2014/7/20 ヨハネ8:31~47 真理は自由に



・「わたしのことばに」
 主イエスは、信じたユダヤ人たちに対して「わたしのことばにとどまる」ことで弟子となることを示します。上辺だけの信仰では「岩地に落ちた種」のようにすぐに枯れるからです。「とどまる」とは、福音の言葉を信じて学び、それを心に形作っていくことです。

・真理を知る
 真理とは「現象の背後にあって決し変わらないもの」を意味します。ユダヤ人たちは律法が「真理と知識の具体的な形」と信じていました。しかし律法は人の外側から命令するだけの文字に過ぎません。主イエスは、私たちの内に形作られて「知られる」真理について語っています。それは第1にご自身のことであり、またそれに伴う内なる恵みと力です。
・真理は自由に
 「真理はあなたがたを自由にします」とあります。自由とは身体的な自由のことではなく、内面的、霊的な自由のことです。それは第1に罪からの自由を意味します。生まれながらの人はすべて罪の奴隷です。それは律法を持っているユダヤ人も私たちも同様な悲惨な状態です。しかし、真理であるキリストとみ言葉を心に受け入れ、形成していくときに、キリストに働いた自由と生命が私たちにも働くようになるのです。

 そこで宗教改革者のルッターは次のように語っています。「それゆえに、言葉とキリストとをよく自己のうちに形成し、この信仰をたえず鍛錬し、かつ強からしめることが、当然すべてのキリスト者の勉べきただ1つの行いであり修行でなければならない。」*「キリスト者の自由」より 

2014/7/13 ヨハネ福音書8:21~30 十字架を見上げる



・「上から」と「下から」
 主イエスはユダヤ人たちに対して「あなたがたが来たのは下から」と語ります。それは土から造られたアダムの子孫であること、罪の支配におかれて死に定められている者という意味です。
 「わたしが来たのは上から」とは、主イエスは見た目は普通の人間ですが、その霊的本質では天から来られた神の子であることを意味します。「上からの者」と「下からの者」とでは、生命の質は雲泥の差です。

・信じなければ
  「わたしのことを信じなければ」とあります。イエスが神の子キリストであることを信じるということです。人はただ信仰によって、「上から来た」キリストに結びつき、永遠の生命に預かることができ、死と滅びを免れます。人は自分の行いや努力などによって「上に」這い上がろうとするのですが、神が定めた「上に」至る手段はただ1つで、ただ「上から来た方」を信じることだけです。

・十字架を見上げる
 「あなたがたが人の子を上げてしまう」とは、十字架につけられることを意味します。それだけではなく、私たちが心の中で、十字架につけられたキリストをしっかりと「見上げる」時と言うことも暗示されています。ともかく、十字架上において、イエスは神の子キリストであることがより鮮明に示されるということです。単に神の子と言うだけではなく、私たちを愛し、私たちの罪のために下られ、上げられた方という感動と共に知らされます。

2014/7/6 ヨハネ福音書8:12~20 わたしは世の光



・仮庵の祭りと光
 仮庵の祭りには、神殿の庭に大きな燭台がともされました。それは荒野の旅の際に主なる神が「昼は雲の柱、夜は火の柱」となって民を導いた出来事を記念するものでした。事実、荒野の民は、そのようにして神に導かれて無事に約束の地に到達できたのです。

・わたしは世の光
 旧約の故事は全てキリストの予型です。そこで主イエス・キリストは「わたしは世の光です」と宣言しています。世は霊的に全くの暗闇で、そのままでは人は滅んでしまうのです。しかし、主イエスは唯一の光として輝き、人々を救いへと導きます。「わたしは…です」とは、絶対的な存在者であることを示す言葉です。つまり、私たちがどのような試練の中でも、どのような絶望や死の淵に置かれている時でも、主イエスは何にも妨げられずに光り輝き、私たちを、救い出すという事です。

・いのちの光を持つ
 「わたしに従うものは、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つ」とあります。私たちはただ、キリストを外に輝いている光として見ているだけではありません。彼を信じて、従うときに、彼は私たちのうちにとどまって、私たちを照らす光となってくれます。そして、困難な地上の生涯を照らし続けて、正しい道を示し、また励ましとなり、力となります。さらには、後の世に続く生命を育んでくださるのです。

2014/6/29 ヨハネ福音書8:1~11 イエスの世界



・姦淫の現場で捕らえられた女
 主イエスが神殿で教えていたときに、律法学者たちが姦淫の現場で捕らえた女を連れてきました。彼らは主イエスを試みるために、わざわざ姦淫の現場を見張って女を捕らえてきたのです。

・律法学者たちの試み
 律法学者たちは、主イエスに対して、この女をモーセの律法に従って石打にするかどうかを問います。それは主イエスに対する試みでした。つまり、もし主イエスが石打にするようにと言えば、民衆の心が離れ、しかも支配者ローマの法を犯すことになります。否定すれば、律法の違反者というレッテルが貼られることになるのです。

・裁く者を裁く
 彼らが「問い続けてやめなかったので」主イエスは「あなたがたの内で、罪のないものが、最初に彼女に、石を投げなさい。」 と語ります。裁こうとする者たちに対して、完全なる律法遵守を要求しているのです。罪人が罪人を裁くことはあり得ないからです。

・イエスの世界…赦し 
年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された女はそのままそこにい。」 とあります。主イエスは唯一の正しい方、女はすでに心から悔い改めていたのです。そして主イエスは女に対して「私もあなたを罪に定めない」と優しく語っているのです。

2014/6/22 ヨハネ福音書7:37~53 生ける水の川



祭りの大いなる日
 「祭りの大いなる日」とは仮庵祭の最終日です。この日は荒野で水が与えられたことを記念として、シロアムの池から水がもたらされ、イザヤ12:3の預言に従って喜び楽しみ、踊ったそうです。しかし、この祭りは過去を追憶する日である以上に、未来のキリスト到来の予型でした。

・主イエスの招き
誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。この日に、主イエスが神殿に立って語った言葉です。この言葉を通して、ご自分がキリストであり、永遠の生命の水がご自分のうちにあることを宣言して招いています。この時に、まず必要とされているのは魂の渇きです。人はこの世の快楽で満足してしまいますが、魂を見つめるなら、すべての人は、はなはだしい渇きの状態です。その渇きを自覚して、主イエスの下に行くことが大切です。

・生命の水の川
「わたしを信じる者は、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とあります。「生ける水の川」とは、人を心の奥底から生かす水ということで、普通にH2Oの水とは異なります。「川」とあるように、その水は巨大な泉がつくる川のようで、ふんだんに流れ出て、尽きることがないと言うことです。
 この水とは御霊のことで、それはイエスを生かしている神の霊です。御霊は絶えず、信じる者の罪をきよめて新生させ、その人を喜びと楽しみで満たします。

2014/6/15 父の日招待礼拝 Ⅱコリント1:3~4 慈愛の父 恵みの神

・聖書における神像
 聖書の神観は、私たち父親の原型としての側面があります。その神は、創世記では、神は、天地の創造者として描かれ、さらに出エジプト記では、律法の賦与者で違反者を罰する審判者として描かれます。しかし、預言書や詩篇には「私たちの父」という表現が出てきます。それは単に厳しい審判者としての父親像ではなく、むしろ苦しみ叫ぶ者を顧みて憐れんでくれる父としての姿です。

・慈愛の父、恵みの神
 この神観は、主イエスの贖いを受けた人々に対してさらに明確になります。Ⅱコリント一章で使徒は次のように記します。「慈愛の父、すべての慰めの神」。「慈愛」とは、痛みや悲しみを覚えている者に対して、心を傾け、深い同情心を覚えることです。「慰め」とは、近くにいて相手の立場に立って、慰めと励ましの言葉を与えることです。
 神は厳しく、遠くにいる存在のようにイメージしがちですが、これがキリストを通して明らかにされた父としての神の姿です。

・私たちも慈愛と慰めの父に
 この世界に生きる人間は、常に孤独で心傷ついている者です。私たちの子供たちも同じです。その子供たちに対して、私たち父親が、神に学び、神に真似て「慈愛」と「慰め」を与える者となることができます。それによって、私たちの子供たちと社会が、大変な癒やしを受けることになると信じるのです。


2014/6/8 ヨハネ福音書7:26~36 何処から何処へ



・戸惑いと躓き
 ユダヤ人たちは主イエスの教えに驚きながらも、戸惑いと躓きを覚えます。それは主イエスの出生が地上であるのに、どうしてイエスがキリストであるはずがあろうというものでした。彼らは神のキリストは、人間であるはずはなく、突然、天から現れる神の子という考えを持っていたからでした。

・イエスは何処から
わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたとあります。確かに、主イエスは女から生まれ、地上で育ち地上で生活している人の子でしたが、その霊においては、神から生まれ、神によって遣わされた者です。この霊の側面こそが主イエスの本質です。

・イエスは何処へ
それから、わたしを遣わした方のもとに行きます」。主イエスは、しばらく地上にいますが、それから、父の神の元に戻るということです。父の神の元こそが主イエスの故郷です。
 つまり主イエスは地上にしばらく留まることによって、ご自分の民を贖い、彼らに永遠の生命を与え、そしてご自分のおられる天に彼らを導くのです。

・私たちは何処へ
 「何処から来て、何処に行くのか」という問いに対して答えを持つことは、私たちの現在の生き方を意味あるものにします。私たちは、キリストを信じることで、確かに地上から出た者ですが、今は、キリストと共に天に向かう者とされています。この展望をいつも覚えて、それに相応しい歩みをしていくのです。

2014/6/1 ヨハネ福音書7:10~24 福音の真実



・「内密」
 主イエスは「公にではなく…内密に」祭りに上ったことが記されています。主イエスの日常生活における基本スタイルは「内密」「隠れて」でした。このあり方は、旧約聖書以来、神と御業についても同様で、世の人の目には「隠れている」という性質を持っています。

・教えと当惑
 祭りの最中、主イエスが公然と「宮で教え始められた」とあります。その教えは旧約聖書をご自身の解釈でもって語ったもので、いわゆる福音です。ユダヤ人たちは、主イエスが「正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか」と当惑しました。聖書に基づきしかも理路整然とした語り方だったのです。

・福音の真実
「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のもの」と主イエスは語ります。
「わたし」とは人としての側面での「わたし」ということです。 しかし他方、主イエスは神によって生み出され「遣わされた」という神として側面を持ちます。従って、主イエスの教えは人間的な知恵によるのではなく、隠れた神の教えです。

・信仰によって明らかに
  現代では多くの人々が主イエスの福音を知り、興味を持っていますが、福音の真実を知るためには、ただ見て聞くだけではなく、実際に信じることが大切です。その時に、たとえ試練のただ中にあっても、福音に啓示されている神の恵みと愛を存分に知り、満たされる者となるのです。