2012/7/22 イザヤ2:10~22 神にのみ栄光

・「その日」の裁き
  聖書の歴史観は、はじめがあり、終わりがあるというものです。神は正義の神であり、その基準に従って、「その日」に徹底的な審判を下されます。
  多くの者たちは裁きの対象となり、「主の恐るべき御顔」「ご威光の輝き」を避けて、逃げ惑うというのです。それはさながら、日陰の虫たちが突然太陽に照らしだされた時のようです。

 ・すべての高慢が低くされる
  主なる神が、特に裁きの対象とするのは、「高ぶる者」「高慢な者」です。また木々を偶像化する者たち、山々を偶像化する者たち、全て主なる神以外の者を崇拝する者たち、人間の文明を誇り、主なる神を排除する者たち、人間とそのエゴに執着する者たちです。

 ・神のみに栄光  そして「その日」には、「主おひとりだけが高められる」とあります。主は天地創造の神であり、絶対的な支配者です。また主なる神だけが良さと優れた性質をもち、卓越した知恵と力に満ちた存在者です。
 すべては主なる神を高め、たたえなければならないのです。被造物も主なる神を高め、一切の栄光を帰すときに調和と幸いを回復するのです。

 ・「その日」を前に  私たちは、「その日」の裁きの前に、預言者を通して警告が与えられています。そこでそれを良く覚えて、自分の高慢を砕いて、へりくだるべきです。またキリストをとおして救いの道に導いてくださっている神を心より崇めるべきです。

2012/07/15 イザヤ2:1~5 「終わりの日」に

・「終わりの日」に
  イザヤも他の預言者たちも、共通に預言するのは「終わりの日」についてです。神は歴史の主であり、一切を支配します。主なる神の支配は、「今の時」には隠されていますが、「終わりの日」には、明々白々と顕にされます。

 ・主の家の山
  「主の家の山」とは、神殿があったエルサレムのことです。「今の時」は、周辺の強国に絶えず侵略され、その神も宗教も軽んじられていました。しかし「終わりの日」には、どの山よりも高く「そびえ立つ」と預言されます。それは世界のどの宗教よりも、どの神々よりも、格段に優れた宗教と神として、本来の姿を現すということです。

 ・主のことばが出て
  「終わりの日」に、主なる神の救いは、世界中の民族に対して、開かれます。そこで万民はそこに向かい、救いの道、救いの言葉を切望するのです。
  その道、また言葉とは主イエス、キリストの救いの言葉、福音です。彼は預言に基づいて到来した救い主であり、彼の言葉はことごとく純粋で、真実です。すべて求める者に与えられます。

 ・主の光に歩もう  現在に至るまで、多くの民族がキリストの福音を求めて、その救いにあずかっています。キリストご自身が光であり、永遠の命です。そして救われる者たちは光のなかに入れられます。
  私たちの民族は、遅れて「主の家の山」に向かっていますが、自分自身で意思し、また互いに「主の光に歩もう」と励まし合いましょう

2012/7/08  イザヤ1:1~9,18~20 罪が緋のようでも

・イザヤ書
  預言者イザヤは紀元前740~690年ころにかけて活躍しました。内憂外患の時代で、外からはアッシリア帝国の進出、内では神殿礼拝と律法主義に限界が見られた時代でした。

 ・旧約時代と隠された反逆心  「わたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった」と非難しています。神が民をカナンの地に招き入れ、旧約律法を与えて祝福したのですが、反対に彼らの反逆心は増大したということです。
  彼らは神殿と律法の諸規則を持っていましたが、表面的に守るだけで、普段の生活で悪をなしていました。つまり表面的宗教生活で自己義認をなし、決して悔い改めることなく行いと心は罪に満ちていました。

 ・来たれ、論じ合おう
 「来たれ、論じ合おう」とあります。神が一人一人をご自分の前に招いています。そこは何も偽ることはできない神の法廷です。そこで神は私たちの罪を明瞭にされます。次には、神の絶対的恩寵を徹底して、私たちの心と魂に示そうとしておられるのです。

 ・罪が緋のようでも
 「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」  神の前で私たちの罪は緋のように赤々と示されます。しかし同時に、それらが全く清められて、純白の雪のようにされるのです。
 神のもとには、私たちの想像をはるかに超えた恵みと聖めが用意されているからです。それはイエス・キリストによる贖いです。

2012/7/1 ローマ16:17~27 サタンを踏み砕く

・学んだ教え
  最後に、使徒は「学んだ教え」から離れないように、強く勧告します。それはイエス・キリストの福音です。神が預言者たちに啓示し、イエスご自身も宣教した「教え」です。そこに一切の救いの宝と生命が隠されているのです。

 ・異端と分裂を避ける
  教会には、色々な悪が忍びこんできます。特に、「教えにそむいて、分裂とつまづきを引き起こす人たち」を警戒する必要があります。
  「教え」は教会にとって、遺伝子のようなものです。それが健全であれば、健全なキリストの体としての教会が、建て上げられます。しかし、それが傷ついたり、曲げられたりした時に、教会も傷つき、さらに分裂と躓きまで起こってくるのです。

 ・サタンを踏み砕く
  色々な背きを起こす人々の背後にあるのはサタンです。サタンとは敵対者という意味であり、神の業に敵対し、人間の心に背きの思いを吹き込みます。その結果、世の中に色々な汚れ、腐敗、争い、戦争まで起こってきます。
  しかし、私たちが「福音の教え」を忠実に学び、それに従って生きるときに、「サタンを踏み砕く」ことになります。そして「平和の神」の臨在が際立って現れるのです。