2013/10/20 ヨハネ福音書4:27~34 秘密の食物

・知らない食物
  主イエスは弟子たちに対して「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」と語られました。その時、弟子たちは、誰かが食べ物を持ってきたのだろうかとしか考えが及びませんでした。しかし、主イエスは弟子たちの食物の範ちゅうを超えた霊の食物について語っていたのです。

・御心なすこと
 「わたしを遣わした方の御心を行い、そのみ業を成し遂げることが、私の食物です。」
  主イエスは天の父から遣わされた神の子です。確かに彼は人として肉の食物も必要としましたが、それ以上に、霊の食物によって生かされていました。それが「御心を行い…成し遂げること」でした。そのことを主イエスは、サマリヤの女に福音を語ることで、あらためて覚え、また喜び満たされていたのです。

 ・「知らない食物」を知る
  「知らない食物」は、キリストに連なる私たちにも必要な食物です。「血肉の食物は、やがてなくなる空しいものです。もし私たちが血肉の食物しか知らないなら、それと共に私たちの魂も滅ぶのです。そこで私たちもまた「知らない食物」を是非、知っておかなければならないのです。そのためには私たちもまた、霊の飢えに気づくこと、さらに私たち一人一人に対する「御心を知り」それを生涯にわたって「成し遂げる」という献身の心が必要です。

2013/10/13 ヨハネ福音書4:16~26 真の礼拝者

・この山でもエルサレムでもなく
  サマリヤの女には心の痛みと重荷がありましたが、それは彼女の民族の礼拝では解決できませんでした。そこで主イエスは新しい礼拝の時代の到来を告げます。その時には、「この山でもなく、エルサレムでもなく」、地上のどの場所でもないところで礼拝がなされ、しかも救いが完全に成就するのです。

 ・真の礼拝者
  その時、礼拝の形態が変わり「真の礼拝者」が起こされます。神が霊であるように、彼らも「霊とまことによって」礼拝します。それは内面の真実さということです。
 主イエスは「今がその時」と語っていますが、主イエスと出会うその時が、すなわち「真の礼拝」の時となるということです。

 ・私です(エゴー エミー)
「わたしです(エゴーエミー)」とは、単に自分を名乗り出ているだけではなく、ご自分こそ絶対的存在で、神の子であることを宣言しているのです。出エジプト3章の「燃える柴」の箇所で現れた神の名と一緒です。
  彼はサマリヤの女の前で、神としてのご自分を現しているのですが、同時に、現代の私たちの前でもみ言葉を通して「わたしです」と語りかけ、私たちとの交わり、また礼拝を求めておられます。

2013/10/6 ヨハネ福音書4:9~15 生命の水

・岩盤
 主イエスはサマリヤの女に生命の水を与えようとしておりました。生命の水とは、地上の水とは異なり、心の渇きを癒す霊的な水です。
  しかし、主イエスとサマリヤの女との間には堅い岩盤がありました。民族の壁、宗教の壁、男女の壁、そして神と人との壁です。これらの岩盤にはばまれて、女はその必要すら理解できませんでした。

 ・この水を飲む者はまた渇く
  井戸や祖先の偉大さに固執する女に対して、主イエスは、その空しさと限界を知らせるために明確に語ります。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」と。
  この悟りは私たちにも必要なことです。私たちも、女と同じように地上の水や物、この国の文化と宗教に固執する傾向があります。これらにすがる者も「また渇くのです。「渇く」というのは、単に喉が渇くというのではなく、生命が果てることを意味します。

 ・「わたし」が与える水
  「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」  「わたし」とは、主イエスご自身です。主イエスは私たちの霊の渇きを満たすために、地上に来られました。そして、「永遠のいのちへの水」となる泉を私たちの心の奥底に与えようとしておられます。私たちは、ただ心から求める時に、その水は与えられるのです。

2013/9/29 ヨハネ黙示録21:1~4  涙がぬぐわれる時

・新しいエルサレム
  世の終わりに、古い世界は過ぎ去って、新しい天と新しい地が出現します。罪も死もなく、神の恵みが支配する世界です。神の都エルサレムが、整えられた花嫁のように、天から下ってきます。その時に、キリスト者たちの人生の結末が、思いもよらない喜びと祝福に満たされることが明らかになります。

 ・神が共に
  神の都には神と御子キリストが民と共に臨在します。地上の生涯においても、確かに神の臨在はありました。それは「密やか」であり「霊的に」でした。しかも、神の臨在感は、しばしば失われて、絶望と悲嘆の淵に立たされることが多かったのです。しかし神の都では、常に変わらず、大陽や月が照らすように明瞭に覚えることができます。

・涙がぬぐわれる時
  神の民は、地上の生涯においては、悲しみがあり、心の奥底に涙をためているものです。しかし神の都では、神が「彼らの涙をすっかりぬぐい取ってくださる」のです。「もはや死もなく、悲しみ」もなく、彼らは永遠の慰めと喜びに包まれます。  

 ・神の栄光を見る
  召天者を覚える時に、ただ過去の悲しみに包まれるだけではなく、「終わりの時」に現される「神の栄光」を信仰の目で見る必要があります。そのようにして、私たちはこの世の悲しみの中でも、喜びを先取りして生きることができるのです。

2013/9/22 ヨハネ福音書4:1~8 旅の疲れで

・旅
  主イエスはユダヤ人との対立を避けて、サマリヤ経由でガリラヤに向かいました。サマリヤはユダヤとガリラヤ地方の中間に位置していましたが、異邦人が住む地域で宗教も慣習も異なり、本来はまったく交流のない地域でした。

・旅の疲れで
  「イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろして」とあります。主イエスは人となった方でしたから、弱さを持ち、渇きも空腹も覚えたのです。
  一方では神として奇跡と復活をなし、他方では人として疲れを覚え弱さを持つ方、それが聖書が示すイエス・キリスト像です。そこに計り知れない恵みが秘められています。

 ・弱さでの出会い
  「ひとりのサマリヤの女」が登場します。彼女は民族的にも宗教的にも主イエスと断絶がありましたが、主イエスは、初めから彼女との出会いを願っていました。彼女は、初め十分に自覚していませんでしたが、弱さを覚え、渇き、疲れた女性でした。色々な断絶がありましたが、弱さという一点で持って、主イエスとの深い交わりに招かれていました。

 ・すべて疲れた人は
  人の弱さ魂の渇きは、同じ弱さ渇を持つ人でなければ、担うことができません。主イエスは私たちの弱さを担うために、私たちのもとに弱くなって来られたのです。
  「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

2013/9/22 Ⅱコリント4:7~11 土の器と宝

・土の器
  人間が「土の器」であるとは、聖書が示す姿です。 低く、卑しい存在、弱く、欠けのある存在、脆く壊れる存在ということです。私たちは年をとるごとに、弱さを覚え自分が土の器であることを再認識します。

 ・宝
   「宝を、土の器の中に」とあります。その「宝」とは、永遠のいのち、御霊 、神の愛、神の子の権利などです。私たちキリスト者は、外見は世の人々と同じでも、その内には、神の宝が豊富に入れられているのです。

 ・宝が現れる時
  私たちの内にある「宝」が外に現れる契機は、「四方八方から苦しめられる」時、「途方にくれる」時、「倒された」時です。そのような時に、私たち自身はパニックになり、弱ります。しかし神の救いが、鮮やかに現されるのです。ちょうど、土の器に欠けやヒビができ、そこから中の宝が輝くようにです。

 ・老年への勧めと励まし
  そこで、ある牧師は老年について、次のように書いています。「たとえ老年になって、孤独や悲しみがあっても、主は共にいてくださいます。…生けるキリストの御手の上で、…主の平安に支えられて、ニコニコ笑って、感謝にあふれて、日々を生きて下さい。」

2013/9/8 ヨハネ福音書3:31~36 神の契約と印

・神の契約の言葉
  主イエスは「上から来る方」で「すべてのものの上におられる」として紹介されています。つまり、天上のいかなる天使よりも、また地上のいかなる権威と力よりも優れているということです。またその「あかし」もまた、真実です。

 ・神は真実であるという印
  また「そのあかしを受け入れた者は」神の救いの契約関係に入れられます。ちょうど契約書に印鑑を押すように、主イエスのあかしを信じた人は、永遠の契約書に印を押したとみなされます。その救いの契約に異議をはさむ者は天地に誰もいません。

 ・永遠のいのちを受ける
  契約が成立した時に、そこで約束されている救いと恵みは一切が、信仰者のものになります。具体的な救いと恵みは聖書に逐一記されています。私たちはそれを確かめて知り、日々、救われるのです。その最大の賜物は永遠のいのちです。ちょうど主イエスが復活されたように、私たちの心と霊に復活の恵みと力を与えるのです。

 ・信仰者の誠実
  私たち信仰者は神によって引き寄せられて信じるものとされましたが、この神の救いの契約に入れられた者は、それに相応しい信仰と誠実さをもって生涯を全うすべきです。その時に、神がその契約を守られて、その人の生涯に永遠のいのちの足跡が刻まれるのです。

2013/9/1 ヨハネ福音書3:17~21 光の子 闇の子

・キリスト
  主イエスは救い主として闇の世界に遣わされました。そこで、キリストをとおして世にある者たちは、明瞭に光と闇として区別されていくことになります。キリストを信じる者は光の子とされ、キリストを退ける者は闇の子として留まります。  

 ・裁きと闇の子
  キリストが唯一の光なので、キリストを信じない者は、光よりも闇を愛する者です。そして、闇の子となり、世に執着して闇に染まります。また、光を憎むようになり、自分を光から遠ざけていきます。その結果、闇とともに苦しみ、滅び去ります。

 ・救いと光の子
  しかし、キリストを信じた者たちはいわば「真理を行う者」です。神に対して「まことをなし」義とされ、祝福を受ける者ということです。彼らは、キリストの祝福のただ中に導かれます。つまりは「光のほうに」導かれていく光の子です。

 ・光の子とし
  私たちはキリストを信じるという真理に導かれ、光の子とされています。そこで大切なことは、ただ真理であるキリスト信仰に留まることです。そのようにして神によって祝福され、光としての実を生み出すことができます。

2013/8/25 ヨハネ3:16 神は世を愛された

・世の悲惨
  私たち人間は、罪と死の支配下におかれており、暗闇の世界に投げ出された存在です。心の中には不安と恐れがあり、実に悲惨な存在です。
  確かにそれぞれの民族には、守護神があり、その神の名を呼ぶのですが、その不安と恐れを解消することはできません。

 ・神
 そこで神は世にある人間を憐れみ、聖書を通してご自分を啓示しておられます。旧約では天地創造の神であって、人間も神から出た存在であることを示します。さらに旧約の民を選んで、彼らを通して、恵み深い(ヘセド)神であることを証ししてこられました。

 ・神は世を愛された
  しかし、最後の時に神のひとり子イエス・キリストを世に与えることによって、愛を示されます。「神のふところにおられるひとり子の神」を与えるほどの愛ですから、それは絶対的な愛です。
  この神の愛は、人間の良さに起因するのではなく、神の良さに基づいて与えられます。私たち人間の側に落ち度や罪の汚れがあったとしても、神は御子によって絶対的に愛し続けるのです。

 ・神の愛を受け入れること
  地上の場合でも天上の場合でも、真実な愛を示された時に、相応の応答が必要とされます。それはいつの場合にも、その愛を信じて受け入れることだけです。特に神の愛を信じ受け入れる時、そのプレゼントを通して永遠の生命と無限の恵みが顕わにされてくるのです。

2013/7/28 ヨハネ3:1~3 新しく生まれる

・ニコデモと夜
  ニコデモはパリサイ人として律法と伝承によって行いを積み重ねて、神の国に入ることができると考えていました。しかし老年になっても、神の国に近くなっているとは思えませんでした。昼は指導者然としていましたが、夜は迷える羊でした。

 ・イエスと神の国
  彼は、主イエスの様々なしるしを見て、イエスが「神のもとから来た教師」と思いました。そこで、イエスのもとを尋ねたのです。
 彼が求めていた神の国とは、旧約ダニエル書などで預言されていることで、神が支配する国のことです。この世に到来し、しかも後の世にまで続く国です。人がその国に入れられるならば、幸いを得、また永遠の生命を持つのです。

 ・新しく生まれる
  主イエスは彼に対して明瞭に語られます。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」  神の国には人間の努力を積み重ねても入ることはできず、神の生命を受けて生まれ変わるのでなければ不可能なのです。地上の生命は地上の生命で終わり、天の生命だけが神の国の恵みと祝福に預かるのです。

 ・信仰による
  神の国は、キリストの到来とともにすべての人に提供されていMS雨。そして神の国に入る手段はすべての業と誇りを捨てて、ただキリストを信じる信仰だけです。

2013/7/14 ヨハネ福音書2:23~25 人の内にあるもの

・お任せにならなかった
  過越の祭りの間、主イエスはしるしを現したので、多くの人々が信じました。しかし、主イエスは「ご自身を彼らにお任せにならなかった」とあります。彼らは目に見える奇跡を信じただけで御利益信仰に留まっていたからです。

 ・人の内にあるもの
  また「イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので」とあります。「人のうちにあるもの」とは、罪であり、ついには敵対するまでになる悪です。
  確かに十字架直前に、人々の内にあるものが噴出して、ユダの裏切り、ペテロの否認、弟子たちの見捨てる姿となってあられます。

 ・人の内にあるもののため
  主イエスは「人のうちにあるもの」が顕わになり、弟子たちがそれを自覚するために、十字架の死を忍ばれました。
  十字架の死は、同時に「肉において罪を処罰された」出来事でした。一人の人アダムを通して罪がはいったように、一人の人キリストによって罪が処罰されたのです。そこで自らの罪を知って、キリストを信じる者は、誰でも救われるのです。

2013/7/7 宮きよめ ヨハネ2:13~22

・宮きよめ
  主イエスは宮の中に「牛や羊や鳩を売る者たちと両替人」がいるのを見て「細なわでむちを作って」宮から追い出しました。そこは異邦人の庭で祈りの場であり、それが妨げられていたと言うことと、さらにはマラキ3:1の預言の成就としてキリスト到来のしるしでした。

  ・「父の家」のための熱心
  「わたしの父の家」とは礼拝の場です。そこで神はご自分を現し、民と交わるのです。神は礼拝を切望していますし、御子キリストもまた、「商売の家としてはならない」ことを熱心に示し、保とうとされたのです。しかし、ユダヤ人は主イエスの変革を拒み、憎み、やがて十字架刑にして捨て去ります。

 ・新しい神殿
 「わたしは、三日でそれを建てよう。」  それ故、主イエスは古い神殿を廃棄し、十字架の死の三日後、復活によって新しい神殿を創設されました。それはまた、キリスト信仰者からなる教会のことです。そこで父の神は教会に臨在し、信者と交わり、ご自分の栄光を現します。

 ・教会と礼拝
  私たちの国で、多くの宗教は実質において商売の家です。また礼拝対象は死霊です。そこには聖さも、生命も存在しません。そうした社会において、私たちがキリストの熱き霊を持って、神に礼拝を捧げることは、正しく神の光を現すことです。

2013/6/30 カナの婚礼から ヨハネ2:1~11

・「わたしの時はまだ」
  主イエスが、カナでの婚礼に出席した時、ぶどう酒が欠乏しました。そこで、母マリヤは主イエスに対して欠乏を告げて、求めました。
  ところが主イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と一蹴しました。しかし、拒絶したのではなく神の御業は人間的な思いや願いで起こるのではなく、ただ「神の時」だけに起こることを知らせたのです。

 ・「イエスの時」を待つ
  マリヤはイエスの言葉通り「その時」を待ちました。手伝いの人々にもその旨を伝えています。また手伝いの人々は「水がめに水を満たしなさい」と促されたときに、それを徒労とも考えずに、つぶやくことなく、その言葉通りにしています。

 ・「さあ、今くみなさい」
  その時が到来し、主イエスは「さ あ、今くみなさい」と告げます。手伝い人はその言葉に従って水を汲んで宴会の世話役に持って行きました。その時、水はぶどう酒に変化しており、しかも極上のぶどう酒になっていました。そこで彼は花婿に「…あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」と賛辞を添えたのです。

 ・「カナの婚礼」から
  カナの婚礼から私たちは欠乏の時の対処法について学ぶことができます。生活の欠乏、力と意欲の欠乏の根源は、私たちの生命が血肉の生命であることによります。その時には、「イエスの時」を待ち望んで備えるが肝要です。信じ待ち望む者には、「イエスの時」は確実に訪れ、私たちとその生活を新しい生命と恵みとで満たすのです。

2013/6/23 ヨハネ1:43~51 いちじくの木の下で

・ナタナエル
  ナタナエルがピリポから主イエスについて聞かされたとき、「ナザレから何の良いものが出るだろう」と一蹴しました。先入観と偏見があったのです。しかし実際に、「来て、見た」時に、その偏見は取り除かれました。

 ・本当のイスラエル人
  主イエスはナタナエルを見たとき、即座に「…ほんとうのイスラエル人」と語られました。それは神を信じて、メシヤの到来を切に求め、祈る人のことです。
 多くのイスラエル人たちは、血統と律法に安住して、心の中の信仰が失われていました。その中で、ナタナエルの信仰姿勢は際だっていました。

 ・いちじくの木の下で
  「どうして私をご存じなのですか」との問いに、主イエスは「…あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」と語られました。そこは預言書(ミカ4:4、ゼカリヤ3:10)によるとメシヤの時代の敬虔な者たちの集うところとされ、そこで彼は神に切なる祈りを捧げていたのです。その真実な彼の姿を、主イエスは「見て」おられたのです。
  その言葉を聞くやナタナエルは、即座にイエスこそメシヤであることを知り信仰告白をします。

 ・私たちも
  現代は、敬虔な人柄や祈りが軽んじられる時代です。しかしこの時代でも、主イエスはそのような人々を「見て」おり、彼らにご自身を知らせ、またすばらしい御業を現されるのです。

2013/6/16 コロサイ3:18~21 お父さん頑張って

・家族の絆の危機
  現代は家族の絆がドンドンと緩み出し、それが不幸の原因となっています。色々な事件の背後には、家族関係の破綻があることがあります。それは私たちの社会に、家族の絆を支える不易不動の信仰と価値観が不在だからです。  

 ・父権の自覚
  家族の絆には、夫と妻、親と子どもの関係がありますが、父親は全体の要となります。父親の立場と権威が確立されるときに、家族の絆は盤石になります。
  父権は、ただ主イエスによって授けられる権威で、父親はそれをしっかりと自覚し、その自覚の中で子どもとの関係を築くのです。

 ・生かす父権
  しかし、主にある父権は律法的に命令するだけのものではありません。むしろ子どもを生かすための権威です。ですから、常に子どもの主張にも耳を傾ける必要があります。 「子どもをおこらせてはいけません」とあるとおりです。
 父親の有無を言わせない教育では、「気落ちして」子どもは心傷ついてしまいます。

 ・癒し、祝福する父権
  主にあって癒す父権であることも覚える必要があります。父は厳めしいようですが、意外に癒す存在です。それは子どもの言い分にも耳を傾け、子どもの思いを受け止めるときに実現します。  父子が和解する時に、子どもは主に喜ばれ祝福された者となります。

2013/6/9 ヨハネ1:35~42 イエスとの交わり

・何を求めているのですか
  二人がついて来るのを見て、主イエスは「あなたがたは何を求めているのですか」と尋ねます。この問いで彼らの求めを明確にしようとされたのです。
  それに対して二人は「ラビ、今どこにお泊まりですか」と問います。彼らは何よりもイエスご自身と新しい世界をを知ることを求めたのです。

・主イエスを知る
  それに対して主イエスは「来なさい、そうすれば分かります」と語りました。単に知識で情報を知らせるというのではなく、とにかく主イエスのところに行って、体験的に、全人格的に知るように促したのです。
 二人はついて行って、「イエスの泊まっておられる所を知った」とあります。そこで彼らは、主イエスとの交わりを持ち、イエスをも知ったのです。それは「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」1:14でした。

 ・イエスに知られる
  翌日、二人の内の一人アンデレは兄弟のシモンをイエスの元に連れてきます。そのとき、「イエスはシモンに目を留めて…「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパと呼ぶことにします」と告げます。
  この短い言葉から、イエスはシモンの一切を知り、受け入れていることが分かります。さらには青年であった彼に新しい自分と将来の展望を与えているのです。  私たちの場合も主イエスの御元に行くとき、彼との交わりを得、さらに私たち自身の新しい姿が示されます。

2013/6/2 ヨハネ福音書1:32~34 御霊が鳩のように

・御霊
  御霊は父の神、子の神に続く第三格の神で、父と子と同じ力とご性質を持ちます。父が救いを計画し、子が成就し、御霊は現代の私たちに実現します。
  御霊が与えられることについて、旧約以来、預言されていました。「その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」ヨエル2:29とあるとおりです。

 ・鳩のように
  「御霊が鳩のように天から下って」とあります。「鳩のように」とは神との平和と生命をもたらし実現するものとしての象徴です。
  また、「この方」「その方」とはイエス・キリストのことです。キリストは御霊を受け、またその御霊をご自分を信じる者たちに注がれる方です。その御霊は、私たち信仰者たちにも「鳩のように」、神の平和と生命、また愛と力を与えます。

・聖霊のバプテスマ
  バプテスマとは「洗い」を意味しいます。水の場合は、表面だけしか洗うことができず、心の奥底を支配している罪は残ります。しかし、御霊による場合は、心の奥底まで洗い尽くし、完全に神に受け入れらるものとするのです。
  人の心は、アダム以来の罪と死の力に支配され、恐怖の霊が宿っているものです。しかしキリストを信じて御霊を受けた人はただ信じたと言うことだけではなく、実際的に、今も生きて働く御霊の支配におかれ、完全な平和と希望と愛が宿ります。

2013/5/26 ヨハネ福音書1:29~31 見よ、神の小羊

・「見よ」
 ヨハネは「見よ」と言って、人々に対して神の世界に心の目を向けて、その世界を知るようにと促しています。
  ヨハネは常人とは異なり、神の眼差しで世界を見る賜物を受けていました。それで「見よ」と言って、他の人々も彼と同じように、彼が見ていた霊的世界を知るように促しているのです。

 ・神の義と人の罪
  ヨハネが与えられていた神の眼差しとは、第1に、御言葉と聖霊に照らされて、神の義と聖を知らされていたと言うことです。第2には、世、すなわちすべての人間が深刻な罪の中にあることを知っていたことです。第3には、罪人である人間が、確実に裁かれる存在であることです。

・世の罪を取り除く神の小羊
  また、彼はそれらをバックグランドにしてイエス・キリストを見いだしました。イエスは表面的には、常人であり、際だった姿ではありませんでした。しかし、ヨハネはイエスが「世の罪を取り除く神の小羊」であることを知りました。それはすべて聖霊の導きにより、聖霊によってよく「見た」からです。

 ・信仰生活で「見る」こ
と  「見る」ことは大切なことであり、よく「見る」ことによって対象を深く洞察できるのです。それはイエスについても同じです。つまり、私たちが毎日、聖書を読むことで、また現実の罪の狭間で、「イエスを見る」時に、私のための「神の小羊」としての姿が際だつのです。

2013/5/19 ヨハネ1:19~24 荒野で叫ぶ者の声

・バプテスマのヨハネ
  バプテスマのヨハネはイエス・キリスト到来の先駆けとなって、荒野で悔い改めのバプテスマを説いた人物です。
 彼の人気は大きく、人々に「キリストかも?」と待望されていました。しかし彼自身は自分の使命を明瞭に認識し、きっぱりと「私はキリストではありません」と言明しました。

 ・荒野で叫ぶ者の声
  また自分の使命は「「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声」であると語ります。つまりキリスト到来の準備のために、人々の心を悔い改めに導き、待望心を持たせる役目であるということです。自分自身は何ら実体はなく、ただ人々を促す「声」であるということです。

 ・あの方は盛んに、私は衰え
  「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」ちょうど、花婿の友人が花婿到来の際に退く情景です。そのようにして、花婿と花嫁はめでたく出会います。
  バプテスマのヨハネは、自分の弟子たちの前で、イエス・キリストの栄光を示し、自分を衰えさせました。事実、歴史もその方向に動きます。

 ・私たちの心の内でも
  私たちの周囲には色々な人々がおり、色々な形で「私」に影響を与えています。また「私」自身もその人々に対して依存しています。
  しかし神の御心は、その人々は手段であって、彼らを通して「私」がキリストと出会うことを願っておられます。そこで「私」自身も、祈りの中で人から離れ、ただ「キリスト」を第1とする信仰姿勢を確立して行くことが大切です。

2013/5/12 Ⅰコリント13:4~13 シャクナゲ色の母の愛

・シャクナゲ色の母の愛
  母の日の頃、シャクナゲの花が咲きます。薄紅色の花は、母の愛の優しさ、親しみ、美しさにピッタシだと常々思います。
  母の愛が良い色に染まっていくためには、日頃の労苦が付きものです。「愛は寛容であり、愛は親切で…」とありますが、これらの愛は決して楽ではありません。自分が砕かれるのと比例して、私たちの内に生じるのです。

 ・永遠の愛の色
 母の愛が、キリストの愛によって深められ、純化されるときに、その愛もまた「決して絶えることがありません」。
  現代の母は、色々な能力や知識が要求されるのですが、子どもとの間で育まれる愛ほど、価値あるものはありません。地上の賜物も、能力も、財産もすべて廃れていく中で、愛のみは「絶えることはない」のです。

 ・ある母の愛
  東日本大震災のおりに、ダウン症の孫を助けて、自らは津波にながされた女性がいました。孫が車に乗るのを見届けてから、名を呼んで「バンザイ、バンザイ」と叫んだそうです。
  ダウン症の子の母は、後でその話を聞かされました。初めは、父を責め、ダウン症の子どもを生んだことを悔やんでいました。しかし、孫を助けるために自分の生命を捨てた母の愛、また愛の中で生かされている子どもの柔和な笑顔を見ているうちに、少しずつ心の傷が癒されたということです。
  キリスト者の母の場合は、何よりもキリストの愛によって、愛が強められ、深まるのです。

2013/5/5 ヨハネ福音書1:18 父のふところにおられるひとり子の神

・神を見た者はいない
  「宗教の種」とは、人間には生まれながら神を求める心があるという意味です。しかしその「宗教の種」は腐っていて、完全に神の姿を創り出すことができないのです。
  そこで神は旧約時代から1つの民族を通してご自身の啓示を与えられました。それでも、神についての片鱗にすぎず、直接に「神を見た者はいない」のです。

 ・父のふところのひとり子の神が
  「ひとり子の神」とは、胎内から生まれたと言うよりも、父を起源として生まれたひとりの神という意味です。父の神と同質なので、父を十二分に受け止めることができます。
 「ふところにおられる」とは、最も親密に、最も愛の中におかれている状態を表します。そのようにして父を直接に知っていたのです。

 ・最後で完全な「説き明かし」
  「ひとり子の神」が地上に来られたのは、「神を解き明かす」ためです。それは、ご自分の一切をさらけ出し、生涯の業を通してなされました。また弟子たちと個人的に交わりながら、あらゆる機会を捉えて「説き明かした」のです。
  彼の「説き明かし」だけが、完全であり、最後の説き明かしです。その他は、偽りであり、誤りです。

 ・イエスの元で神を知る
  私たちが「ひとり子」の説き明かしを受けるためには、私たち自身も子と同じように「父のふところ」に飛び込み、留まることが大切です。そのときに、子を通して、父の愛を受け、父の御姿がクッキリと心に刻まれるのです。

2013/4/28 ヨハネ1:14~17 ひとり子の栄光

・「ことば」は人となって
  「ことば」は神であるのに、人の姿を取られました。そして「私たちの間に住み」ました。つまり約二千年前のユダヤで誕生し、ガリラヤのナザレでヨセフとマリヤの子として育ちました。  この地上での具体的な生涯を通して、彼の神としてのご人格と業が明瞭に示されました。

 ・ひとり子の栄光
 彼は「父のみ元から来られたひとり子としての栄光」を現されたのですが、それは「恵みとまこと」でした。これらは、旧約以来、神のご性質して啓示されてきましたが、彼において完全に現されたのです。つまりは、神であるのに人となられたこと、十字架の死にまでも至られたということにおいてです。

 ・「恵みの上に恵み」を受けた
  福音書記者は、イエスに愛された弟子でしたから、その豊かさを良く知り、また「恵みの上に恵みを受けた」と証言しています。しかし、それは彼だけではなく、すべての時代のすべての人が受けることができます。彼を信じるときに、大海のような恵みがやって来るのです。

 ・「恵み」を見いだす
  そこで、私たちは他の何ものでもなく、まず第一に福音に向かうべきです。そこにイエスが啓示されており、彼と出会うことができます。さらに、彼の内にある「まことと恵み」をいただくことができるのです。その恵みのみが、私たちにとって益となるものであり、私たちを生かすのです。