2010/09/12 ローマ2:1~16 裁く人ではなく

・すべて他人を裁く人
 神の前で弁解の余地がない第2種は「人を裁く人」です。その典型がユダヤ人でした。彼らは律法を知っていることをいいことに、自分たちはすべての異邦人よりも義人であると思い上がっていました。そして律法に基づいて人々を裁き批判していたのです。しかし、実際は自分たちも同じようなことをしていたのです。

・自己義認の人々
 彼らは自己義認の人々で、人の悪を非難することで自分の正しさを確認していたのです。しかし彼らの判断力は曲がっており、人の欠点だけを取り上げ、自分の悪については目をつむっていたのです。
 彼らは神の前に立つことなく、ただ人との比較により相対的に自分を義としていたに過ぎなかったのです。これはユダヤ人だけではなく、すべての人が持つ傾向です。
 
・裁きを免れることはできない
 使徒は彼らに対する神の裁きを明示します。神は律法を持っている知っているという基準ではなく、それを行ったかどうかを基準として裁きます。その時には、心の底に隠れたことも顕わにされて裁かれるのです。
 私たちは、「裁きの日」の前に自分の実態を神の前で知らされることが大切です。

・裁く人ではなく慈愛の人として
 「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」とあります。私たちが神の前に自分の罪を認めるときに、神は裁くのではなく、深い慈愛を示し、寛容の心をもって、私たちの罪を赦し、完全に洗って下さいます。そして私たちは神の慈愛を受けて、私たち自身も慈愛の人に変えられていくのです。

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