09/02/01 らい病人のきよめ マルコ1:40~45

・ライ病人の求め
 ライ病人は旧約律法では宗教的にも、社会的にも、汚れた者とされ、一般の人々との接触も禁じられていました。それゆえ彼らは、肉体の疾患とともに魂に苦痛を覚えていました。新改訳第3刷の「ツァラト」とはヘブル語で「ライ病(汚れ)」を意味します。
 「ひとりのらい病人」は、その苦痛にあって主イエスにきよめられることを願います。ひざまずいて「お心一つで、私はきよくしていただけます」とは、強い信仰です。イエスが神の子としての権威と力を持つ存在ということを信じています。

・「わたしの心だ」
 「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」」
 らい病人の求めは、イエスの心の琴線に触れ、「イエスのきよめる心(意志)」を引き出しました。手が触れたのは、明瞭にイエスの意思を表すためです。その心と言葉が接点となって、彼はきよめられ癒されたのです。

・ライ病人のきよめ
 しかしライ病人は、本当の「きよめ」を知らないまま、イエスの元から去ってゆきました。それは肉体ではなく魂のきよめ、罪からのきよめです。この方が人に永遠の生命と平安、そして喜んで神に仕える心を与えるのです。
 もとハンセン病患者の谷川秋夫さんはこの点を証ししています。病気が癒されたこと以上に、主イエスによって罪からきよめられ、神に仕えることができる幸いについてです。そして主イエスを知る毎日について次のように語ります。「確かに肉体的には辛いこと、苦しい事もありますが、なにか日々新たにされているという実感があります。」

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