2014/10/5 ヨハネ福音書10:16 1つの群れ



・この囲いに属さないほかの羊をも
 この囲いに属さないほかの羊」とは、当時の弟子以外の者たちのことを意味します。やがて福音は異邦人世界に伝えられ、多くの改心者たちが起こるのです。その宣教の担い手は使徒たちと宣教者たちでしたが、背後で導くのは主イエスご自身でした。現代でも、導く方は主イエス・キリストです。

・わたしの声に聞き従い
 主イエスが人々を導く手段は、恐怖による強制ではなく、み声を通してです。選ばれた人々は、その声に信頼し自発的に「聞き従い」ます。現代において「み声」とは、聖書の言葉です。私たちは聖書からの説教を聞き、あるいは自分で読むのですが、背後で主イエスが個人個人に語りかけているのです。その言葉に「聞き従う」ということです。

・1つの群れ ひとりの牧者
 「1つの群れ」とは乱雑な集団ではなく、良く牧された群れのことです。1つの志を持って有機的な交わりを持ち、1つの思いで行動し、1つの方向に養われ成長し、1つの生命となって生み出す群れと言うことです。
 この1つの群れは、ひとりの良い牧者によってのみ、成立します。主イエスは民のためにいのちを捨てて愛を示し、また罪と死に打ち勝つ力と権威を持つ方です。この方によってのみ、「1つの群れ」は造り上げ荒れます。
 教会は現代における「一つの群れ」です。互いにみ言葉に聞き従って、交わりを形成するときに、それは実現し、そこに、主イエスの栄光が現れます。

2014/9/28召天者記念礼拝 ヘブル11:13~16 天に憧れる



・聖徒たちの信仰
 聖書に出てくる聖徒たちの信仰は、単に地上の平安を神に求めるだけではありませんでした。むしろ天の故郷を求めるものでした。「はるかにそれを見て喜び迎え」とあ瑠通りです。彼らは神の約束を心に刻み、未来の時を先取りして喜んで地上の毎日を過ごしたのです。

・天に憧れる
 神が信仰者たちに約束している天の故郷について「さらにすぐれた故郷」と表現されています。地上の故郷と比較して、さらにすぐれた故郷ということです。
 私たちには未知のものを想像できません。それで、聖書では、今のものよりも「さらにすぐれた」という形で、天の祝福を表現するのです。私たちは地上の故郷のよさを知っていますが、「さらにすぐれた故郷」という信仰によって、天の故郷に憧れるのです。

・召天者たちの信仰
 すでに私たちの教会では16人の召天者があります。それぞれの地上の生涯を終えて、今は天に招き入れられられました。その信仰の足跡は、私たちのみちしるべとなり、わちもまた、その信仰にならって、天に憧れて、地上の生涯を歩み抜きましょう。

2014/9/21 ヨハネ福音書10:11~15 わたしは良い牧者



・わたしは良い牧者
 主イエスは「わたしは良い牧者です」と語ります。それは絶対的で唯一の良い牧者という意味です。その良さは、羊を愛する心を持つことですが、また外において現される業でも示されます。それは「羊のためにいのちを捨てる」ことです。つまり主イエスが、十字架上で、民の罪のための贖いとして死ぬことです。

・自分のいのちを捨てる
 また、主イエスが「自分のいのちを捨てる」ことは、父の愛を確かにし、祝福を獲得する機会となります。それによって、彼は「自分のいのちを再び得」、彼に連なる民もまた新しいいのちを得ます。
 さらに、彼の死について、地上の権力者と悪魔の力に敗北したような錯覚を抱くことがあります。しかしそうではなく、彼自身が神の子として自分の権威でいのちを捨て、また自分の権威で復活しているのです。そして、今の時には、生殺与奪の権を持ち、私たち民のいのちは、いつも保たれるのです。

・最高の愛に生きる
 私たちのために「自分のいのちを捨て」、絶対的権威を持つ救い主を持つ私たちは、何者も引き離すことができない絆で生かされています。この霊的幸いをしっかりと覚え、変転極まりのない人生にあっても、「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と告白して歩みましょう。

2014/9/14敬老の招待礼拝 Ⅱコリント4:16~18 日々 新たに



「外なる人は衰え」
 「外なる人」とは、アダム由来の古い人と言うことです。神の形に似せて創造されましたが、その本質は土から造られた存在で、「衰える」ものです。私たちは年齢を重ねていくとき、「外なる人は衰える」ことを実感します。足腰の衰え、記憶力の衰えなど、あげたら切りがありません。

・「内なる人は日々新たに」
 「内なる人」とは、私たちの心の内に信仰によって誕生した「人」です。それは「新しい人」でキリストに似ており、神の力と恵みによって生かされる存在です。また「外なる人」とは異なり、「日々新たに」されていくという性質を持ちます。

・重い永遠の栄光
 「内なる人が新たに」される機縁は、「外なる人」が衰える(=患難)を経験するときです。そこに、神が働いてくださるのです。「忍耐を生み出し…品性を生み出し…希望を生み出す」ということと同じ働きです。そのようにして、ついには「重い永遠の栄光」に至らせます。

見えないものに目を留める
 私たちは目に見える「外なる人」に囚われ,一喜一憂の毎日を過ごします。しかし「目に見えない」内なる人の世界に、心の目を留めるとき、外の囚われから解放され、永遠の喜びと勇気を持つことができるのです。

2014/9/7 ヨハネ福音書10:7~10 わたしは門です



・わたしの前に来た者
 羊飼いは、早朝、時間通りにやって来るのですが、その「前に来た者はみな、盗人で強盗」です。つまり、当時の祭司と律法学者たちのことを指しています。しかしまた、イエス・キリスト以外のすべての異教・異端もまた「前に来た者」といえます。彼らは外見は、如何に立派でも、また世の多くがそちらの方に靡くとしても、本質は「ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけ」です。

・わたしは門
 「わたしは門です」とあります。わたしとは主イエスのことですが、この言葉を通して、ご自身を天国に至る唯一絶対の門であると啓示しています。「わたし…です」はヨハネ福音書で多用される表現で、出エジプト3:14により「わたしはある」と名乗った主なる神を意味します。
 また「門」は天から地上に下ったへりくだった優しい門です。十字架の姿は私たちを愛し、私たちを切に招き入れようとする門です。そしてイエスを信じる者はすべて、そこに入ることができます。

・いのちを得るため
 「安らかに出入りし、牧草をみつけます」とあり、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため 」とあります。それらは主イエスの元にある自由と平安、またいのちの賦与を示しています。「いのち」とは天の生命/永遠の生命です。それは地上の生命をも生かすすぐれた生命です。主イエスの元では地上でも、後の世でも、私たちは生命を豊かに持つことができるのです。

2014/8/31 ヨハネ福音書10:1~6 羊は声を聞き分ける



・盗人と強盗
 主イエスは、当時のユダヤ社会とは異なる新しい神の民のイメージについて描いています。それが羊飼いと羊の群れです。
 「盗人強盗」とありますが、それは第1に、当時のユダヤ社会の宗教家たちのことです。彼らは神によって派遣されたのでもなく、聖書に従っていない教師たちです。表面は威厳があるのですが、実態は、羊を奪う輩です。第2には、偽預言者、偽使徒、偽教師、異端の輩です。それは今も昔も、隙を狙って、羊の群れに忍び込もうとしています。

・羊の牧者
 「門からはいる者は、その羊の牧者」とあります。「門」とは、神が定めた正規の入口のことですが、それは神の証言、聖書の証言に合致していることです。主イエスは、まさにその方で、神の牧者です。
 また正規の牧者であるだけではなく、良い牧者です。つまりその民一人一人を知り尽くし、愛し、養い導くことができる方ということです。

・羊は声を聞き分ける
羊はその声を聞き分けます」とあります。羊は弱く、無知で、自己判断ができないのですが、ただ牧者の声を聞き分けるという能力だけは、与えられているのです。
 丁度そのように、神の民も、霊的なこと、目に見えない道について、自分では知ることができません。しかし、主イエスの声を聞き分けるという賜物だけ与えられています。それは、聖書の福音に安心と平安を持つこと、そして自発的に従う心です。
 このようにして、主イエスは、古いユダヤ社会とは異なる、愛と人格で結ばれた神の民を作りだしたのです。

2014/8/24 ヨハネ福音書9:35~41 盲目が見えるため



・盲人だった者の改心
 盲人だった者は、パリサイ人らの強要を退け、自分の証を貫いたために、ユダヤ人社会から追放されました。彼は、罪人として霊的にも盲目とみなされたということです。
 しかし、主イエスは、彼を見つけ出し、彼の肉の目だけではなく、霊の目を開きます。それによって、彼はイエスを信じ、さらには「イエスを拝した」とあります。

・イエスの裁き
 主イエスは「わたしはさばきのためにこの世に来ました。」と語っております。主イエスがいうところの「さばき」とは、最後の審判における裁きとは異なり、認識におけるさばきということです。主イエスという神の光の中で、世の真偽、善悪が、完全に、逆転するのです。そして世において真とされているもが偽り、世において善とされている者が、悪とされるのです。そのさばきは、最後の審判に、そのままつながります。

盲目が見えるようになるため
 主イエスのさばきは、具体的には「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるため」とあります。
 つまり、神の前で自分が盲目で何も見えず、何も分からないと認めて、主イエスの元に来る者は、心の目が開かれて見えるようになり、永遠の生命に至るということ。
 他方、世において自分を知者であると思って慢心し、主イエスの元に悔い改めることが無いものは、神の前で愚かとされ、永遠の罪に定められるということです。

 私たちは自分が盲目であることを認めて、切に、主イエスの光に照らされるを求めるべきです。

2014/8/03 ヨハネ福音書9:1~7 神の業が現れるため 



・生まれつきの盲人
 道の途中、弟子たちは、生まれつきの盲人を見たときに、その災いの原因は何かについて、主イエスに尋ねています。当時は、誰かの罪の結果、現在の災いや不幸が起こっていると考えられていました。この因果応報の考えは、私たちの社会でも根強く存在し、人を責め、自分を責めて、不幸をさらに深める結果になっています。

・神の業が現れるため
 「神のわざがこの人に現われるため」とは、主イエスの考え方です。神は、不幸や災いを契機として、その人を恵みの対象として覚えられ、その人に恵みの業を現されるのです。確かに、恵みの神に対する信仰の目を開けば、それは事実で、すべての不幸をプラス思考で捕らえていいことが分かります。

・キリストの光のもとで
 私たちキリスト者は、この神の業が自分自身に現されることを信じて生きる者として、またこの神の業を周囲の人々に証するように召されています。
 そのためには、キリストという神の光に対して、心の目を開き、強い信仰を持って歩むことが大切です。

2014/7/27 ヨハネ福音書8:51~59 アブラハムが見た栄光の日



・死を見ない
 「わたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」とあります。
  「わたしのことば」とは、主イエスの福音です。福音はいわば、生命の種であって、地上の生命に蒔かれ、永遠の生命の実をならせます。それは霊的な生命ですが、霊の生命は肉に先んじており、霊の生命を与えられている人々は、肉体の死も、本当の死ではないのです。

・アブラハムが生まれる前から
 主イエスは旧約以来、一貫して神の民を導いてこられた主なる神であることを、再三示します。「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」という言葉は、そのことを示します。そのようにして、主イエスは

ユダヤ人を初め、すべての人が、彼を通して、罪と死の支配から救おうとされているのです。

・アブラハムが見た栄光の日
アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました 」とは創世記15章に記されている場面です。神はアブラハムの救いの完成の日を啓示されました。アブラハムはその栄光の日を遙か未来に仰ぎ見て信じたのです。
 「わたしの日」とは、主であり、神の子キリストの到来の日、また十字架で贖いが完成する日です。その救いにより、死の力は打ち破られるのです。その救いは、福音により、ユダヤ人を初め、すべての国民に提供されています。21世紀に生きる極東の私たちにも提供されています。