハムの信仰と従順
 アブラハムはたきぎを「イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った」とあります。「火と刀」は決然とした神への従順を示します。イサクもまた父に対して従順な姿が描かれています。この時は緊迫した状況なのですが、二人は「神が備えてくださる」という信仰心故に、心は平安でした。ヘブル人の手紙では、アブラハムは復活信仰を芽生えさせていたと解説しています。

・アドナイ・イルエ
 示された山で、アブラハムは神の命令通りイサクをほふろうとしましたが、御使いは彼を止め、その代わりに1頭の雄羊を備えておられました。このようにして、アブラハムの信仰と従順は神の前に証明され、彼の祝福は確実なものとされました。このアブラハムの信仰こそ、私たちの復活信仰の原型です。

2016/7/31 創世記21:1~14 イサクから出る者



・イサクとイシュマエル
 神の約束の通り、アブラハムとサラの間に男の子が誕生しました。彼の名は神の命令通りに「笑う」を意味するイサクと名付けられました。それは神の力と恵みによる誕生という信仰告白が込められていました。
 しかし「乳離れの日」に、サラはイシュマエルがイサクを「からかって」いる光景を目にします。イシュマエルの「からかい」は、正妻の子を軽んじるということだけではなく、神の恵みと力を無視する行為でした。

・アブラハムの悩みと神の言葉
 サラはアブラハムに対してハガルとイシュマエルを追い出すよう要求します。アブラハムにとっては自分の子のことなので「非常に悩み」ました。その時、神はサラの言うとおりにするようにと語り、さらに「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」と示されます。

・イサクから出る者
 「イサクから出る者」とは、イサクと同じように、神の言葉によって生まれる者、肉ではなく霊による子孫と言うことです。これ以降も、神はアブラハムの子孫と明確にするために、繰り返し肉のものを退け、霊の者たちが祝福の継承者であることを明らかにされます。
 私たちも「イサクから出る者」として、キリスト信仰によって祝福に招かれました。私たちもまた、たえず肉のものを退け、霊のものを保つため、神のお取り扱いを受けるのです。