2015/8/2 ヨハネ福音書14:15~17 もう一人の助け主



・もう一人の助け主
 主イエスは地上を去った後に「もう一人の助け主」を与えることを約束しました。「もう一人の…」とは「イエスとは別の…」ということです。その方は、地上のイエス以上に、弟子たちと「ともにおり」「ともに住み」「うちにおられる」方です。

・真理の霊
 その方は「真理の御霊」です。「御霊」とは神の霊と言うことで、目に見えないけれども、永遠に、しかも弟子たちの心の中に住む存在者です。「真理の…」とは、世の霊のように偽ることがなく、確実に救いに導く方ということです。
 御霊は三位一体の神の第三格で、父の救い計画、子の贖罪を現代の私たちに完全に実現させる力ある神です。

・あなたがたはその方を知る
 「もう一人の助け主」は霊ですから、この世の人々は目で見ることも感じることもできません。ただキリスト信仰者たちが、心の奥底に受け入れ、交わりを、知ることが許されています。
 現代社会は霊という存在に無頓着で心が虚ろです。あるいは神々の霊、祖霊、悪霊、お化けを恐れて、恐怖に中におかれています。しかし、私たちは「もう一人の助け主」である御霊の内住を信じ、その霊によって平安を持ち、愛され、救われるという体験を証ししていくべきです。

2015/7/5 ヨハネ福音書14:4~6 わたしが道



・わたしの行く道
 主イエスが「わたしの行く道はあなたがたも知っています」と語られました。「父の家」という目的地に行くためには、必ず道があるのは当然です。しかし弟子たちは、その道は何なのか見当がつきませんでした。「父の家」つまり天国にいたる道は、この世の常識的な道とはことなるからです。

・「わたしが道」
 「わたしが道…です」とあります。これまでも主イエスは「わたしが…です」という形で、絶対的パーソンとしてのご自身を啓示してきました。イエスのパーソンとは、人となった神の子として永遠、聖さ、正義を持った方です。さらに、この後の十字架と復活の業を通して贖い主、愛を備えた方として、弟子たちと私たちに現れることになります。その「わたし」が「道」であると言うことです。その道は、彼を信頼し、信じることで「あなたの道」となります。

・唯一の道
 「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」とあります。世の中には、色々な道、真理、いのちを説く宗教と哲学がありますが、主イエスはただご自身のみが唯一の道、真理、いのちと宣言しているのです。主イエスの道は、「わたし」というパーソンとの絶対的関係の中にあるのですから、同時に、他のものと関係を持つことも、すでに逸脱です。つまり「わたし」に対して「あなた」が専心することが大切なのです。

2015/6/28 ヨハネ福音書14:1~3 天の住まい



・神とイエスを信じる
 主イエスは弟子たちの別離に際して「心を騒がしてはなりません」と感情を沈めるように促します。また「神を信じ、またわたしを…」と語ります。別離の目的を理性と信仰で受け止める時、それは必ずしも悲しみではなく、飛躍した喜びにつながるからです。

・天の住まい
「父の家には住まいがたくさん…」とあります。父の家とは天の住まいのことです。地上にも住まいと生活があるように、天にも住まいが用意されています。それは地上の住まいよりもすぐれ、父の神、子キリストの臨在が近くあります。私たちは小さい者で罪ある者ですが、主イエスが神の子の権利と贖い主としての権利でもって、私たちのためにも「天の住まい」が用意されます。

・また来て
 「また来て」とありますが、キリストの世の終わりの再臨だけではなく、聖霊による来臨を意味します。主イエスは現代も、聖霊において私たちを絶えず導き、ついに「天の住まい」に迎え入れるのです。

・死生観の転換
 私たちの心には肉によって植え付けられたネガティブな死生観があります。それをイエスが啓示するみ言葉と信仰によって克服して、希望と喜びある死生観に転換する必要があります。それによってより充実した信仰生活となるのです。

2015/6/21 創世記28章 祝福する者



・父イサクの祝福
 父イサクは晩年に、子ヤコブを呼び寄せて祝福しています。彼自身もアブラハムの祝福を受け継いでいましたが、さらにその子孫に祝福を伝えようとしているのです。
 彼の祝福の内容は「全能の神が祝福すること」「多くの子が与えられること」「土地を継ぐようになること」でした。さらには神の救いの継承も暗示されています。

・子ヤコブの生涯
 子ヤコブは不安感の強い人でした。そこで人一倍、祝福を求めている人でした。それで父の祝福の言葉は励ましとなり慰めでした。そして、その後、波瀾万丈な生涯を送ることになるのですが、不思議に父の約束の通りに、彼は幾度も危機を脱して、神の恵みを獲得するようになるのです。

・父…祝福する者
 父親は祭司的な賜物を与えられている人々です。その祝福は、子たちを励まし、力づけることになります。
 また父親と年配の男性は、社会の中でも祝福を与える者として立てられています。その社会的経験と威厳と愛情を持つ人間が、祝福することで、地域の子どもたち、教会の若い世代は、力づけられるのです。

2015/6/14 ヨハネ福音書13:36~38 「主よ。どこに…」



・「主よ。どこに…」
 ペテロは弟子団のリーダーであるだけではなく、信仰者の典型として描かれています。彼は主イエスが去って行くことを察知して「主よ。どこにおいでになるのですか」と尋ねています。主であり、師であるイエスに付き従って目的地に達することが弟子の本分だからです。

・今は…できません
「今はついて来ることができません」とあります。「今」とは、十字架前の時であり、自分の罪と神の愛の深さを認識していない時のことです。あるいは、彼がいまだ古い人から新しい人に変えられる以前のことといえます。肉のままの状態では、イエスに従って十字架に向かい神の国に至ることはできないのです。

・十字架の下で
 このことはすべての信仰者にも共通に言えることです。純粋な信仰は自分の罪を深く知るところ、神の愛を知るところから生じます。カルバンは大切な知恵は二つあると語っていますが、その知恵とは自分自身と神についての知恵です。信仰者は生涯をかけて二つの知識を深めていくのです。その発見の場はいつも十字架です。

・後には
「…しかし後にはついて来ます」と主イエスは語りましたが、主イエスの十字架の後、ペテロは全く新しい人に変えられました。そして主イエスの道を自分の道として生涯にわたって従っていったのです。伝説によると最後は、逆さ十字架にかけられたと言われています。

2015/6/7 ヨハネ福音書13:31~35 新しい戒め



・人の子の栄光
 ユダが出て行った時に主イエスは「人の子は栄光を受けました」と語りました。ユダの裏切りにより、主イエスの受難が始まるのですが、しかし、それにより主イエスが地上に来られた神の目的、つまり贖いが成就するからです。そこに神の子として姿、つまり、神の愛が明らかになるのです。

・新しい戒め
 主イエスは弟子たちの元から去ることを予知します。同時にイエスなき時代に弟子たちが何によって、イエスの弟子集団として存在するかを明示します。それは「新しい戒め」によります。モーセの時代にシナイ山で与えられたのは「古い戒め」と対比されています。「古い戒め」は恐怖の中与えられた戒めでしたが、「新しい戒め」は神の愛を土台とした戒めです。

・「互いに愛し合いなさい」
 「私が愛したように互いに愛し合いなさい」これ[新しい戒め」です。「愛する」とはアガペーという言葉で、神が持つ愛です。その愛は不敬虔な者や罪人のために、自分の生命を捨てるという愛です。このアガペーの愛は生来の人間にはありません。ですから、私たちは、私たち自身に注がれるイエスの栄光に照らされながら、その愛を心に宿し、そして兄弟に対して実践できるのです。そしてイエスの弟子集団であり続けるためには、この「新しい戒め」「愛」の目標からぶれないことが大切です。

2015/5/31 ヨハネ福音書13:21~30 ユダの裏切り



・最後の晩餐
 最後の晩餐の席で、主イエスはユダの裏切りを明瞭に察知して「霊の激動を感じ」ています。また弟子たちも主イエスの言葉によって狼狽えています。これまで主イエスは弟子たちを愛し、育ててきたのですが、なお弟子たちは世的で、それは根強いものでした。この裏切りは、そのような弟子たちの自己中心と虚栄から生じた悪の実といえます。

・ユダの裏切り
 「彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった」とあります。ユダは、完全にイエスのもとから離れ去り、サタンまた悪魔の権化となって裏切りを実行することになるのです。人間的に見れば、この裏切りによって弟子団は崩壊し、主イエスは十字架の悲劇にあうことになります。しかし、それさえも神の計画に立ち返れば、神の勝利/イエスの救いに繋がります。

・闇はこれに打ち勝たなかった
 私たちもまた、地上の生涯において信仰の挫折や失敗を経験します。しかし、いつでも私たちが主イエスの元にに立ち返るなら、神の勝利に繋がります。そして以前よりも、よりキリスト教信仰の本質とキリストの光とは何であるか明瞭に認めることができるようになるのです。
 「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」ヨハネ1:5とありますが、まさにそのとおりです。

2015/5/24 ヨハネ福音書13:12~17 主イエスの模範



・教師/主であるイエス
 主イエスは「上着を着けて、再び席に着いて」弟子たちに対して語っています。それはご自分が彼らの「先生であり、主である」ということです。それは単に当時の弟子たちにとって一時的な教師/主というのではなく、絶対的な教師/主ということです。弟子たちも、いつの時代の人々も彼から学び、彼に従うべきと言うことです。

・主イエスの模範
 主イエスは弟子たちの足を洗いましたが、それが弟子たちのための模範であることを明示しています。模範とは、人々が心に刻んで覚え、さらにその通りに実践する型ということです。
 人は本質ではなく枝葉のことを記憶して、それを真似て満足しがちですが、私たち主イエスの模範をしっかりと心に刻み、実践すべきです。

・互いに足を洗う
 「互いに足を洗い合う」というのは自分とプライドという殻を脱ぎ捨てて無になること。さらに相手の必要に答えて仕えることです。また「互いに忍び合い…互いに赦し合う」こともそうです。このようにして、主イエスの弟子たちは、実際に模範にならって自分の殻を破って「仕え合う」ことで成長するのです。

 世は互いのエゴとプライドで人間同士がぶつかる社会です。この社会の中にあって、教会は新しい人間関係、新しいコミュニティーの形を提供するのです。

2015/5/17 ヨハネ福音書13:1~11 キリストの洗足



・愛を残るところなく
 「自分の時」とは、主イエスが救いを完成し、勝利者として父の元に返る時を意味します。それはまたペテロを初めとした弟子たちと別れる時を意味していました。そこで主イエスは弟子たちに対しての愛をよく分かるようにして示し、また分かれた後にも継続する愛の交わりを象徴的な形で示しました。

・キリストの洗足
 主イエスは仕える者となって、弟子たちの足を心を込めて洗いました。「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」 とある通りです。そこにキリスト愛の形と心が現されたのです。

・洗足と霊的交わり
 ペテロは主イエスによる洗足を恐れ多いこととして拒もうとしました。しかし主イエスは「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と語って諭します。この主イエスとの関係とは、昇天後の霊的関係をも意味します。
 つまり、地上に生きる限り弟子たちは罪や汚れに染まることは避けられません。そのようなときに自力本願的に自分の罪を聖めることは不可能だし、そのような努力は誤りです。むしろ素直に主イエスに祈って罪を告白して、聖めていただくことが大切なのです。それによって愛の交わりも保たれまた深まるのです。

2015/5/10 母の日礼拝 出エジプト2:1~10 「かわいいのを見て」



・かわいいのを見て…守る
 モーセの母はヨケベテという名の女性でした。彼女はアロンとミリヤムの母でもあり、立派な信仰者だったようです。
 モーセが生まれたのは、神の民にとって危機の時代でした。しかし彼女は「そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた 」とあります。「かわいいのを見て」とは単に人間的な感情だけではなく,「神の御心にかなってかわいい」ということです。それで自分の人間的な力を超えて、子どもを危険から守ろうとしたのです。

・神にゆだねる
 しかし、自分で子どもを守ることができなくなったときに、「自分が」と固執することなく、神に子どもをゆだねる決意をします。「かごを手に入れ…子を中に入れ、…葦の茂みの中に置いた」とあります。神はその信仰をご覧になり、その子にパロの娘という救助者を与えたのです。

・真の神を教える
 さらにヨケベテは、モーセの乳母として宮廷に入り込んで、彼に真の神について教え、宗教心を養いました。モーセはエジプトのあらゆる学問を学んだのですが、その心は真の神信仰に支えられていました。それによってやがて,神の民の救済者として活躍することになるのです。
 母親が自分の子供をかわいいと思うのは,当たり前の感情です。その生来の感情を昇華させる時に、神の恵みもまた、溢れるほどに注がれるのです。

2015/5/3 ゼカリヤ14章 安住の地



・「主が来られる」
「その日、主の足は…」と主なる神が地上へ来られることが預言されています。神は唯我独尊で天に留まっている方ではなく、地上に介入される方です。そして神は審判者としてまた神の民を救うために必ず来臨するのです。その時に、すでに眠っていた聖徒たちも共に現れ、地上に残った民と共に、新しいエルサレムつまり神の国に入れられます。

・夕暮れ時に光
 神の国では「光も、寒さも、霜もなく」「昼も夜なく」とあります。地上の暑さ寒さだけでは無く、一切の苦しみと困難が過ぎ去って無くなったことを意味します。ただ「夕暮れ時に、光」とありますが、この「光」は神の光です。神の光だけが人に平安を与え永遠に生かすのです。

・永遠の湧き水
 「エルサレムから湧き水が流れ出て」とあります。この湧き水は神ご自身から流れ出る生命の水です。これによって民も潤され永遠の生命を得ます。
 これらの預言は,すでに主イエスにおいて霊的に実現しています。そして、「終わりの日」に公に実現します。

・安住の地
 私たちには地上の住まいがありますが、それらは必ず廃り,過ぎ去るもので、また苦難もあります。私たちにとって、ただ神の国だけが安住の地です。そこで地上の生活の中でも、祈りの中で霊的安住を覚えつつ、未来の公然とした安住の地への希望を育むのです。