2010/6/20 創世記22:1~14 父親の価値観

・試練において
 神は「全焼のいけにえとしてイサクを・・・ささげなさい」と命令し、アブラハムを信仰の試練にあわせられました。試練の中で、信仰者はますます神に対する姿勢を整えていきます。アブラハムはみことばに対して即座に応答します。翌朝早く、イサクを連れて神の山に向かいます。

・父の態度・・・刀と火
 三日目にその山が見えたので、アブラハムはイサクと二人だけで山に向かいます。イサクには薪を背負わせ、自分は「火と刀」を手にとって進んでいきました。
 「火と刀」は息子を完全に神にささげようとする信仰と献身の姿です。子供は父の背中を見ると言われますが、イサクはそこに父の神信仰を見ています。

・父と子の会話
 アブラハムとイサクの会話は父と子の会話の理想型です。子の質問に父は優しく威厳をもって答えています。子には色々な不安や恐れがあります。しかし父は「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる」と神の恵みに対する全幅の信頼を告白しています。子は、父の態度と言葉を通して父の価値観を知り、それを自らの価値としていきます。

・父親の価値観
 現代社会は病んでいますが、それは社会全体が真実の価値観を喪失しているからです。この時、キリスト者の父は子供たちに自らが尊しとする方を真実で明瞭な形で知らせていくべきです。

2010/6/13 マルコ13:1~13 最後まで耐え忍ぶ

・初臨から再臨までの時代
 主イエスは弟子たちに対して初臨から再臨までの時代について展望を与えます。その時代はもやはエルサレムの神殿中心の時代ではなくキリストの弟子たちの時代/教会の時代です。しかしそれは産みの苦しみの時代で、その苦しみを通して教会は完成と栄化に向かうのです。

・惑わされない、あわてない
 この時代、多くの偽キリストが登場してキリスト者を惑わそうとします。また戦争や地震、飢饉の時代もあって、サタンは神の臨在を疑わせてあわてさせようとします。
 私たちは短絡的な判断をしないで、神の前に静まって祈り正しい判断をする必要があります。

・福音を証する
 苦しみの時代は、福音が拡大するときです。あらゆる機会が福音宣教のための好機となります。教会は、時が良くとも、悪くとも福音宣教を心掛けるのです。「あらゆる民族に宣べ伝えられなければ」というのが、神のビジョンです。

・聖霊に頼る
 福音の証は、人間の業ではありません。聖霊が伴って私たちに代わってあかしさせてくださると言うことを信じるべきです。証だけではなく、私たちの生活の全般は聖霊の導きの中にあり、あらゆる時が好機とされ、その人自身も聖められます。

・最後まで耐え忍ぶ
「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」とみ言葉の通りです。忍耐する中で、聖霊の御業は完全に完成に向かい、神の救いの世界は成熟、完成するのです。

2010/6/6 マルコ12:38~44 礼拝の心得

・律法学者の偽善に対する警告
 主イエスは律法学者たちの偽善に気をつけるように警告されます。彼らは自分の敬虔さ、権威、優越さを人の面前にアピールするためにのみ心を配っていました。「長い衣を着て歩き回ったり、広場であいさつされる・・・会堂の上席、宴会の上座が大好き」でした。しかし偽善は人の目はごまかせても、神の目には悪として判断され、「人一倍きびしい罰を受ける」のです。

・貧しいやもめの献金
 正反対の例として「やもめの献金の話」が紹介されています。貧しいやもめがレプタ銅貨2つ(約100円)を投げ入れました。それは金額としては小さいものでしたが、貧しいやもめにとっては「生活費の全部」でした。主イエスは「どの人よりもたくさん投げ入れた(献金した)」と最大限の評価を与えました。

・礼拝の心得
 この2つの物語を通して、主イエスは私たちに礼拝と信仰生活の心得を示しておられます。第1に、私たちは偽善であってはならないと言うことです。人の目を気にしてばかりでは、いくら人の評価を得たとしても、神の前では「きびしい罰」を受けることになります。
 それに対して、私たちの奉仕、ささげ物が、いくら小さいものでも、神様の前に精一杯捧げたものならば、神は「善し」としてくださるのです。目に見えない神を信じて、心からのささげ物をすると言うことが大切なのです。

2010/5/30 1ヨハネ5:14 お母さんの祈りは聞かれた


■神に対する確信としての祈り
 私たちは神を信じています。その具体的な姿は「神はその願いを聞いてくださる」という確信に基づいた信仰生活によって現されます。次に祈りの確信によって歩んだ人の証を紹介します。
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Nさんは12才の長女、9才と8才の男の子を持つお母さんでした。よく証し祈る方でした。男の子が買い物の帰り道に50円玉を落としたことがありました。Nさんはその子とともに祈り、暗くなるまで探し続けてついに見つけたことがありました。

■それから数年後、Nさんは顎下に悪性黒色腫の癌ができました。それが他の部分にも転移して闘病生活が始まります。初めて入院したときに、「これから神によって派遣されて伝道旅行に行く」という思いが与えられていました。そのように入院生活の間に同室の人々など16人の魂が救いに導かれました。

■しかしこの間、Nさんの気がかりは子供たちのことでした。特に長女のムちゃんのことでした。ムちゃんは自分がお母さんのようになって弟たちの面倒を見ないといけないと思い。気負いとプレッシャーでかえって家事が嫌いになり、皆と衝突するばかりだったからです。お母さんは祈りました。

■2年半の闘病後、お母さんは息を引き取りました。ムちゃんは「お母さんは天国に行ったのだ」と確信してはいても、お母さんの病気の苦しみや自分の身勝手さを思いおこしては心の傷になっていました。

■けれども数年後、お母さんと同じようにして祈りながら過去を振り返ったとき、お母さんのすべての祈りは今も働き、その通りに聞かれているのだと気がつきました。多くの人が救われたこともそうですが、その他に、兄弟が仲良くなり、さらにムちゃんもが家事が大好きになっていることなどもです。

2010/5/23 Ⅱ列王記5:1~14 ナアマン将軍のきよめ 

・ナアマン将軍
 本日の箇所は、BC800年頃の物語です。当時、旧約の民は北イスラエル王国と南ユダ王国に分断していました。ナアマン将軍はさらに北アラム王国の軍人です。
 彼は英雄でしたが、らい病にかかっていました。当時は誰も癒すことができず、ただ預言者のみが癒すことができるという話を聞いて、北イスラエルに出かけます。

・ナアマン将軍の誤り
 彼が預言者エリシャのもとに行ったときに、預言者は使いを通して「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい・・・。」と語りました。ところがナアマン将軍は、由々しい病気は、自分自身の多くの代価と努力、癒す者の誠意と目に見える手段を尽くさなければならないという先入観とプライドがありました。そこで「怒って帰途に」つこうとしました。

・ナアマン将軍のきよめ
 ところが部下たちのことばによって思い直し、ただ「神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した」のです。「すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった」のです。 聖めと救いは、人間の努力や功績によるのではなく、ただ神のみことばを信じ、従うことでなされるのです。

・キリストにあるバプテスマ
 私たちのバプテスマも、全く同じです。キリストのみことばを信じ、みことばに従って水に浸ることで、きよめと救いは与えられ、同時に、生涯にわたる証印になるのです。

2010/5/16 マルコ12:28~34 神への愛 隣人への愛

・神への愛
 「どの命令が一番大切ですか」との律法学者の質問に対して、主イエスは申命記6:5以降を引用して答えます。「心を尽くし・・・あなたの神である主を愛せよ。」
 これは私たち人間のすべてによって神を愛するように命じたものです。私たちは自己愛に満ちていますが、それを砕いて徹底して神を優先して愛するようにと言う命令です。

・隣人への愛
 次に「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と。
 隣人とは家族や友人、同じ民族のことですが、さらにすべての人という意味もあります。神への愛は具体的に隣人愛で現されるように命令されています。
 私たちは自己中心で自己の益のためには必死になり、それを優先するものです。それと同じように隣人の益を求めるようにと言うことです。
 イエスはあえてこのように語ることにより、律法の世界での命令はそのまま神の国において適用されるべきことを明瞭にしたのです。

・神に愛され、救われてから
 律法学者もイエスの回答に賛同しますが、主イエスは「あなたは神の国から遠くない。」と言われただけでした。
 愛の命令は語っただけでは絵に描いた餅で、実践されなければ意味がないのです。その意味で、律法学者は「遠くはない」が、神の国には行っていないことを明示しています。
 神の国は確かに愛の王国ですが、そのためには、私たちが先に、神によって愛され、キリストの救いを受けなければなりません。そのためには自分の罪の深さを覚えて自らに絶望し、ただ神の愛の中に生きることです。

2010/5/9 Ⅱテモテ1:3~7 母からの良心と信仰

・私たちが産み育てるべきもの
 使徒パウロは人を育てる基本として、「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰」が大切であると述べています。そこからすべての良いものが生まれ出るからです。
 このことは母親と私たちが、目ざすべきポイントです。世の中では知的肉体的能力や様々な技巧が求められるのですが、それ以前に生み育てるべきことから目を離してはなりません。

・きよい良心
 私たちは目に見えることを優先しますが、それでは心と良心は様々な欲と罪に汚れますし、たえず思い煩いの虜になって力を失います。
 「きよい心と正しい良心」とは何よりも目に見えない神に対する一途な心ですが、それは神との交わり、神を見続ける中で養われます。神御自身がきよく、正しい方だから、ご性格が映し出されるからです。
 母親が「きよい心と正しい良心」をもって子どもたちと交わるときに、子どもたちの中にも同じ心が映し出されるのです。

・純粋な信仰
 「純粋な信仰」は「偽りのない信仰」ということです。信仰生活と言いながら、外面の細々としたこと、人の目だけを気にしているならそれは偽りの信仰です。どのような時にも、神を信頼し、神に従うという内なる決意の中で「純粋な信仰」は養われます。
 「そのような信仰は・・・祖母ロイス・・・母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っている」とあるように、私たちの子たちにも映し出されていくのです。「きよい良心」にしろ「純粋な信仰」にしろ良い心は、次世代にも確実に伝播していくのです。

2010/5/2 マルコ12:18~27 アブラハム イサク ヤコブの神

・復活論争
 サドカイ人とは、祭司階級の人々で律法(モーセ五書)だけを受け入れ、死人の復活を否定している人々です。彼らは結婚についての詭弁を用いて復活を否定しようとします。七人と結婚した女は「復活の際・・・だれの妻なのでしょうか。」と。

・聖書と神の力は復活を示す
 主イエスは聖書と神の力は信仰者の復活を示していることを明示します。「人が死人の中からよみがえるときには・・・天の御使いたちのようです」と。
 地上の結婚は肉の弱さゆえの制度です。復活の時、天ではさらにすぐれた生命と絆が与えられます。「御使いたち」はさらにすぐれた生命と絆によって神と結ばれ、互いも結ばれています。復活のことを、地上の枠内で考えてはならないのです。 

・アブラハム イサク ヤコブの神
 さらに主イエスは「モーセの書にある柴の箇所」(主エジプト3:6)から「私はアブラハム イサク ヤコブの神」との言葉を取り上げます。神は族長たちに交わりを与えましたが、それは地上の生涯に留まらないのです。地上の生涯が終えた後にも続き、彼らは神の生命によってなお、生きているのです。神は契約の愛において永遠で、死に勝利する復活の力を有する方です。

・復活信仰に生きる
 私たちの時代は、地上のことだけの時代です。人々の心は、やがて来る死に対する恐怖と不安に満ちています。この時代、私たちは永遠の絆と復活の生命を下さる神を信じ、その礼拝者として生きることが許されているのです。

2010/4/25 マルコ12:13~17 神のものは神に

・試みと罠
 パリサイ人とヘロデ党の者たちは、税の問題でイエスをためして罠に落しいれようとしました。パリサイ人は異教徒の支配者に税を納めることを嫌い、ヘロデ党は賛成していました。イエスが税を納めることに賛成すれば、パリサイ人が不敬虔と言ってイエスを非難でき、反対すれば皇帝に対する反逆者といって訴えることができます。 

・カイザルのものはカイザルに
 イエスは銀貨をもってこさせてそこにカイザルの肖像と銘が刻まれていることを確認させます。そして 「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」と。
 イエスは世の権力者に税金を納めること、その支配の中で生活することを認めているということです。ローマ13:1にも「存在している権威はすべて、神によって立てられたもの」とあるとおりです。
 
・神のものは神に
 「神のものは神に返しなさい。」
 人間の心は神の形に似せてつくられ、それは神のものです。それは誰が何といおうと神に返さなければならないと言うことです。このように主イエスは、神の領域は、絶対に不可侵であることを宣言しているのです。

・私たちの日常と礼拝
 私たちはこの国と社会の中で生活しています。また家庭や職場があります。毎日の生活でそのしきたりに従うことは大切なことです。しかし週1回の礼拝は、一切の世の煩いを避けて、「神のものは神に返す」ために、イエス・キリストの神に礼拝するのです。

2010/4/11 マルコ12:1~12キリストを礎石とする

・ぶどう園のたとえ
 主イエスは「ぶどう園のたとえ」を通して、「神の国」の祝福がユダヤ人から取り去られたこと。そして異邦人に与えられるようになったことを示します。
 神はユダヤ人たちに対して預言者たちを送り、さらにはひとり子キリストを送って誠実と恵みを示しました。ところがユダヤ人たちは殺して反逆心と邪悪さを顕わにしたのです。その結果、神の国は彼らから取り去られ異邦人に渡されたのです。

・見捨てた石が礎石に
「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。」
 主イエスは、別のたとえで捨てられたキリストが異邦人教会の「礎の石」となったことを示します。キリストはユダヤ人たちによって捨てられ殺されましたが、復活して新しい教会の礎石となったのです。神は初めから異邦人の救いを計画しており、それはユダヤ人の反逆により「奇跡的に」実現しました。
 今や、キリストは異邦人に、そして私たちの教会にも救いの礎として提供されています。すべて私たちに対する神の愛とみ力によっています。

・キリストを礎石とする
 私たちはキリストを礎石として教会生活、信仰生活を築き上げるべきです。そのためにはどのような時にも彼に信頼することが大切です。慌てて業をなすのではなく、静まって信じ続けることです。また「自分の思い」「人間的な欲」を中心とするのではなく、徹底して神の言葉と御心を求めることです。行いと思いにおいて聖さを保つことです。さらに礼拝を通して霊のいけにえをささげることです。(Ⅰペテロ2:4~6)

2010/4/4 イースター礼拝 ヨハネ20:24~29 見ずに信じる者は幸い


・疑り深いトマス
 主イエスが復活してから使徒たちに現れたとき、トマスだけはそこにいませんでした。「私たちは、主を見た」との使徒たちの言葉を信じることなく、彼は次のような暴言を吐きました。「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」
 トマスは超自然の世界を受け入れず、ただ見る触るの世界だけにこだわるところがある人間でした。しかしそれは誤りであり、不信と反逆を増大させる態度です。

・トマスの悔い改めと信仰告白
 主イエスはそのトマスを愛し覚えておられました。彼の前に現れて、傷ついた手とわき腹をさらします。
 トマスは即座に、イエスの愛を知ると共に悔い改めました。もはや触って確かめるなどと言う不遜なことはしませんでした。
 「私の主。私の神。」との信仰告白は彼の悔い改めから生まれました。

・見ずに信じる者は幸い
 主イエスは「見ずに信じる者は幸いです」と語ります。自分の感覚ではなく、聖書の言葉を通して信じることの大切さを示しております。復活も永遠の生命も神の国も、目に見えない世界です。感覚だけで知ろうとする時に限界があり、不信が生まれます。それはただ「見ずに信じる信仰」だけで知ることができる世界なのです。
 聖書は、神が私たちのために、復活の生命、神の愛、永遠の希望を与えようとしていることを知らせているのです。

2010/3/28 ヨハネ19:28~37 十字架からの血潮

・十字架
 イエス・キリストは神の子ですが、その最後は十字架上での死でした。福音書ではイエスが十字架に付けられたことがくり返し明記されています。十字架は最低最悪の者の死刑に用いられる道具で、「十字架」という言葉で、すでに主イエスがどれほどの苦しみと侮辱を忍耐したかが分かります。

・贖いの完了
 十字架上で主イエスは「わたしは渇く」と語られました。その言葉は預言の成就をしめすものでしたが、同時に主イエスが肉体において極限の苦しみと渇きを覚え、心と魂でも悲痛でどん底に落とされていたことを示します。
 また主イエスは苦しみを全うした後に、「完了した」と宣言されました。すべての人のための罪の贖いが完了したと言うことです。神の子として無限の価値ある方が、無限の苦しみと死によってなだめと贖いが全うされたと言うことです。

・十字からの血潮
 「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した」時、「血と水が出て来た」とあります。血は完全な贖いの血として、水は聖めとしてすべての人に提供されたと言うことです。この血の本質は霊的な贖いの力ということです。
 「血による、また信仰による、なだめの供え物」ローマ3:25とありますが、主イエスの血を私たちが受けるには「信仰による」のです。ただ心の砕き、一切の邪念と高ぶりを捨てること。虚ろにして心より受け取ることです。そこに神の血潮による贖いと聖めが実現します。

2010/3/21 マルコ11:12~20 祈りの家

・いちじくの木
 主イエスはいちじくの木に実がなっていなかったので、それを呪いました。この出来事は、神のためになんの実もなさなかったエルサレムと神殿に対する呪いを暗示します。

・宮きよめ
 宮きよめの出来事は神殿の異邦人の庭で置きました。異邦人の祈りを無視して、商売がなされていたのです。主イエスは彼らを「追い出し」「腰掛けを倒し」「通り抜けることを・・・お許しにならなかった」のです。
 このようにして、主イエスは神殿が商売や欲のために用いられるべきではなく、聖別されるべきところであることを強く示しているのです。

・「祈りの家」
 「祈りの家」とは、神との交わりの場、聖なる空間という意味があります。旧約の神殿は、ユダヤ人だけではなく異邦人にとっても神との交わりの場です。新約においては、教会がその役目を果たしています。
 教会には、色々な側面があります。互いの交わり、集会、会議などなどです。しかし教会の本質は神との交わり、つまり霊的な礼拝と祈りです。このことを見失ってはなりません。

・世における「祈りの家」
 世の人々は、不安とおののきの日々を過ごしており、「聖なるもの」を渇望しています。教会は何よりも「祈りの家」となって世に聖なる空間を提供しています。「地の塩、世の光」との御言葉がありますが、まさにそのとおりです。

2010/3/14 マルコ11:1~11 ロバの子に乗った王

・ロバの子
 主イエスはロバの子に乗ってエルサレムに入城しようとされます。それはゼカリヤの預言に従ったことと共に、神の国の姿を示すためでした。ロバの子は純真です。小さく、弱く、それゆえ柔和です。小さい者、弱い者、痛みを持つ者がまず招かれる国、それが神の国なのです。
 
・「主がお入り用なのです」
 ロバの子には地上の所有者があります。ロバの子を連れ出そうとするときに「なぜそんなことを」という人がいるのです。しかし主イエスこそ、一切の支配者であり、真の所有者です。また最も有効に用いることができる方です。「主がお入り用なのです」という言葉と、召命をだれも拒絶できません。
・ロバの子に乗った王
 主イエスがロバの子に乗って、エルサレムに入城されたときに、人々は「ホサナ・・・」と叫んで喜び迎え入れました。世の王たちとは異なって柔和さを持ち、小さい者、弱い者を受け入れる王であることを知ったからでした。

・私たちもロバの子
 現代も人々の前に主イエスを運び、神の国を知らせるのは、ロバの子のような人々です。小さく、弱く、従って柔和さを持つ者です。
 その小ささのゆえに「なぜ、わたしが」と戸惑うことがあっても「主がお入り用」と覚えるなら、精一杯の心で主イエスのご用のために自分をささげるべきです。その時、主イエスもその人を担ってくださいます。

2010/3/7 マルコ10:46~52 盲人バルテマイの信仰

・盲人バルテマイ
マルコ福音書においてバルテマイ物語は1つの信仰の典型を描いています。
 バルテマイはテマイの子で誇りある人でしたが、盲人であるためエリコ町外で物乞いをしていました。それは彼にとって苦痛で辛い生活でしたし、また人間としての深い絶望感と疎外感を覚える生活でした。

・バルテマイの信仰
 イエスの一行が町を出て彼の前を通りがかったときに、彼は「ダビデの子のイエスさま。わたしをあわれんでください。」と叫び始めました。彼はイエスが神の子であり、恵みとあわれみの神であると信じたのです。
 彼の信仰の徹底さは、大勢の者たちが彼をたしなめても、必至に叫び続けたという態度に現されています。人の少しの反対で信仰の求めを諦めるのは、本当の信仰ではありません。

・イエスのあわれみ
 しばしば、イエスは初めに素っ気ない態度を取られます。それは求める者の心に信仰が熟成される時を待ってのことです。イエスは恵みの神としてすぐにでも私たちを救いたいと願っています。しかしイエスの恵みと救いを受け取る手段は信仰のみなのです。
 バルテマイの信仰の姿を見て、即座にイエスは彼を呼んで、「目が見えるように」します。「あなたの信仰があなたを救った」とは、彼の求め続ける信仰姿勢です。

・私たちの信仰
 この物語は肉眼の癒しを描いていると同時に、私たちの心の目が開かれることを目的にしています。神の第1の願いは、私たちの心の目が開かれることで、その時にバルテマイと共にイエスがはっきり見えて、イエスに仕え従う幸いを覚えることができるのです。

2010/2/14 マルコ10:35~45 「神の国」の姿勢

・ゼベダイの子たちの頼み事
 ゼベダイの子たちは、エルサレム入城を前にして、神の国が実現すると感じ、イエスの栄光の座で高位につくことができるように頼み事をしました。誰にでも、人の先に立ちたいという願いはあるのです。
 主イエスは彼らの内に神の国について誤った考えがあることを知りつつも、「人の先に立ちたい」という願いを受け止めます。そして主イエスは彼の「杯」と「バプテスマ」を共にするべきことを確認します。

・地上の国と神の国は原理が違う
 さらに弟子たちすべてに対して、地上の国と神の国は原理が全く異なることを示します。地上の国では、支配者は自己を中心にして人々を支配しようとし、その結果、争いが絶えません。
 しかし神の国では先に立つ者は、自己を神に従わせて小さくし、人々に仕えます。人々も互いが互いに使えようとします。そこには平和が宿ります。

・「神の国」の姿勢
 「人の子」とは神の子キリストのことで、彼は「神の国」の王です。彼は人となって地上に来て、ご自分で人々に仕えることで、神の国の姿勢を示します。その仕え方は徹底しており、実に十字架の死に至ります。
 私たちは、彼の姿から学ぶだけではなく、自ら彼の贖いを受け、彼に仕えていただくことで、「仕える」心と姿勢を身につけることができるのです。

2010/2/7 マルコ10:23~31 ラクダと針の穴

・裕福な者には「何と難しいことか」
 主イエスの時代の人々は、裕福な者こそが神の国に近いと考えていました。裕福なのは神の祝福のしるしであり、神殿ですぐれた犠牲を捧げることも寄進もでき、富が現世と来世の幸いの保証になると考えていたのです。
 しかし主イエスは「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう」と再三に渡って語られます。

・ラクダと針の穴
 「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
 ラクダはユダヤで見られる最大の動物です。体高が2メートル以上あり巨大です。「針の穴」は裁縫で使う針の穴で今も昔も、身近にある最も小さい穴です。ラクダが針の穴を通ることができないことは、一目瞭然です。
 主イエスはこのたとえを通して「裕福な者が神の国にはいることができないことをユーモアを交えて、弟子たちに示しています。たとえによって、自分たちの考えの愚かさがクッキリと映し出されるのです。
 そして地上の富によって神の国には入れず、本当の幸福も勝ち取ることができないと分かるに従って、神の国の真理が、いよいよ明瞭にされます。

・神にはできる
 「人にはできないことですが・・・神にはできるのです。」
 神のみが、愚かな人間を神の国に入れる奇跡をなすお方です。神はひとり子イエス・キリストを遣わして、彼によって入国する道を備えられました。私たちはただ、一切の富も誇りも捨てて、彼を信じる信仰によって入らせていただくのです。

2010/1/31 マルコ10:17~22 金持ちの青年の話

・金持ちの青年
 イエスの元にきた人は金持ちの青年役人であったようです。財産家で身分が高く、生まれも能力も「良い」人でした。彼は「永遠の生命」を求めてイエスの元に来ましたが、「尊い先生」という呼び方に、彼の求道手段が垣間見られます。「尊い」とは「良い」「善」等という意味があり、彼は自己愛の上に多くの「良さ」を積み上げて、「永遠の生命」に到ると考えていたのです。
 しかし主イエスが指摘するように神だけが「尊く」「良さ」「善」であるお方です。人間には「尊さ」などなく、自己の芯が腐っているのです。青年の求道手段は、根本的に誤っていましたし、律法の本質からも遠く隔たっていました。

・青年の求道心の誤り
 主イエスは青年の求道心の誤りを見抜き、彼自身も気づくように語ります。
 「あなたには、欠けたことが一つあります。・・持ち物をみな売り払い」
 自己愛による求道は自己矛盾に陥ります。神が求める「良さ(善)」はそれを捨てる隣人愛であり、ただイエスと恵みを受けることによってのみ可能です。

・青年の悲しみとイエスの慈しみ
 青年は自己を捨てきれずに[悲しみながら立ち去り」ますが、その姿はすべて自己愛を芯に自分を「良く」しようとする者の姿です。
 またイエスの眼差しは、そのような「私たち」が自分の誤りに気づいて、彼のもとに立ち返ることを切望する愛の眼差しです。

2010/1/24 「子どものように」が条件 マルコ10:13~16


・「子どもたちをわたしのところに」
 人々がイエスの元に子どもたちを連れてきたときに、弟子たちは彼らをしかりました。弟子たちの考えでは、子どもたちのような社会的にも、能力的にも取るに足らない者は、王であるイエスのもとに来る資格がないと考えたのです。
 しかし主イエスは弟子たちの態度に対して憤っていわれました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。」と。

・神の国は地上の国と異なる
 地上の国では、どこに加入するにも人間の力、資格、能力、財産、経験などが求められます。それらは自分を高ぶらせますが、神を崇めることはないのです。
 しかし神の国では、あらゆる面で地上の国の原理とは全く異なります。神の国は、主イエスと御業によってもたらされ、神と恵みが支配します。そこではかえって、人間の力、能力、経験、功績などは、邪魔で妨げになります。むしろ子どもたちのように、自分の無力を前提に、恵みを信じてただ受け取る姿勢が大切になります。

・神の国は「子どものように」が条件
 「子どものように神の国を受け入れるのでなければ、決してそこに、はいることはできません」
 神の国に入るには「子どものように」が条件になります。それは自分の功績、経験、能力は、除外すること。むしろ自分の前に提供されているイエスと御言葉を、恵みのプレゼントであるとして、受け入れると言うことです。神の国の「みことばはあなたのちかくにある」(ローマ10:8)からです。

2010/1/17 夫婦のきずな マルコ10:1~12


・頑なな時代の夫婦関係
 モーセ律法の時代は、人々の心が頑ななために、仮の夫婦の規定が定められていました。その1つが離別についてです。申命記24:1にあるように妻に落ち度があったときに離婚状を書いて離別することが許されていたのです。
 また妻は夫の所有物のように取り扱われる面がありました。そこでは夫婦本来の人格関係は見失われます。

・夫婦のきずなの回復
 主イエスはパリサイ人らの質問に答えて、新しい夫婦のきずなについて語ります。それは創造の秩序の回復であるとともに、愛に基づく新しい夫婦関係です。
 神は人を、男と女とに創造されました。両者は性の違いがありますが、互いが神の形と尊厳を持ち、人格的に対等な存在です。夫婦としての男と女も同様です。夫婦の場合は何よりも深い人格的きずなで結ばれるものとして出会わされるのです。「一心同体」と言う言葉は、そのことを示します。

・新しい夫婦のきずな
 夫婦の創造の形は、主イエスを通して新しい生命と愛が注入されます。主イエスは十字架の死を通して神と人との愛のきずなを回復されました。この愛=アガペーをまずは、夫婦の間で育まれます。
 生来の人には、エロスとフィリアの愛があります。どちらも自己中心的な愛で、自分がよしと思うときだけ好意を持つ愛です。しかしアガペーの愛はそれらの超えた愛です。
 夫と妻はすべてにおいて違う人間です。そこで対立や葛藤が生じることもあります。その違いもアガペーの愛を育てる契機となるのです。

2010/1/10 イザヤ42:1~3 理想の人


・理想の人
 現代は価値観を見失い、同時に理想の人間像を喪失した時代です。聖書は神が求める「理想の人間像」を提供しますが、イザヤ書42章の「しもべ像」もその1つです。「しもべ」はメシヤ(キリスト)御自身ですが、また彼を信じて「神の子とされた人々」に対して神が求めておられる人間像です。

・自己中心を否定
 42章前半で、イザヤは「しもべ」について、7つの否定形を用いています。それは人間的な荒々しさや、虚栄、気ままさ、自己中心などの否定を意味しています。肉的な態度の徹底的否定を通して、神の「しもべ」像を浮き出させているのです。
・優しさ
 この中で注目されるのは「彼はいたんだ葦を折ることもなく・・・」という姿です。痛んだ葦は少しの刺激で完全に折れてしまいます。「くすぶる燈心」は少しの粗雑さで消えてしまいます。人間はみな痛んでおり、弱さを持ちます。しかし彼は人間の弱さを知り、限りない優しさを持つ方なので、さらに痛めることなく生命を新生させるのです。

・忍耐
 「彼は衰えず、くじけない。」時代の中で神の御心を遂行しようとするときには、色々な困難が伴います。そこで衰えそうでも衰えず、くじけそうでもくじけない忍耐力としぶとさが必要なります。それはただ神に信頼し切る信仰心から生まれます

2010/1/3 主を待ち望む イザヤ40:27~31


・現実とつぶやき
 「なぜ言うのか・・」とイザヤは人々のつぶやきを指摘しています。人々は目先の現実ばかり見て困難を覚え、つぶやいていたのです。
 私たちもただ目先の現実だけにとらわれていたら、いつの間にか、自分の心は呟きと不安と不信仰の巣と化してしまいます。

・永遠の神を見上げる
 「あなたは知らないのか・・・主は永遠の神」。信仰者が忘れてはならないことは、神の言葉を聞き、神に教えられ、神を見上げると言うことです。その時に肉眼で見て早合点した現実とは異なる世界が見えてきます。神は永遠の神であり、人間の思いと力を遙かにこえた方です。
 御自身が永遠であるだけではなく、神の民にその力と生命を与えようとしておられる方なのです。それは神が民にとって恵み(ヘセド)の神であると言うことです。「疲れた者には力を与え」るのです。

・主を待ち望む
 神の恵み(ヘセド)に対して、私たちはどのような誠実(ヘセド)を示したらいいのでしょうか。それはただ「主を待ち望む」という信仰姿勢のみです。主を信じ続けると言うことです。色々な困難がやってきますが、その中で信じ続けることで信仰は鍛えられていきます。

・鷲のように翼をかって
 イザヤは主を待ち望む者がどのような恵みと生命を受けるかについて見事なイメージを提供します。それは空飛ぶ鷲です。鷲の羽は傷ついたときなど自然と抜け落ちます。完全に回復するまでに数ヶ月かかりますが、その間、じっと待ち続けるのです。回復した羽は、以前よりもつやがあり、力ある羽となります。丁度その鷲のように、主を待ち望む者は恵みの気流を一杯に受け上昇するのです。

2009/12/27神の忍耐と励まし ローマ15:1~7

説教者:鈴木弘司師でした。右のmp3ファイルでお聴き下さい。

09/12/20 マリヤの讃歌 ルカ1:46~55

・マリヤの讃歌
 マリヤの讃歌は魂と霊の賛美です。人は表面的に喜ぶことがあっても、魂と霊という奥底から賛美、喜び讃えると言うことはありません。マリヤが霊から賛美するのは、マリヤが受けた恵みの本質は霊的だからです。霊的な賛美は深く、永続し、すべての時代に、すべての世界に響き渡ります。

・卑しいはしために目を留め
 マリヤの賛美は、神が「卑しいはしために目を留めてくださった」という信仰から起こっています。
 神は崇高者で人間から隔絶した方です。その方が、「卑しい」自分に目を留めて奇跡をなしてくださったのです。「目を留める」とは好意を持ち、選び、深い契約関係に入ることを意味します。この神との個人的な体験についての確信が彼女をして賛美に向かわせています。

・力ある方が大きなことを
 神は無から有を創造した天地創造の神です。すべて良き業であり、恵みの業です。その一切の力を自分の内で働かされたのです。「大きなこと」とは神の子キリストを自分の胎に宿すと言うことでした。さらに彼を通して救いを万人に与えると言うことも含まれています。

・神のあわれみ
 マリヤは自分の神体験を「あわれみ」という言葉で表現しています。値しない者が受ける好意であり、救いです。律法の下では神は厳しさと怒りの姿がありました。しかし神の子による救いは一切が「あわれみ」です。マリヤは「神のあわれみ」を受けたのです。かつてはアブラハムとその子孫にしめされ、やがて未来の人々に及んでいくのです。

2009/12/13 インマヌエル マタイ1:18~25


・キリスト預言と処女降誕
 罪からの救済者として旧約聖書の時代を通してキリスト到来が預言されていました。預言者イザヤはキリストのしるしは「処女降誕」であるとしました。処女降誕は、色々な意味で人間にとっては躓きになります。神が人となる躓き、処女が子供を産むという躓きなどです。
 マタイはこの躓きを取り払うかのようにアブラハムからキリストまでの系図の中に女性たちを紹介します。いずれも躓きをはらみながら神が「良し」とした女性たちです。 

・ヨセフは信じ受け入れた
 許嫁のマリヤが聖霊によって身重になったときに、ヨセフは「内密にさらせようと決め」ていました。しかし「主の使いが夢に現れて」、マリヤは聖霊によって子どもを宿していると知らされます。御使いは彼を「ダビデの子ヨセフ」と呼んだときに、彼はアブラハム・ダビデに対する約束を思いおこしたと思います。彼の子孫としてキリストが生まれると言うことです。彼は御言葉を信じマリヤをも受け入れました。それでキリストを持つことができたのです。

・インマヌエル
 キリストの別名は「インマヌエル」です。「神は私たちとともにおられる」という意味です。この方が私たちの神となるためには、いつの時代にも躓きが伴います。
 しかしいつの時代も同じです。ただ彼がインマヌエルで、私たちとともにあり、私たち祝福する方であると信じ続ける時、やがてその祝福は確かに私たちとともにあると気づくのです。

09/12/06 マルコ9:43~50 躓きをさける


・躓きをさける
 主イエスは「小さい者たちのひとりにでもつまずきを与え」ないようにさとします。小さい者とは子どもや弱者、あるいは社会的に見下されがちな人々のことです。その人々もまた、神によって覚えられており、かけがいのないのです。教会の中では、くれぐれも小さい魂さえ躓かせることがないように、注意を払う必要があります。

・躓きを取り除く
 「もしあなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨て・・・。」
 主イエスは強烈な言葉で、つまずきを除去するように畳みかけます。つまずきは相手の滅びとなるだけではなく、自分の滅びとなります。身体の場合でも手や足に重い疾患を持つ場合に、切断して生命全体を救う処置がなされます。ちょうどそのように罪とつまずきを与える習慣は他人と自分の致命傷となるのです。

・キリストの心 
躓かないように配慮する心はキリストの心です。「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」とあるように神であり、王である方が、小さな者たちのために細心を払われたのです。
 私たちはキリストによって自由で権利を持つ者ですが、キリスト者の自由と権利は人に仕え、建て上げるためのもので、その心がけの中で多くを獲得することになるのです。つまり小さな者の生命が育まれ、自らもまた育まれるのです。

09/11/29 水一杯の好意にも マルコ9:38~41


・反対しないものは味方
 弟子たちは自分たちの仲間でないものがイエスの名を用いて奇跡を行おうとしているのを見て、やめさせようとしました。しかし主イエスは、「わたしたちに反対しないものは、わたしたちの味方です」と語られました。
 「キリストの名」は溢れるほどの恵みと力を持ち、私たちの仲間でない者たちの中でも、それ自体でキリストの働きをなしていくのです。

・水一杯の好意にも
 「キリストの名」「キリストの弟子」「キリストの教え」、何でもキリストを反映しているものは、キリストの祝福を担っています。そこにはキリストの香りがあり、キリストの恵みが流れ出るのです。「水一杯を飲ませ」ると言うことで、弟子たちに対して好意を示す人は、なおさらです。その人は、「決して報いを失うことはありません。」

・溢れるキリストの恵みと救い
 私たちはキリストの教えと教会を守ろうとするあまり、自分自身を狭めてしまう場合があります。確かに、純粋な福音と教会の交わりは保たれなければなりません。しかし「キリストの名」に対する大胆な楽観も必要です。私たちの思いを超えて、神は「キリストの名」を用いて、恵みと救いを前進させる方なのです。

***説教で引用した詩/「ひびいてゆこう」八木重吉作*****
  おおぞらを
  びんびんと
   ひびいてゆこう

09/11/22 幼子を受け入れる心 マルコ9:32~37

・だれが一番偉いか
 主イエスが十字架の死を目前としていたときに、弟子たちは「だれが一番偉いか」について論じ合っていました。彼らはイエスを地上の王のようにみなし、自分たちの誰がその大臣の地位につくかの論争でした。確かに責任ある地位につくことは大切ですが、地上においては「だれが一番偉いか」と争いをおこし、高慢と妬みが渦巻く状態になります。

・先に立ちたい者は、しんがりに
 主イエスは弟子たちの交わり、つまり教会では、地上とは全く異なる原理を持つべきことを示します。
 「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなしんがりとなり・・・」
 集団の中で先に立つ人材は必要です。しかしその人は他を支配するのでも、称賛されるのでも、利得のためでもありません。むしろ「しんがり」となって他に譲る姿勢、仕えるが重要になります。

・幼子を受け入れる心
 主イエスは「子どもを・・・彼らの真中に」して、弟子たちに例示します。普段は目に見える形では、子どもは真中におりませんが、教会の中心は「幼子」です。小さく無力な存在ですが、彼らが尊ばれ、守られていくところに教会の本質があるのです。
  世は弱肉強食の原理がまかり通る社会です。教会が「幼子を受け入れる」場として機能するときに、キリストの臨在と香りが際だちます。そのようにして世に対して証となるのです。
 「幼子・・・わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。」

***説教中で引用した「モモ」冒頭の詩(アイルランドの子どもの歌より)
 やみにきらめくおまえの光、
 どこからくるのか、わたしは知らない
 近いとも見え、とおいとも見える、
 おまえの名をわたしは知らない。
 たとえおまえがなんであれ、
 ひかれ、ひかれ、小さな星よ!

09/11/15 信じる者には マルコ9:14~29



・弟子たちの現実
 主イエスたちが帰ってきてみると、大勢の群衆がおり弟子たちは律法学者たちとイエスの権威について論争していました。彼らは病人から悪霊を追い出すことができなかったために皆の非難の的となっていたのです。これは世における弟子たちの現実です。

・不信仰な世
「ああ、不信仰な世だ。」主イエスは人々の不信仰を強く嘆きます。ちょうど、出エジプト記でモーセが山から下りてきたときに、人々が偶像礼拝をしていた情景を思いおこします。主イエスもまた、神の前に不信仰をさらけ出している人々に対して激して怒り、嘆いているのです。
 「いつまであなたがたにがまんしていなければ・・・」この言葉も主イエスの嘆きです。主は弟子たちと群衆の中に信仰が育つことを切望していました。その主イエスの心の内がハッキリと示されています。

・信じる者には
 主イエスは病人の父親に子供の状態を尋ねます。人の痛み苦しみを聞いて受け止める愛の姿が現れています。しかし父親の不信仰な言葉には再び叱責します。
 「できるものなら、というのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
 実に明快な言葉です。主イエスが切望していたのは、信仰でした。主イエス御自身は栄光の姿を持ち、愛に満ちた神です。その力と権威を導き出すのは、私たちの側の信仰のみです。

・現実の中で信仰を働かせる
 私たちを取り巻いている現実も、人間の力ではどうしようもない悪と悲惨の世界です。この現実を乗り越えるためには是非とも、主イエスの力と権威が必要なのですが、それは私たちの信仰によります。主イエスは「祈り」の必要に触れていますが、私たちも祈りを通して私たちの信仰を強めましょう。

09/11/8 ラザロと金持ち/ペロペロワンちゃんルカ16:19~31


 次をクリックして下さい。スライドになります。
ペロペロワンちゃん
・貧ぼう人ラザロ
 ワンちゃんは、おできだらけの貧ぼう人ラザロの所にきては、おできをペロペロとしてあげました。
 ラザロさんは貧ぼう人だけれども、やさしい心の人で神に愛されている人した。でもラザロさんはいつもおなかがペコペコで金持ちの家の食じの残ぱんでも食べたいと思っていました。 

・ケチでぜいたくな金持ち
 金持ちはぜいたくな生活をしており、高価な着物をきて、食べ物、飲み物もごうかで、毎日を遊びくらしていました。
 そしてケチで誰にも何もあげず、特に貧乏人にはそうで、また軽べつしていました。

・死後の世界の逆てん
 ラザロは死んで、天国のアブラハムの所に

行きました。彼はアブラハムにたいへん愛され、慰めを受けました。金持ちも死にましたが、彼はハデス(じごく)に落とされ、裁きの火で苦しみました。
 彼はアブラハムに助けを求めましたが、アブラハムは言いました。「おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていた。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」「それに大きな淵あるので・・・助けることはできない。」

・5人の兄弟の救いは?
 じごくの金持ちは、何も知らない5人のケチな兄弟の救いを求めました。しかしアブラハムは次のように答えました。
 「もし、モーセと預言者(聖書)の教えに耳をかたむけないなら、たとい、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」。

09/11/01 マルコ9:1~8 変貌の山


・変貌の山・・・顕現
主イエスは3人の弟子たちを連れて高い山に登り、そこで栄光の姿に変わリました。衣が白く輝いたのはイエスが神の子キリストであり、天の栄光を持つ方であることを示しています。主イエスは下僕として地上の生涯を過しますが、本質は神と同質の栄光を持つ方なのです。

・モーセとエリヤ
山では、モーセとエリヤが現われてイエスと話していました。ニ人とも旧約聖書を代表する入物で、旧約の一切の預言が神の子キリストを指し示し、さらに「イエスこそキリストである」ことを証ししているのです。
この光景は肉眼で見えたことであると同時に聖霊が弟子たちの心を照して明らかにされたのです。私たちの場合も、旧約聖書を読んでそこにキリスト預言を見いだしてイエスと認めるとき聖霊もまた恐れと感動により証しします。

・神の声
さらにイエスを証しするものがあります。それは神の声です。「これは、わたしの愛する子...彼の言うことを聞きなさい。」これは明暸に「イエスが神の子キリスト」であることを証言しています。弟子たちもよく覚えており、ペテロもその手紙(Ⅱペテロ1:17)で触れています。イエス以上に神について、救いについて、裁きについて啓示する方はありません。

・栄光のイエスを覚える
この顕現は、弟子たちが試練の中でも栄光のイエスを覚えさせるためでした。やがてイエスは十字架につけられますが、弟子たちは、復活の姿に出会うこと共に、この栄光のイエスを想起して、聖霊によって強められたのです。
 このことは、同じ試練の中におかれている私たちの場合も全く同じです。イエスが神の子であることを心に刻むことにより、聖霊はその栄光を顕わにします。(Ⅰペテロ4:14)

09/10/25 おりにかなった助けヘブル4:14~16

 11/25礼拝説教は、鈴木弘司先生でした。

09/10/18 豊かな実を結ぶ秘訣 ヨハネ15:1~17 

 佐々木 炎師の礼拝説教でした。

09/10/11 自分の十字架を負う マルコ8:31~38


・人の子の苦難と復活
 信仰告白した弟子たちに対して、主イエスは「人の子の苦難」について示されます。「人の子」とはキリストのことで、贖い主であり、真の人の姿を示します。
 キリストは予知したとおりの生涯を歩みます。ユダヤの指導者たちによって、憎まれ、捨てられ、十字架上で殺されます。彼の地上の生涯は、世の流れによって完全に否定され、抹殺されたのでした。
 しかし苦難の中で、信仰と従順を貫くことは、神の生命が注がれる契機となります。「三日の後によみがえられなければ」とはそのことです。このようにして、主イエスは真の人が辿るべき生命の法則を示します。

・下がれサタン
 しかしペテロは「イエスを・・・いさめ始めた」とあります。彼は信仰告白後も、キリストと御業について不鮮明で、世の人生観に支配されていました。世の人生観にとらわれる者は、神の御心よりも人間的願望を大切にしてしまうのです。  
 「下がれ。サタン。」と主イエスはペテロを厳しく叱責します。弟子である者が、心に銘記すべきことだからです。人間的分別と優しさのようでありながら、その心はサタンの下にあり、神に敵対する者となっているです。

・自分の十字架を負う・・・生命の原則
 「自分を捨て、自分の十字架を負い」と主イエスは語ります。主イエスの地上の生涯は贖いのための生涯であると同時に、信仰者の生き方の模範となるためでした。世の流れに抗してのみ、イエスの道を歩むことが可能となるのです。誤りの否認によってのみ正しさが貫かれます。
 また神が祝福する生命とは世と人間の虚偽の中には生じません。十字架の法則に歩む者だけが復活の生命を得るのです。また同時に、歴史の真髄も十字架の法則に従った人々によってうち立てられているです。

09/10/4 あなたはキリスト マルコ8:27~30


・心頑(かたく)なの中で
 マルコ福音書の背景には、人々の心の頑なさがあります。「目がありながら見えず、耳がありながら聞こえない」と主イエスが語られるとおりです。主イエスの願いは心の目と耳が開かれることです。聾唖者の耳と盲人の目の開くという奇跡の背後に、弟子たちの心を開こうとする願いが込められているのです。
 
・あなたはわたしを誰と
 「では、あなたがたはわたしをだれだと言いますか」。主イエスは一般論ではなく、「あなたはわたしを」と主体的な信仰を求めます。私たちはいろいろな「あなたと私」の関係を持っていますが、その中心は神との関係です。この中心の関係が正しいときに、私たちの目は開かれてすべての領域においてもよき関わりを持つことができるようになります。
 主イエスとの関係は神の領域における関係です。私たちが主イエスを正しく告白できる時に、私たちの目が開かれ、生活のすべての領域に光が差してくるのです。

・あなたはキリスト
 「あなたは、キリストです」とペテロは信仰告白します。この告白の背後に神の霊の働きがあります。神によってのみ人は心の目が開かれるからです。キリストとは「油注がれた者」という意味で旧約の王、大祭司、預言者のすべてにまさる神の子を意味します。「わたし」は彼を通してのみ、一切から救われ、一切の罪をきよめられ、神の一切を知ることができます。

・さらに明瞭にキリストを刻む
 ペテロの信仰告白はマルコ福音書の分岐点となり、これから後半の十字架と復活の場面に進みます。それに従って、ペテロと弟子たちのキリスト信仰も正され、深められていきます。
 これは私たちの場合も同じです。つまり私たちにとっても信仰告白が一つの目標であり、さらにこれを基点としてキリストの姿をさらに明瞭に、正しく心に刻んでいく信仰生活が始まるのです。

09/09/27 開け エパタ マルコ7:31~37


・耳と口が閉ざされた者
 主イエスがデカポリス地方に行かれたときに「耳が聞こえず、口がきけない人」が連れてこられました。「耳が聞こえない」と言うことは、外界の音と言葉から閉ざされていることであり、「口がきけない」ことは、自分の言葉を外に伝えることができないと言うことです。全く、世界から閉ざされた世界に放置され、隔絶されていることです。

・その人だけを連れ出して
 主イエスは「その人だけを連れ出して」、深いお取り扱いをします。一人だけ取り出されることは、神との関係を深め、救いを深めるために大切な手順です。
 「両耳に指を差し入れ」「唾をして、その人の舌にさわられた」と閉ざされた部分に深く関わって下さいます。耳と口が開かれるためには、イエスに深く関わっていただかなければならないのです。イエスは汚れもいとわず、その人を徹底的に愛して御業をなすのです。

・開け/エパタ
 「深く嘆息し」「『エパタ』と言われた」。嘆息とは「うめき」とも訳されます。エパタは「開け」という意味です。ヘブル語の「パタ」の命令形です。イエスの言葉に不思議な響きがあったので、言語のまま紹介されています。イエスが「開かれる」ことを心から願って叫ばれたことが分かります。
 さらにこの奇跡はイザヤ35:5の預言の成就となっています。ただ肉の耳だけでなく、心の耳、口もイエスの臨在と恵みに「開かれ」るべきことが示されています。

・イエスの愛に開け/エパタ
 私たちの心の耳と口も閉ざされがちです。主イエスが私たち一人一人をも「連れだし」、親密に関わって臨在と恵みを知らせようとしていることに霊の耳を開き、口によって証する者となりましょう。

09/09/20 主の聖徒たちの死は尊い  詩116:15


・主の聖徒たち
 「聖徒」とは「ヘセドの民」という意味です。神の恵み、誠実、愛の約束を心から信じ、自分でも神を愛して生きる人々のことです。旧新約の信仰者たちは、皆、この信仰姿勢を持っていました。
 「私は主を愛する。主は・・・私の願いを聞いて下さる」とは聖徒たちの基本的な告白です。聖徒たちはその通りに生涯、主の恵みと愛を体験してきました。たとい絶体絶命の時でも、主が救って下さり、魂を救い、悲しみを取り除き、実際の問題も見事に解決して下さったことを体験しています。

・主の聖徒たちの死は尊い
 「聖徒たちの死は主の目に尊い」とあります。聖徒たちも地上の生涯を終えることがあり、その際には、本人も周囲の人々も、主イエスをいよいよ信じて、告白して、死の間際まで切なる願いをします。
 その死は、肉の目には空しく見えますが、主は「尊い」とご覧になります。それも主の恵みと愛の所以です。地上の生涯に恵みを与えられた方は、死という危機に際してこそ、完全なる恵みと愛の眼差しを「聖徒の死」に向けられるのです。地上の死を迎えた「聖徒たち」は主の目には何よりも尊い宝石のように輝いて映っているのです。

・私たちの「聖徒たち」
 私たちの「聖徒たち」も地上の生涯において主の恵みを信じ、また自分でも誠意を持って従っていました。死の間際まで、信仰を貫き、しかも切に祈りと願いを捧げたのです。
 主は、その祈りを忘れておられません。むしろ「尊い」とご覧になり、永遠に心に刻んでおられます。そして来るべき日に、新しいからだに復活させるのです。復活の体もまた、イエスに似た「尊い」ものとなるのです。
 

09/09/13 生きるはキリスト ピリピ1:21

・キリストにある「私」
 私たちは人生の色々な局面で、地上の益と喪失のどちらかを体験します。古い「私」は益が良し、喪失を苦痛と感じます。その最たる局面は生と死です。
 しかし使徒パウロはキリストによって新しくされた「私」として人生を捕らえるべきであると教えています。

・生きるはキリスト
 「生きることはキリスト」とあります。キリストはすべてであるということです。御言葉の約束において、キリストは「私」の罪を赦し、新しい生命を与え、「私」の生涯に豊かな実を与えてくださる方です。
 使徒はキリストにあっての提供されている恵みをただ知っているだけではありませんでした。自分自身でも心から信じて、キリストを人生の土台としていくという告白をしています。キリストの恵みは単に受け取るだけではなく、私たちの側でも応答することでハッキリと分かるのです。

・死ぬことも益
 一般的に「死」は大きな苦痛と捕らえられます。それは地上で得た一切を喪失する時と考えられているからです。しかし使徒は「益です」と言い切ります。私たちは生きている楽しみを覚えるのは「益」を獲得ているときです。ところがキリストにあるものにとって死こそ最高の「益」の「獲得」であることを示します。その理由は死によって完全にキリストを獲得し、その愛の御顔を直視できるからです。

・楽しみの板挟み人生
 使徒にとって、キリストを信じて生きる人生を凝視したときに「二つの・・・板挟み」でした。彼にとって喪失というものはなく、一切が「益」となり「実」となるのです。私たちも与えられている恵みを凝視して、生も死も、何事も恐れず、むしろ喜びとして日々歩みましょう。

09/09/06 小犬でも マルコ7:24~30


・ギリシャ人の女
 イエスが異邦人の地であるツロに行かれたとき、ギリシャ人の女が来て、娘から悪霊を追い出すように願い続けました。悪霊を追い出すことは人間の力では不可能でフェニキヤ文明もにもギリシャ文明も無力でした。そこで女はイエスの噂を聞き、キリストと信じてやってきていたのです。

・イエスの拒絶・・・小犬には
 ところがイエスは女に対して沈黙しているように見えました。さらに「・・・子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と拒絶します。「子供たち」とはユダヤ人のことで、小犬とはギリシャ人をはじめとした異邦人のことです。聖書では「犬」を汚れた者、俗悪な者を意味します。そこで「小犬」は、さらに存在の小さいものと受け取ることができます。
・女の信仰・・・小犬でも
 しかし女は「小犬」という言葉に、イエスの恵みを見つけます。「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
 自分を見るのではなく、イエスのあわれみの大きさに訴えて切に願っています。
神の大きさと恵みによって救いを受ける手段に訴えて願ったのです。それこそがイエスの救いを受ける唯一の手段です。

・「そうまで言う・・・」
 女の信仰にイエスまでが驚いています。「そうまで・・・」言い「そうまで」信じて、祈る祈り手を主は求めていたのです。
 私たちも祈りがすぐに答えられない、「無視され、拒絶されているのでは」という経験をしますが、それでやめてはなりません。祈り続ける中で、私たちが「そうまで言う」「そこまで信じて」祈る祈り手になることを、主イエスは願っておられるのです。

09/08/30 心(内側)の罪悪と解決  マルコ7:14~23


・外側からではなく
 ユダヤ人たちは聖めと汚れについて誤った考えを持っていました。汚れは外側のものであるから外側の洗いを徹底し、汚れた食物を食べず、異教徒とは接触しないように心掛けていました。彼らの心は「頑(かたく)な」で律法の教えを表面的に捕らえ、しかも外面の聖めを守ることで神の民であるという特権意識に囚われていました。
 主イエスは、彼らの心の覆いがとれて「悟る」ようになることを切望していました。また私たちについても、「外側」に囚われる者たちなので、その「頑なさ」から解放されて、悟るものとなることを願っておられます。

・心(内側)から出る罪悪
 「人から出るもの、これが、人を汚す」「内側から出て、人を汚す」とあります。聖書は旧約以来一貫して、内側からの汚れと罪悪について問題にしてきました。主イエスもこの点を明瞭にしています。
「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ 」。主イエスは内側の罪を具体的に現します。人の心の奥底には「破れ」があって、そこから罪と悪魔の汚れが噴出して人を汚染し支配するのです。まさしく人は心の内に「地獄の門」を持っています。この支配を免れる者は誰もいません。 

・心(内側)の罪悪の解決
 内側の罪は自分の努力では解決できません。ただ御言葉と御霊の照明の下で罪を認め、神の前に告白し、そして主イエスの十字架の血潮できよめていただく以外に解決の道はありません。
 主イエスの血は、今の時代でも、聖霊によって悔い改める者たちの心に注がれ、完全に汚れを焼き尽くし、聖めることができるのです。

09/08/23 「自分たちの」ではなく マルコ7:1~13


・先祖の言い伝え
 ユダヤ社会には、モーセ律法とは別に「先祖の言い伝え」がありました。それは食べ物の規定から手洗いなどの聖めの規定まで生活の細部にまで及んでいました。パリサイ人と律法学者たちは、その専門家で、ユダヤ社会で権威を持っており、「先祖の言い伝え」に従わない者たちを罪人として断罪していました。
 主イエスの弟子たちは「先祖の言い伝え」について十分に知識がなく、しばしばパリサイ人らによって非難されました。

・「自分たちの・・・」へのイエスの非難
 しかしながら、主イエスはイザヤの預言を引用しながら、彼らを反対に非難します。「彼らは「先祖の言い伝え」を守ろうとするが、ただ「人間の教え」に過ぎず、心は神から遠く離れていると」。
 さらに「自分たちの言い伝えを守るために・・・神の教えをないがしろにしている」と。実際に律法には「あなたの父と母を敬え」と命令されているのに、コルバンという規定を作って、神のことばを空文にしていました。それはほんの一例です。

・「自分たちの」の罠
 私たちは集団を作るときに「自分たちの」と言うことを大切にします。それは大切なことです。しかし「自分たちの」という集団心理は、やがて絶対化され、「神の」ということさえも、無視し、さらには敵対するにまでになってしまう危険をはらんでいるのです。特に私たち日本人は、この集団性に弱さをもっています。

・「自分たちの」ではなく
 私たちは「自分たちの教会」であるゆえに、熱心に活動をします。しかしそれ以前に「神の」教会であることを良く覚える必要があります。そのためには神の言葉を真摯で、純粋な心で読み、それを自分たちの教会形成の土台とするように、いつも心掛けることが大切です。

09/08/09 湖上の幽霊騒動 マルコ6:45~56


・湖上の

幽霊騒動 主イエスはガリラヤ湖上の弟子たちを訓練します。彼らは向かい風で漕ぎあぐねていました。同時に真夜中の暗さの中で恐れを持っていました。
 イエスは湖上を歩いて彼らに近づき通り過ぎようとされました。それは彼らを試みるためです。案の定、彼らは「幽霊だと思い、叫び声を上げた」のです。当時の人々も幽霊の存在を信じて恐れていたのです。その恐怖心はちょっとした恐怖体験において浮上したのです。
・イエスは永遠遍在の霊
 「・・・わたしだ。恐れることはない。」
 主イエスの言葉は力強く彼らの心に響きました。彼らは幽霊に対する恐れではなく、神である方の存在の大きさを体験し「彼らの心中の驚きは非常なもの」でした。
 「わたしだ」とはギリシャ語で「エゴ・エイミー」といいます。英語で「I am.」ということです。そこで「わたしはある」という風に解釈されます。永遠の存在、遍在、つまり霊である存在を意味するのです。神は旧新約を通じて御自身の本質をこの言葉で表現されます。
 このようにしてイエスは湖上の幽霊騒動を通して、ご自分が永遠で遍在する霊なる神であることを示されたのです。 

・様々な恐れを克服する
 私たちには色々な恐怖心があります。人に対する恐怖心、天変地異に対する恐怖心、そして死霊悪霊に対する恐怖心があります。特にこの時期、死霊に対する恐怖心が私たちの社会を覆っています。それは信仰の落とし穴になります。
 そこで私たちは、私たちを守ってくださるイエスが、それら一切の霊どもより優越し、力があり、近くにおられる霊なる神であることを明瞭に覚えましょう。「わたしだ」との御言葉を心に刻むときに、私たちが恐れるものは何一つありません。

09/08/02 パンと魚の奇跡 マルコ6:30~44


・パンと魚の奇跡
 主イエスはご自分がモーセ以上のメシヤであることを示すためにパンと魚の奇跡をなさいます。人々を組にして青草の上に座らせてから、手元にあった五つのパンと二匹の魚を取り、「天を見上げて祝福を求めて」配りました。そこに恵みの奇跡が起こり、男だけでも五千人の人々を満たしたのです。
 極度の欠乏の中にあった人々は、辺鄙な野原で主イエスを通して思いもよらない恵みの体験したのです。

・イエスの生命とみ言葉の配給
 この奇跡は第一に神の言葉の配給を象徴します。「神の言葉」は単なる言葉ではなく「イエスの生命」そのものです。それが人々に語られるときに大勢に生命を与え、さらに生命は伝播します。
 教会での礼拝は神の言葉が語られ聖餐が守られる場ですが、この本質はキリストの生命の配分です。そこに神の恵みの奇跡が伴います。

・神の交わりの拡大
 第二に交わりの拡大を意味します。交わりはコイノニアと言いますが、共なる食事、物のやりとり、共同の奉仕、愛の交流、宣教協力などの意味が含まれます。キリスト中心の交わりでは、わずかな食物/賜物/奉仕/人から始まって、それらが増え拡大するのです。そこにも神の恵み、奇跡が現されるのです。

・原則は感謝と祝福
 これらの恵みと奇跡の場には、必要な要素が1つあります。それは「祝福」と「感謝」です。祝福とは直訳「よい_言葉」です。与えられた御言葉/食物/賜物/人々を自分たちでも「良し」として、さらに神に対しても「良し」としてくださるように祈ることです。私はそのような交わりには現代においても恵みの奇跡が起こると信じています。

09/07/26 聖者と俗悪人 マルコ6:14~29

・俗悪人・・・ヘロデ王
 ヘロデ王はガリラヤ地方の統治者でした。不法に兄弟の妻と結婚する罪をヨハネによって非難されていましたが、敬虔な気持ちが幾らかあり、ヨハネに保護を与えていました。しかし、敬虔より体面を重んじる人間でした。彼は、人々の手前、ヘロデヤの娘の申し出を断ることができませんでした。そして「ヨハネの首をはねさせ」るという大罪を犯します。

・ヘロデヤ
 ヘロデヤは名家ハスモンの血を受け継ぐ女性ですが、我欲の強い女性でした。先夫と別れたのも彼が政治的失脚者であったからで、ヘロデを通してユダヤの王女となる野望があったからです。彼女はヨハネを憎んでおり、狡猾に殺害します。彼女は自分の願いを達成できたと思ったのでしょうが、彼女は俗悪な者として「裁きの書」に明記されました。

・少女サロメ
少女とはサロメのことです。彼女は巧みな踊りを通してヘロデを喜ばせました。しかし母親に唆されて「ヨハネの首を」その褒美として要求するのです。なお純粋さが残る少女でしたが、確たる真理を持たないために、母と同罪の罪を犯します。

・聖者の死
 バプテスマのヨハネは、キリストの魁となった預言者でヘロデ家の罪を逃すことなく告発しました。その結果、首を切られて死刑に処せられたのです。彼の働きは頓挫したのでしょうか。そうではなく、それにより彼の預言は完成し、彼は聖者とされ、生命の書に永遠の名が記されることになりました。
 私たちも人生に於いて義人として「生命の書」にしるされるか、俗悪人として「裁きの書」に名が記されるという瀬戸際の時があります。その時、判断を誤らないように志を明瞭にしましょう。

09/07/19 霊的な礼拝 ローマ12:1~2


・「そういうわけですから」
 「そういうわけですから」とはこれまでに示されてきたキリストの救いを受けています。神がイニシャティブをとり罪深く無力な私たちのためになしてくださったあわれみの業です。それはただ信じるだけで与えられる救いでした。
 神が主導する救いというパターンは礼拝式の中にも反映されています。招詞、交読、朗読、説教がそうです。

・霊的な礼拝
 「霊的な礼拝」というのは「理にかなった礼拝」という意味です。神が主導する救いに対して、私たちが当然のこととして応答すべき礼拝は何かということです。
 礼拝とは「神を価値ある方として仕えること」です。キリストの救いに相応しく礼拝するとは、身も心も一切を神にささげることです。

・心の一新によって変える
 礼拝の基本は「心の一新」から始まります。私たちは信じていても全体的に古い体質を持っています。神は内側から外側に向かって古い人を新しい人に変えていきます。信仰心は次に自ら魂/精神を変える方向に向かわせます。
 「変える」とは幼虫から蝶々に変わるのと同じことです。内から働くキリストの生命に従って私たちは自分で古い人を脱皮して新しい人にされるのです。

09/07/12 洗礼の恵み ローマ6:3~11


・洗礼の恵み
洗礼は信仰者がキリストによって救われていることを象徴的に現す礼典で、イエスが命じ代々教会が行ってきました。福音自由教会12箇条でも聖餐とともに洗礼を守るべき礼典としています。
 私たちの教会でも洗礼を尊び、信仰者の公の告白の場としまたキリストの救いの恵みをともに覚える時としています。

・キリストと共に十字架に
 洗礼はキリストの霊的救いを視覚的体験的に示します。つまり私たちはキリストを信じるときにキリストと御業に結びけられるのですが、それがどのような意味を持つか具体的に示します。
 第1に、洗礼者が水に入れられるのはキリストともに古い自分が十字架に付けられ死んで葬られたことを意味します。同時に罪がキリストと共に砕かれ葬られたのです。第2に水から上がるときキリスト共に新しく生き返ったことを意味します。同時に、復活の生命を受けて神の子となったのです。
 
・キリストと共に生きる
 洗礼は霊的事実と信仰告白の場であるだけではなく、受洗者の献身の場です。霊的事実を認め、自分でも意志的に罪に死に恵みの中に献身することで、実際にキリストの新しい生命は受洗者の生活と生涯に及んで来るのです。次の通りです。
「キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活ともおなじようになるからです。」

09/07/05 マルコ5:21~24,35~43 タリタ クミ


・ヤイロの求め
 会堂管理者のヤイロはイエスの元に来て「私の小さい娘が死にかけています」と救いを求めます。「私の」「小さい娘」ということばにヤイロの娘に対する並々ならぬ愛情を垣間見ることができます。事実、彼にとって娘はこの世の何にも増して自分が愛する対象であり、守るべき存在でした。その「死(終わり)」は彼の生き甲斐の終結でもありました。

・恐れないでただ信じて
 ヤイロの家に行く途中、娘の訃報が届きます。親がいかに愛情を注いで育てたとしても人間の愛情である限り限界があります。その現実に直面しようとしたときの人間の恐れと不安、絶望感は底知れません。しかし恐怖感の渦の中でヤイロは御言葉をいただきます。
「恐れないで、ただ信じていなさい。」
 御言葉をとおして主イエスはご自分が死に勝利する神であり、復活の生命であることを明らかにしています。主イエスを信じる者は、どのような時にも恐れないで信じ続けることが大切なのです。

・密室
 イエスは少女の部屋に両親と3人の弟子しか入ることを許しませんでした。その密室で、彼はご自分の恵と愛と力と権威のすべてを明らかにします。
 このことは私たちの場合も、主イエスの力を深く知るためには、不信仰が入らない密室が大切であることを示しています。私たちも自らの子供たちを愛し子供たちのために祈っていますが、密室でその恵みの現実を知るのです。

・タリタ クミ
 「タリタ クミ」とはアラム(ヘブル)語で「少女よ 起きなさい」との意味です。福音書著者は生の言葉を示して、愛の深さ、大きさ、強さを表現します。イエスは信じ祈る親たちにまさるとも劣らない愛をもって、子供たちを愛し、生命を注いでくださっているのです。そして御言葉の通りに少女の肉体も生き返ります。

09/06/28 長血女の信仰 マルコ5:25~34


・12年の間長血の女
 「12」とは女の長血ゆえの痛み、辛さ、惨めさ、絶望感のすべてが象徴されています。はじめ幾らかの財産があったのですが、治療費で一切を使い果たしてしまいました。しかも長血は宗教的にも不浄とされる病でしたから、その間家族からも社会からも疎外されていました。罪と死の辛苦の一切を背負った女だったのです。

・女の信仰・・・近づく信仰
 人間の救済手段に絶望した時に、女の心にイエスに対する信仰が生じました。小さいのですが確実な信仰です。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と。イエスの回りには大勢の人々が押し迫っていたのですが、この女だけがイエスに近づいたのです。イエスに近づく唯一の手段は信仰と言うことです。

・イエスを知り知られる信仰
 さらに長血女だけがイエスを知ることができました。それも信仰によります。女は「直ったことを・・・感じた」と。「イエスも・・・気づいて」とあります。どちらも「知る」と直訳できます。全人格的に深く知り、交わりが生じたのです。しかもイエスの「知る」は深く明瞭です。
 私たちの場合もイエスを全人格的に知り交わりをもつ手段は「信仰のみ」です。
 
・救いの信仰
 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」イエスは女に癒しの手段が信仰であったことを明示していますが、同時に死と罪の力から救う唯一の手段も「あなたの信仰」であることを明示しています。「直した」は「救った」です。
 私たちは色々な手段で困難を乗り越えようとしますが、何よりも「あなたの信仰」が「あなたを救う」ことをよく覚えたいものです。

09/06/14 ゲラサ人の地で マルコ5:1~20


・ゲラサ人の地で
 ゲラサ人の地はギリシャローマ文明の地で宗教的には汚れた地でした。神なき世界では悪霊が跋扈(ばっこ)します。墓場から出てきた「汚れた霊」の人は、悪霊に翻弄されて悲惨な中にありました。「彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた」のです。地の人は誰も彼を悪霊から解放することができませんでした。

・悪霊の軍団レギオン
 レギオンとは数千人の兵士からなるローマ正規軍のことです。それだけの多くの悪霊が一人の人の心と魂に駐屯し陣取っていました。神のかたちに似せて創られた人の心の深さ大きさを覚えます。それ故悪霊に陣取られた場合には一層悲惨です。
 レギオンを宿す人は、あらゆる異教文明に存在します。神なく真理を失った人々の心には容易に悪霊どもが巣を作り翻弄することができるのです。それは現代日本も例外ではありません。

・イエスの救い・・・一人の救いの尊さ
 イエスは悲惨な人から御言葉と霊により悪霊を追い出します。事実、二千匹の豚を滅ぼす程の悪霊どもが出て行きました。この人は正気になり、イエスによって新しい人聖霊の人に変えられました。聖霊の人はその地の神の要塞です。彼はデカポリスの地方でイエスを証ししました。
 イエスは一人一人が徹底して改心することを願っておられます。一人であっても悪霊の巣から御霊の人となることは尊いことで、彼を通して神は偉大なことをなすことができるのです。