2011/6/26 ローマ6:12~14 義の器として

・死ぬべき体を
 私たちは終わりの日に新しい体をいただきますが、地上ではなお「死ぬべきからだ」を持ちます。またそれは「罪のからだ」であり、「無能なからだ」です。
 しかし神は、私たちをキリストのゆえに恵みの支配におき、「死ぬべきからだ」をも生かして用いてくださいます。

・罪に委ねてはならない
 私たちが「死ぬべきからだ」を用いていただくためには、方向転換が必要です。まずは、これまで自己中心に生き、罪と情欲のままに生きていた生き方を改めなければなりません。それは罪と悪魔に対して「自分の手足を「不義の器」としてささげている生き方なのです。つまり神に対して積極的に敵対する生き方であったということです。

・義の器として捧げる
 「義の器」とは、神に喜ばれる道具ということです。「死ぬべきからだ」であっても、キリストによってきよめられており、神を喜ばせ、神のために用いられる器、道具とされているのです。
 ただここで大切なことは「ささげる」という意志と献身の心です。それはちょうど、車のギアに似ていてニュートラルからドライブにギアチェンジすることなのです。それでもって車は前進するのです。

・満たされた生涯
 「・・・ささげる」ことは、一回で終わることではありません。神が要しておられる礼拝において、毎日のデボーションのときに何回も捧げ続けることで、新鮮さをいつも保ち、いよいよ通りよい義の器とされるのです。

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