2017/12/24 ルカ2:1~7,11~12 布と飼葉おけ



・2人の王
 ルカ2章の降誕物語には2人の王が登場します。一人はローマ皇帝アウグストであり、彼は人々を力で支配し、人々を搾取する王でした。もうひとりの王は、支配され、搾取される者たちの中に生まれた王でした。その誕生も危機と恐れと悲惨さをともなったものでした。そして後者の王こそが、神の子キリストとして紹介されています。

・布と飼葉おけ
宿屋には彼らのいる場所がなかった とあります。宿屋の客をどかすことなく、神の子は小さい者、貧しい者として謙遜な姿で誕生しました。それでも両親は精一杯の優しさと愛で幼子を受け入れます。「布に包んで、飼葉おけに寝かせた」とありますが、その布と飼葉おけは精一杯の心づくしでした。そして受けとめた時に、彼らの心に神の平和が宿りました。

・私たちの布と飼葉おけ
 御使いは野にある羊飼いにもキリスト誕生の御告げを与えます。羊飼いたちが見たのは貧しい姿の幼子でしたが、御告げによって神の子キリストと信じました。それによって彼らも神の平和と生命に満たされて、賛美が溢れました。
 2000年後の私たちが見ているのはただ福音によって描かれている幼子ですが、言葉と共に差しだされているのはマリヤとヨセフ、羊飼いたちとまったく同じです。私たちも精一杯の優しさと心からの信仰によって受け取るのです。その時、私たちの内にも幼子と共に永遠の生命と平和が訪れるのです。

2017/12/17 ヨハネ1:14~18 ことばは人となって



・ことばは 人となって
 「ことばは人となって…」とあります。「ことば」とはキリストのことを意味しますが、父と同じ神の性質を持つだけではなく、あえて肉体をとって人となったと言うことです。「私たちの間に住まわれた」とは、私たち人間と同じ死と罪が支配する世界で生活したことを意味します。

・「神の子」の栄光
 神の「栄光」は、旧約聖書においてもしばしば現されてきました。シナイ山において、ソロモンの神殿において、様々な奇跡において現されました。「この方」も奇跡とことばによって神としての栄光を現しました。さらに十字架において罪の赦しによる栄光、復活において公に神の子としての栄光を現しました。どれもこれも「この方の栄光」は罪人に対する「恵みとまこと」に満ち満ちています。

・「見た」ということ
 イエスに伴った弟子たちは「この方の栄光を見た」と証言します。彼はイエスの奇跡とことばに栄光を見たのは明らかです。しかしなによりも十字架の姿に輝くほどの栄光を見たのです。初め惨めな姿に躓いていた彼らでしたが、十字架の意味を知らされた時に神としての「恵みとまこと」の尊い姿を心の目で見ることになったのです。
 私たちはこのクリスマスに御言葉をとおして幼子キリストを見るのですが、精霊によって心の目も開かれて「この方の栄光」を輝かしていただくように祈りましょう。

2017/12/10 イザヤ9:1~7 私たちの光



・苦しみと闇の中で
 イザヤはキリスト誕生について預言をしています。それは「苦しみ」と「闇」のあったところ」とあります。それはまた「異邦人のガリラヤ」とあります。この預言の通りに、イザヤの時代から700年後に、イエス・キリストの誕生によって成就することになります。

・大きな光
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」とあります。その光を見た者たちは、「刈り入れ時に喜ぶように 」「分捕り物を分けるときに楽しむ」 とあり、最大限のを味わうことが示されています。
 心の中に照らされる救いの光が、外にも現れ出て「喜び」「楽しみ」となるのです。
・ひとりのみどりご
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」とあります。「みどりご」とは幼子のことですが、その幼子は不思議にも幼子でありながら「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれることになります。救い主であり、神であり、王ということです。

・最後に
 マタイ福音書2章とルカ2章には、この「光」にであった人々のことが記されています。東方からやってきた博士たちは幼子の中に大きな光を見いだして「ひれ伏して礼拝」しています。羊飼いたちは「神を崇め、賛美」しています。彼らはわずかな人数でしたが、私たちはそこに聖い光を覚えることができます。

2017/12/3 エレミヤ50:1~10 神の正義と裁き



・神の裁きと普遍性
 エレミヤ書では南ユダ王国の滅亡について記されているようです。しかし、周辺のすべての国々についても細やかに預言されています。それは他の預言書の場合と同じように、旧約聖書の預言の対象は、ただの一国ではなく全世界の民、全時代の民に対して向けられていることを示しています。

・バビロンの罪と裁き
 エレミヤ書では、バビロン帝国が民の罪を裁く器であるとされ、その通りに、ユダ王国は滅ぼされ、民は捕囚として連れ去られたことが書き記されています。しかし神は公正な審判者として、そのバビロンの罪を決して見逃すことはありませんベルははずかしめられ、メロダクは砕かれた」とあるとおりです。実際に「北から1つの国が…攻め上り」とあるとおり、バビロンはBC530年にメディヤとペルシアの連合軍によって一夜にして滅ぼされてしまいます。

・神の民の救い
 神の民に対して厳しかった神ですが、最終的には、彼らをあわれみ救う方であることも明記されています。彼らが自分たちの罪を明確に認識したときに、バビロンから解放するだけではなく「とこしえの契約」にあずからせようと約束しておられるとおりです。

 私たちはこの契約に加えられた者たちですが、神のお取り扱いは、旧約の民と一緒です。一時的に苦しむことがあっても、結局は、建て上げるためです。苦難にあうときにも、人を憎んだり、復讐するのではなく、一切を神の救いと裁きにゆだねることが大切です。

2017/11/26 エレミヤ37:17~21 その後のエレミヤ



・その後のエレミヤ
 預言者エレミヤは、古代イスラエル民族の苦難の時代に、長い生涯にわたってして活躍した人物でした。彼はその預言故に、人々によって迫害されたのですが、彼の結末は、神に守られた者であることが、明確に示されています。
 
・監視の庭とパン
 37章ではエレミヤはその預言故に迫害されたことが記されていますが、しかしゼデキヤ王によって監視の庭に移されて、かえって患難と死から免れていたことが分かります。確かに軽い拘束があったのですが、エルサレムがバビロン軍によって包囲されて、飢えが広がった中でも、彼にはパンが与えられたのです。

・エレミヤの釈放
 BC586年にバビロン軍によってエルサレムは陥落し、多くの人々は虐殺され、あるいは奴隷として捕囚にされました。しかしエレミヤは敵の将軍によって厚遇されています。彼は鎖から解かれ「国に残された民の中に住んだ」とあります。 

・他の信仰者たち
エレミヤ書にはエレミヤの他に書記バルク、宦官エベデ・メレクのことも記されています。彼らもエレミヤと共に、一時、迫害にあいます。それでも神は小さい者たちをも覚えてくださり、たいへんな困難の中でも、生命は救い出されております。
 すべて「わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです(ルカ9:24)あるとおりです。

2017/11/19  エレミヤ31:3134 新しい契約



・「その日」
 31章「新しい契約」の箇所はエレミヤ書の中心です。エレミヤ書全体はここを中心に構成されていると言えます。預言者たちは一様に、世の終わりを意味する「その日」について預言します。それはキリスト到来のときであり、預言者たちの預言が成就する「その時」です。

・新しい契約
 旧約時代の民は「古い契約」のもとにありました。十戒は石の板に記された文字でしたが、それは外から命令し、人の努力に訴える性質のものでした。結局、人の心は罪悪の塊ですが、その真実が明らかになる結果となりました。バビロン捕囚の出来事はその裁きでした。「新しい契約」は「古い契約」の後に与えられなければならないものでした。人の罪悪が顕わにされた後、神からの恵みとして与えられるものということです。人間の努力によるのではく、恵みの力に基づく契約ということです。

・「心に書きしるす」
 「新しい契約」の特徴は「律法を…彼らの心に…書きしるす」です。つまりは強制によるのではなく、人が自発的愛によって御心をなすようになるということです。
 キリストは十字架前夜に弟子たちと最後の晩餐を共にし、ブドウの杯をもって次のように告げました。「これは、わたしの契約の血です」と、そして十字架の業を成就しました。その十字架によって新しい契約の一切が成就したのです。

2017/11/12 子ども祝福式 創世記18:1~15,21:1~7,ローマ4:21~22



アブラハムへの約束
 アブラハムが85才のとき、神は夜空の星を見させて「あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。

・3人の御使いと約束
 それから14年の年月が過ぎ、アブラハムは99才になっていました。ある暑い日のこと「彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立って 」いました。彼は高貴な旅人たちをもてなしたのですが、彼らはアブラハムに次のように神の約束を告げます。わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」

・サラの笑い
 サラはその言葉を聞いたときに、心の中で笑ってしまいました。お爺さんとお婆さんに子どもなどできるはずはないと思ったのです。しかしアブラハムは、神の約束を心から信じました。

・イサクの誕生
 それから1年が過ぎたときに、神の約束の通りにサラは子どもを産みました。名前はイサクとつけました。イサクとは「笑う」という意味で奇跡の記念としての名でした。神は人の考えを越えた奇跡をなす方なのです。

・ローマ4:21~22
(彼は)神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」

2017/11/05 エレミヤ31:1~8 荒野と恵み



・荒野と恵み
 エレミヤは未来の「その時」について預言をします。それは第一にバビロン捕囚の時についてです。「その時」彼らは苦難を味わうのですが、いわばその「荒野で恵み」得るとあります。神のお取り扱いは出エジプトの昔から同じです。神の民であっても苦難を体験することがあるのですが、そのただ中で神の恵みを発見するのです。

・「出て行って」
 「出て行って休みを得よ」とあります。「出て行く」とは、古い集団、肉的な集団から出て行くということで、結果的に捕囚の民は「出て行った」のです。その先は孤独と苦難がありましたが、そこで新しい神体験が始まることになりました。
 このことは新約の民である私たちの場合もまったく同じです。私たちもまた古いしがらみから「出て行って」神との出会い、霊的安息に入るように神は招いておられるのです。

・永遠の愛
 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」とあります。途切れることなく、妨げられることなく注がれる愛が、永遠の愛です。しかも神の熱心さと深さによる愛です。
 神は私たちをも愛しておられます。その愛に面と向かって出会うのは、私たちの場合も「出て行って」ということです。古いしがらみから「出て行こう」とするときに、不安が伴いますが、それを克服して、はじめて神が備えている新世界に入ることができるのです。

2017/10/15 エレミヤ書24:1~10  二籠のいちじく



第2次バビロン捕囚
 BC597年の第2次バビロン捕囚があった後の預言です。この時、バビロンのネブカデネザル王はエホヤキン王とともに、王族貴族、兵士、職人など国の主だった人々を捕囚として連れ去りました。残った者たちは捕囚の者たちを不憫と思い、自分たちはラッキーと思っていました。

・二籠のいちじく
 エレミヤの預言は、そのような人間的考えを覆す内容でした。「主の宮の前に二かごのいちじくが置かれて」おり、「一つのかごのは非常に良いいちじくで 」「もう一つのかごのは非常に悪いいちじく」という幻でした。神はその幻について、良いいちじくは「捕囚の民」、悪いいちじくは残された者と語られます。それは人々が考えていたこととまったく正反対の運命ということになります。

・どんでん返しの原因…心を尽くし
 どんでん返しの原因についてもエレミヤは預言します。「彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである」。つまり捕囚の民は苦難の中で悔い改めて、主なる神に立ち返ることになり、神の祝福を受けて、帰還することになるということです。彼らの子孫は、やがてキリスト出現を目撃し、新生することになります。反対に残った者たちは、心高ぶったまま悔い改めることなく、神に憎まれ永遠に滅び尽くされるのです。