2010/5/23 Ⅱ列王記5:1~14 ナアマン将軍のきよめ 

・ナアマン将軍
 本日の箇所は、BC800年頃の物語です。当時、旧約の民は北イスラエル王国と南ユダ王国に分断していました。ナアマン将軍はさらに北アラム王国の軍人です。
 彼は英雄でしたが、らい病にかかっていました。当時は誰も癒すことができず、ただ預言者のみが癒すことができるという話を聞いて、北イスラエルに出かけます。

・ナアマン将軍の誤り
 彼が預言者エリシャのもとに行ったときに、預言者は使いを通して「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい・・・。」と語りました。ところがナアマン将軍は、由々しい病気は、自分自身の多くの代価と努力、癒す者の誠意と目に見える手段を尽くさなければならないという先入観とプライドがありました。そこで「怒って帰途に」つこうとしました。

・ナアマン将軍のきよめ
 ところが部下たちのことばによって思い直し、ただ「神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した」のです。「すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった」のです。 聖めと救いは、人間の努力や功績によるのではなく、ただ神のみことばを信じ、従うことでなされるのです。

・キリストにあるバプテスマ
 私たちのバプテスマも、全く同じです。キリストのみことばを信じ、みことばに従って水に浸ることで、きよめと救いは与えられ、同時に、生涯にわたる証印になるのです。

2010/5/16 マルコ12:28~34 神への愛 隣人への愛

・神への愛
 「どの命令が一番大切ですか」との律法学者の質問に対して、主イエスは申命記6:5以降を引用して答えます。「心を尽くし・・・あなたの神である主を愛せよ。」
 これは私たち人間のすべてによって神を愛するように命じたものです。私たちは自己愛に満ちていますが、それを砕いて徹底して神を優先して愛するようにと言う命令です。

・隣人への愛
 次に「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と。
 隣人とは家族や友人、同じ民族のことですが、さらにすべての人という意味もあります。神への愛は具体的に隣人愛で現されるように命令されています。
 私たちは自己中心で自己の益のためには必死になり、それを優先するものです。それと同じように隣人の益を求めるようにと言うことです。
 イエスはあえてこのように語ることにより、律法の世界での命令はそのまま神の国において適用されるべきことを明瞭にしたのです。

・神に愛され、救われてから
 律法学者もイエスの回答に賛同しますが、主イエスは「あなたは神の国から遠くない。」と言われただけでした。
 愛の命令は語っただけでは絵に描いた餅で、実践されなければ意味がないのです。その意味で、律法学者は「遠くはない」が、神の国には行っていないことを明示しています。
 神の国は確かに愛の王国ですが、そのためには、私たちが先に、神によって愛され、キリストの救いを受けなければなりません。そのためには自分の罪の深さを覚えて自らに絶望し、ただ神の愛の中に生きることです。

2010/5/9 Ⅱテモテ1:3~7 母からの良心と信仰

・私たちが産み育てるべきもの
 使徒パウロは人を育てる基本として、「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰」が大切であると述べています。そこからすべての良いものが生まれ出るからです。
 このことは母親と私たちが、目ざすべきポイントです。世の中では知的肉体的能力や様々な技巧が求められるのですが、それ以前に生み育てるべきことから目を離してはなりません。

・きよい良心
 私たちは目に見えることを優先しますが、それでは心と良心は様々な欲と罪に汚れますし、たえず思い煩いの虜になって力を失います。
 「きよい心と正しい良心」とは何よりも目に見えない神に対する一途な心ですが、それは神との交わり、神を見続ける中で養われます。神御自身がきよく、正しい方だから、ご性格が映し出されるからです。
 母親が「きよい心と正しい良心」をもって子どもたちと交わるときに、子どもたちの中にも同じ心が映し出されるのです。

・純粋な信仰
 「純粋な信仰」は「偽りのない信仰」ということです。信仰生活と言いながら、外面の細々としたこと、人の目だけを気にしているならそれは偽りの信仰です。どのような時にも、神を信頼し、神に従うという内なる決意の中で「純粋な信仰」は養われます。
 「そのような信仰は・・・祖母ロイス・・・母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っている」とあるように、私たちの子たちにも映し出されていくのです。「きよい良心」にしろ「純粋な信仰」にしろ良い心は、次世代にも確実に伝播していくのです。

2010/5/2 マルコ12:18~27 アブラハム イサク ヤコブの神

・復活論争
 サドカイ人とは、祭司階級の人々で律法(モーセ五書)だけを受け入れ、死人の復活を否定している人々です。彼らは結婚についての詭弁を用いて復活を否定しようとします。七人と結婚した女は「復活の際・・・だれの妻なのでしょうか。」と。

・聖書と神の力は復活を示す
 主イエスは聖書と神の力は信仰者の復活を示していることを明示します。「人が死人の中からよみがえるときには・・・天の御使いたちのようです」と。
 地上の結婚は肉の弱さゆえの制度です。復活の時、天ではさらにすぐれた生命と絆が与えられます。「御使いたち」はさらにすぐれた生命と絆によって神と結ばれ、互いも結ばれています。復活のことを、地上の枠内で考えてはならないのです。 

・アブラハム イサク ヤコブの神
 さらに主イエスは「モーセの書にある柴の箇所」(主エジプト3:6)から「私はアブラハム イサク ヤコブの神」との言葉を取り上げます。神は族長たちに交わりを与えましたが、それは地上の生涯に留まらないのです。地上の生涯が終えた後にも続き、彼らは神の生命によってなお、生きているのです。神は契約の愛において永遠で、死に勝利する復活の力を有する方です。

・復活信仰に生きる
 私たちの時代は、地上のことだけの時代です。人々の心は、やがて来る死に対する恐怖と不安に満ちています。この時代、私たちは永遠の絆と復活の生命を下さる神を信じ、その礼拝者として生きることが許されているのです。