2014/3/16 五つのパンと小魚 ヨハネ福音書6:1~14



・草原の教会
 ガリラヤ湖の向こうで、主イエスが山に登られたとき、大勢の人々が従い、そこに「草原の教会」ができました。しかし、その「教会」は、羊飼いのない羊の群れのようで、弱さをまとい、まったくの欠乏の状態でした。

・試み
  主イエスは人々の必要を満たしたいと思い、まず弟子たちに対して人々の必要を満たすようにと試みました。ところがピリポは「二百デナリのパンでは足りません」 と目先の現実を見るだけで、ソロバンをはじき出すようにして諦めています。アンデレも少年が献げた五つのパンと二匹の小魚を手にしながら「こんなに大ぜいの人々では何になりましょう」と無力感を覚えています。

・五つのパンと小魚
 そこで主イエスは、この欠乏に対処する姿勢を身をもって示されます。まず「五つのパンと二匹の小魚」を手にとって神に感謝をささげ、神が必要を満たしてくださることを信じて、その恵みをも感謝しました。すると「五つのパンと小魚」は、イエスの手の中で満ちあふれ、男だけで五千人の人々を十二分に満腹させたのです。

・教会と満たし
「教会はいっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」エペソ1:23 とあります。キリストの恵みが満ちているのは教会は二千前の草原の教会だけではなく、現在の教会も同じです。私たちも与えられたものを感謝し、さらに満たされるよう祈りましょう。

2014/3/9 イザヤ65:17~25 新天新地の創造



・新天新地の創造
 神は世の終わりに新天新地を創造されます。古い天地は罪と死が支配していましたが、新天新地ではただ神の恵みと生命が支配する世界であり、古い世界よりもすぐれています。それゆえに「先のことは思い出されず、心に上る事もない」のです。

・いついつまでも楽しみ喜べ
 イザヤ書は「楽しみと喜び」の預言書ですが、それは新天新地において極致に達します。神が民を「楽しみ喜び」また、民もまた「いついつまでも楽しみ喜べ」と命じられています。
 新天新地では永遠の生命が溢れ、人々はその労苦が報われるからです。また弱肉強食の世界ではなく、平和と自由の世界だからです。

・新天新地と今
 イザヤが語る新天新地は「終わりの日」の預言ですが、主イエスを信じ者の心には、先駆けて、新しい創造が起こります。
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたもので。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてのものが新しくなりました。」 Ⅱコリ5:17とある通りです。
 教会は、キリストを信じる信仰によって、今の時代において新天新地を現していく場です。み約束を信じて、御国の「楽しみ喜び」を現していきましょう

2014/3/2 イザヤ64:1~12 あわれみの器



・神の来臨と審判
 イザヤは神が「天を裂いて」来臨し、火のような明々白々たる力で審判をなすことを告白します。これまでも、神は歴史に介入してご自身の民を救い、敵を裁いてこられましたし、未来においてもそのようになさる方です。
 しかしイザヤは民の罪深さゆえに、御民も裁きを免れないという現実に打ちのめされています。

・「あわれみ」の接点
 そこでイザヤは自分たちの義によってではなく、神のあわれみによって救ってくださるようにと祈り求めています。神は民にとって父であり、民の落ち度も贖う方です。また陶器師として、粘土の欠けをあわれみによって補うことができるお方だからです。
 この「あわれみ」だけが神と民を結ぶ接点なのです。事実、神はイザヤの祈りに応えて救い主キリストを遣わし救いを実現されます。
 
・あわれみの器として
 私たちはさらに罪深い異邦人で、本来は「怒りの器」でした。しかし神のあわれみゆえに「あわれみの器」とされています。
 このことを自覚して、決して高ぶることなく、むしろ「あわれんでくださった神」に感謝し、讃えるようにしましょう。さらに私たちの祈りも神に「あわれみ」に訴える祈りであることを覚えて、どのような時にも目を覚まして祈りましょう。

2014/2/23 イザヤ63:8~16 神を渇き求める



・神の愛
 神と民の関係は、父と子の関係です。神は民を愛するのですが、その愛は深く、「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ 」また「ご自身の使いが彼らを救った 」とあります。天に留まっておられるだけではなく、ご自分の霊と使いによって救いの御業をなさったのです。

・反逆と痛み
 「しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり 」とあります。人間の罪深さは、どうしようもないほどです。アダム以来、神に反逆し続けています。旧約の民も神の愛を受けながら、絶えず反逆してきました。
 その結果「主の聖なる御霊を痛ませ」、御霊は彼らを離れたのです。さらには神は彼らに敵対することになりました。神は民を愛しておられるのに、民が神に反逆するゆえに、聖なる御霊は彼らの中に留まることができなくなったのです。

・神を渇き求める
 そこでイザヤは、かつて神の御霊が民の中に臨在して、力と平安を与えて時代を思い起こします。それから変わらない神の愛を信じて、再び御霊が民の中に注がれることを祈り求めています。
 私たちも神の愛を信じ、御霊に溢れるばかり満たされて、祝福されるように祈るべきです。

2014/2/16 イザヤ61:1~3 良い知らせ…福音



・主のしもべと福音宣教
 イザヤ書には「主のしもべ」が繰り返し登場します。「神の霊を受けた王」、「苦難のしもべ」などです。また彼は主の霊によって「良い知らせ…福音」を宣べ伝える者です。この「しもべ」はイエス…キリストであって、ルカ4章においてイザヤ書の預言がご自分の到来によって成就したことを宣言しています。

・福音と救い
 「しもべ」の役割は「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやす」ことです。それは奇跡によってパンを与えたり、肉体的な癒やしを与えるということではなく、「良い知らせ…福音」による霊的な満たしと癒やしです。「良い知らせ…福音」は人間の目にはチッポケに見えますが、ちょうど種のように聞いて受け入れる人々の心において神の生命を生じさせ、生かします。その内側の変化がやがて外に現れます。

・福音と神の国
 また「しもべ」は神の国の到来を告げます。神の国は、世の終わりに名実共に実現するのですが、「良い知らせ…福音」と共に、先駆けて「今の時」に突入してくるのです。
 教会は真っ先に、神の国突入の現場となりますが、それは福音を心から受け入れることによって実現するのです。

2014/2/9 イザヤ60:1~7 光を放て



・起きよ
 旧約の長い時代、神の民は罪故に砕かれ倒れたような状態でした。しかしキリスト到来によって、内外の環境が180度転換します。内においては罪が完全に聖められ、外においては恵みと平和の環境が整えられることになるのです。ただ必要なことは、神の民が神の促しに応答して「起きる」ことです。

・光を放て
 光は明かりであり、エネルギーであり、生命だからです。それは目に見える世界においてだけ必要なのではなく、霊の世界でも必要欠くべからざるものです。
 旧約時代、神の民には真の光は与えられていませんでした。しかし、キリスト到来によって、神とキリストの御霊が、その光となっています。またその光を受けた神の民は、キリスト教会として成人するのです。新しい神の民は、霊の目を見開いて、「光を放つ」賜物と使命を受けています。

・闇の中で光る
 「やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている」とあるように、世は罪と死の支配に置かれ、心のなかは闇に覆われています。また道にさまよい、生命を枯渇させ、絶望の中に置かれています。
 先に光を受けた私たちは、この世界で「起きて、光を放つ」賜物と使命を委ねられています。恵みと救いのみ言葉に応答して、目覚め、感謝し、賛美し、礼拝し、証しすることが、「世の光」となるのです。

2014/2/2 イザヤ58:6~12 真の断食



・真の断食
 イザヤの時代の人々は神に受け入れられ祝福を得るために断食をしました。しかしその断食は形式的に荒布を着、顔をやつし、食事を断つというだけでした。
 しかしイザヤは真の断食とは上辺だけを繕うのではなく、心からの悔い改めと正義の実であると宣告します。

・悪を断ち切る
 当時の支配階級と有力者たちは全く悪に染まっていました。賄賂や不正、弱者に対する暴虐は日常茶飯事でした。それでも宗教行事をこなせば、神が祝福してくれると錯覚していました。しかし神が望むことは「悪のきずなを解き…しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くこと」でした。また「飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ …」正義とあわれみの心をもって社会生活をすることです。
 「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで…」とありますが、神は御心をなす時に、速やかに私たちを祝福してくれます。

・私たちの断食
 私たちの社会でも様々な宗教があり、断食や苦行、また儀式を重んじます。しかし神が祝福し、また人々が望んでいる宗教は、預言のように、真の断食をなすことです。それは神の前に心砕かれ、さらに社会生活の中で、その実を確実に現すことです。そのようにして、神の祝福をいただき、また、他の宗教と差別化ができるのです。