2010/2/14 マルコ10:35~45 「神の国」の姿勢

・ゼベダイの子たちの頼み事
 ゼベダイの子たちは、エルサレム入城を前にして、神の国が実現すると感じ、イエスの栄光の座で高位につくことができるように頼み事をしました。誰にでも、人の先に立ちたいという願いはあるのです。
 主イエスは彼らの内に神の国について誤った考えがあることを知りつつも、「人の先に立ちたい」という願いを受け止めます。そして主イエスは彼の「杯」と「バプテスマ」を共にするべきことを確認します。

・地上の国と神の国は原理が違う
 さらに弟子たちすべてに対して、地上の国と神の国は原理が全く異なることを示します。地上の国では、支配者は自己を中心にして人々を支配しようとし、その結果、争いが絶えません。
 しかし神の国では先に立つ者は、自己を神に従わせて小さくし、人々に仕えます。人々も互いが互いに使えようとします。そこには平和が宿ります。

・「神の国」の姿勢
 「人の子」とは神の子キリストのことで、彼は「神の国」の王です。彼は人となって地上に来て、ご自分で人々に仕えることで、神の国の姿勢を示します。その仕え方は徹底しており、実に十字架の死に至ります。
 私たちは、彼の姿から学ぶだけではなく、自ら彼の贖いを受け、彼に仕えていただくことで、「仕える」心と姿勢を身につけることができるのです。

2010/2/7 マルコ10:23~31 ラクダと針の穴

・裕福な者には「何と難しいことか」
 主イエスの時代の人々は、裕福な者こそが神の国に近いと考えていました。裕福なのは神の祝福のしるしであり、神殿ですぐれた犠牲を捧げることも寄進もでき、富が現世と来世の幸いの保証になると考えていたのです。
 しかし主イエスは「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう」と再三に渡って語られます。

・ラクダと針の穴
 「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
 ラクダはユダヤで見られる最大の動物です。体高が2メートル以上あり巨大です。「針の穴」は裁縫で使う針の穴で今も昔も、身近にある最も小さい穴です。ラクダが針の穴を通ることができないことは、一目瞭然です。
 主イエスはこのたとえを通して「裕福な者が神の国にはいることができないことをユーモアを交えて、弟子たちに示しています。たとえによって、自分たちの考えの愚かさがクッキリと映し出されるのです。
 そして地上の富によって神の国には入れず、本当の幸福も勝ち取ることができないと分かるに従って、神の国の真理が、いよいよ明瞭にされます。

・神にはできる
 「人にはできないことですが・・・神にはできるのです。」
 神のみが、愚かな人間を神の国に入れる奇跡をなすお方です。神はひとり子イエス・キリストを遣わして、彼によって入国する道を備えられました。私たちはただ、一切の富も誇りも捨てて、彼を信じる信仰によって入らせていただくのです。

2010/1/31 マルコ10:17~22 金持ちの青年の話

・金持ちの青年
 イエスの元にきた人は金持ちの青年役人であったようです。財産家で身分が高く、生まれも能力も「良い」人でした。彼は「永遠の生命」を求めてイエスの元に来ましたが、「尊い先生」という呼び方に、彼の求道手段が垣間見られます。「尊い」とは「良い」「善」等という意味があり、彼は自己愛の上に多くの「良さ」を積み上げて、「永遠の生命」に到ると考えていたのです。
 しかし主イエスが指摘するように神だけが「尊く」「良さ」「善」であるお方です。人間には「尊さ」などなく、自己の芯が腐っているのです。青年の求道手段は、根本的に誤っていましたし、律法の本質からも遠く隔たっていました。

・青年の求道心の誤り
 主イエスは青年の求道心の誤りを見抜き、彼自身も気づくように語ります。
 「あなたには、欠けたことが一つあります。・・持ち物をみな売り払い」
 自己愛による求道は自己矛盾に陥ります。神が求める「良さ(善)」はそれを捨てる隣人愛であり、ただイエスと恵みを受けることによってのみ可能です。

・青年の悲しみとイエスの慈しみ
 青年は自己を捨てきれずに[悲しみながら立ち去り」ますが、その姿はすべて自己愛を芯に自分を「良く」しようとする者の姿です。
 またイエスの眼差しは、そのような「私たち」が自分の誤りに気づいて、彼のもとに立ち返ることを切望する愛の眼差しです。