2014/8/24 ヨハネ福音書9:35~41 盲目が見えるため



・盲人だった者の改心
 盲人だった者は、パリサイ人らの強要を退け、自分の証を貫いたために、ユダヤ人社会から追放されました。彼は、罪人として霊的にも盲目とみなされたということです。
 しかし、主イエスは、彼を見つけ出し、彼の肉の目だけではなく、霊の目を開きます。それによって、彼はイエスを信じ、さらには「イエスを拝した」とあります。

・イエスの裁き
 主イエスは「わたしはさばきのためにこの世に来ました。」と語っております。主イエスがいうところの「さばき」とは、最後の審判における裁きとは異なり、認識におけるさばきということです。主イエスという神の光の中で、世の真偽、善悪が、完全に、逆転するのです。そして世において真とされているもが偽り、世において善とされている者が、悪とされるのです。そのさばきは、最後の審判に、そのままつながります。

盲目が見えるようになるため
 主イエスのさばきは、具体的には「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるため」とあります。
 つまり、神の前で自分が盲目で何も見えず、何も分からないと認めて、主イエスの元に来る者は、心の目が開かれて見えるようになり、永遠の生命に至るということ。
 他方、世において自分を知者であると思って慢心し、主イエスの元に悔い改めることが無いものは、神の前で愚かとされ、永遠の罪に定められるということです。

 私たちは自分が盲目であることを認めて、切に、主イエスの光に照らされるを求めるべきです。

2014/8/03 ヨハネ福音書9:1~7 神の業が現れるため 



・生まれつきの盲人
 道の途中、弟子たちは、生まれつきの盲人を見たときに、その災いの原因は何かについて、主イエスに尋ねています。当時は、誰かの罪の結果、現在の災いや不幸が起こっていると考えられていました。この因果応報の考えは、私たちの社会でも根強く存在し、人を責め、自分を責めて、不幸をさらに深める結果になっています。

・神の業が現れるため
 「神のわざがこの人に現われるため」とは、主イエスの考え方です。神は、不幸や災いを契機として、その人を恵みの対象として覚えられ、その人に恵みの業を現されるのです。確かに、恵みの神に対する信仰の目を開けば、それは事実で、すべての不幸をプラス思考で捕らえていいことが分かります。

・キリストの光のもとで
 私たちキリスト者は、この神の業が自分自身に現されることを信じて生きる者として、またこの神の業を周囲の人々に証するように召されています。
 そのためには、キリストという神の光に対して、心の目を開き、強い信仰を持って歩むことが大切です。