09/4/5 キリストの受難 ピリピ2:3~11

・自己中心と虚栄心の時代に
 私たちの時代は個人の自由を大切にする時代ですが、同時に自己主張が強い時代です。また自分が目ざす人物像というとテレビの有名人であることが多く、それは一歩間違うと自己中心と虚栄に向かわせてしまいます。そこで私たちは、私たちの目ざすべき人物像であるキリストから学ぶ必要があります。

・キリスト受難と謙遜
 キリストは神の子で、神の御姿を持つ方です。しかし地上に来られた姿は、それらの栄光をかなぐり捨てた姿でした。「ご自分を無にして、仕えるものの姿」とは、そのことです。
 皆が、偉くなって誰かに仕えてもらいたい。輝かしく脚光を浴びたいと願っている時代に、神の子が示した姿です。
 「ご自分を卑しくし・・・実に十字架の死にまでも従われた」とあります。父の神に対する従順ゆえに、意志的にご自分を卑しく、低くしていかれました。罪人の傾向は、自分を高くして「神のように」なろうとするのと反対の姿勢です。
 「十字架の死にまで従う」というのはキリストでなければできないことでした。しかしそのようにして、神が望まれる人間の基本的姿勢を示されたのです。

・神が望まれる人間像
 キリストの十字架の姿は肉の眼には卑しく惨めに見えますが、神の目には何よりも栄光に輝く高価な姿でした。神の外面的栄光以上の深い輝きとみなされたのです。それゆえ神はキリストを「すべての名にまさる名」を与えたのです。
 私たちもまた「イエス・キリストは主です」と告白する者たちです。キリストの従順に少しでも学んで、本当の栄光の姿を刻んでゆきましょう。

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