2014/12/7 ヨハネ福音書11:30~37 イエスは涙を



・悲しみ
 死の現実の中で、絶望と共に悲しみの感情が人を支配します。深い悲しみは、人の心と肉体をむしばみ、生命を枯渇させるものです。そして、世界内にはその悲しみを慰める手立てはありません。妹マリヤはラザロの死に際して、この悲しみの涙に暮れいていました。

・み足のもとに
 しかしマリヤはイエス到来の知らせを受けたときに、すぐにイエスのもとに行き「その足もとにひれ伏した」のです。ただ迎えたのではなく、イエスに祈ったのです。彼女は弟ラザロの死のゆえに無力感と悲嘆のどん底にありました。それでも主イエスのみもとで祈ったと言うことです。
・イエスは涙を
 主イエスは悲しみと痛みの中、ご自身のみ元に来る信仰者たちを決して、無視することはありません。彼らに目をとめ、そしてその悲しみと心の痛みを深く知って受け止めてくださいます。「霊の憤り」「心の動揺」「イエスは涙を流された」という姿は、むしろ主イエスが悲しみと痛みを受け止め担ったことを示します。この主イエスの深い同情を原因として次に、死者の甦りの奇跡が起こります。

・憐れみを受けるために
 ヘブル4:16に次のようにあります。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

2014・11・30 ヨハネ福音書11:17~27 甦りのいのち



・絶望感と諦念
 主イエスがベタニヤに到着したとき、ラザロは墓に入れられて4日も経っていました。マルタはイエスを出迎えましたが、彼女はラザロの死に対して、諦めと絶望の中にいました。主イエスを信じていながら、絶望感と諦めの世界に留まる態度は、不信仰です。

・甦りのいのち
 「わたしは、よみがえりです。いのちです」主イエスは「わたし」と「あなた」という個人的関係の中で信仰の奥義を伝えます。また主イエスの恵みと生命は、そのようにしてのみ人の心の中に届くのです。「よみがえり」とは死の力に屈しない生命です。主イエスは地上の生命(プシュケー)を身にまとって地上に誕生しましたが、その奥底にはそれを超えた甦りの生命(ゾエー)を持っていました。また、その生命を人に示し、与えるために地上に来られたのです。

・信じる者は死んでも生きる
 主イエスから甦りのいのちを受ける手段は、ただ一つで、それは「信じる」ということです。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」とあるとおりです。
 主イエスを信じる者は、生まれながらの生命(プシュケー)を持っているのですが、それ超えた生命(ゾエー)が与えられます。そして、彼もまた、主イエスと同じように、よりすぐれた甦りの生命の中で生かされるのです。そこにはもはや死は何の力も持たず、そこにあるのは生命と希望と光のみです。

2014/11/23 創世記2:18~25 結婚と愛



・人と助け手
 神は「人は一人でいるのは良くない」と考え、助け手を探しました。しかし動物たちの中からそれは見つかりませんでした。そこで神はアダムを眠らせ「あばら骨の一つを取り…女に造り上げ」ました。そしてその女を助け手にしました。

・イッシュとイッシャー
 ヘブル語では男をイッシュ、女をイッシャーと言います。この文字の違いはイッシャーの文字の中に一つの点があるだけです。これがすなわちイッシュ(男)のあばら骨であるという洒落言葉になっています。同じ人間であるが、互いに違う存在、それが男と女と言うことです。相似点で深い接点を持ち、相違点で互いに助け合う存在と言うことです。

・結婚と愛
「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体 となる」とあります。「一体」とは全人的に一体となると言うことで、肉体と社会生活、また人格的に愛の関係を持つということです。
 神は人をご自分のかたちに似せて創造しましたが、それは互いに愛し合うことができる存在として創造したと言うことです。その姿は何よりも夫と妻の関係において実現します。そこにまた「良さ」と幸いがあります。
 現代は、自己愛から結婚関係が崩壊する時代となっていますが、神の結婚の定めを覚えて、互いの愛を築き上げていきましょう。

2014/11/16 ヨハネ福音書11:7~16 死は眠りにすぎない



・もう一度ユダヤに
 ラザロの病が知らされてから二日が過ぎてから主イエスは「「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに語っています。ユダヤでは主イエスの生命を狙う者たちがいて危険であると弟子たちはいさめましたが、主イエスは光としてのご自身を信頼して従うように促します。

・眠りからさましに
「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
 この時、ラザロの地上の生命は失われ、肉体は朽ちておりました。しかし、主イエスにとって地上の死はただの「眠りにすぎず」、彼が言って覚ませば目覚めるだけのものでした。確かに再び生命を甦らせ、しかも前よりも強い体で甦るならば、地上の死は死ではなく、ただの「眠り」です。

・死は眠りにすぎない
 この時に、弟子たちもラザロがすでに死んでいることを知っていました。それで主イエスのユダヤ行きは危険であるとともに徒労であると考えていました。彼らはイエスを信じていたのですが、その信仰は浅く、死という現実に絶望していました。
 そこで主イエスはあえてラザロが死んでからユダヤに行き、不信仰から弟子たちを解放しようとしたのです。
 私たちもまた、死という現実に圧倒され、絶望的になる傾向を持ちます。しかし、主イエスはご自分を信じる者たちに「死は眠りにすぎない」ことを示そうとされているのです。

2014/11/9 子ども祝福礼拝 士師記13章 サムエルの誕生と不思議



・主の使いがマノアの妻に現れ
 あるとき、主の使いがマノアの妻に現れて語ります。「見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。」マノアの妻は不妊でしたが、神のプレゼントとして子どもを産むことになります。

・子どもを献げ、委ねて育てる
 しかし主の使いは、子どもを神に献げたものとして育てるように命令します。「ぶどう酒…を飲んではならない。…その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は…ナジル人であるからだ 」ナジル人とは、神に献げた人という意味です。

・その名は不思議
 マノアは主の使いに名を尋ねたとき、み使いは「わたしの名は不思議」と答え、不思議なことをなしました。主なる神にいけにえを献げたときに「祭壇の炎の中を上って行った」のです。
 やがて、子どもサムソン(太陽)が誕生しましたが、彼の生涯は不思議な形で神の救いの業を実現したのです。

・神は親の思いを超えて
 サムソン誕生の物語は、私たちに子育てのヒントを与えます。それは子どもは神のプレゼントであり、親の思いを超えた神の不思議、神の救いを体現していくということです。親ができることは、過干渉と過放任を避けること。また神に献げ、神に委ね切って育てていくことだけです。

2014/11/2 ヨハネ福音書11:1~6 死で終わらず



・ラザロが病んで
 主イエスは人となって地上に来られた神の子です。それは一人一人と出会い、交わりを持ち、その人々に対してご自身の愛を明らかにするためでした。ラザロはベタニヤの人で主イエスを信じ、深い交わりを持っていた人です。そのラザロが重い病気になった時、姉妹たちが癒やしを求めて、使いをよこすのは当然です。

・信仰者の死
 しかし、主イエスの元に使いが来たときには、すでにラザロは死んでいました。ベタニヤから主イエスがいたヨルダン川東岸までは一日の道のりがあったので、使いは知らずいたのです。この後、主イエスは二日留まってから、一日かけてベタニヤにいったときには、ラザロは死んでから四日たっていたのです。

・死で終わらず
 主イエスはラザロの死を知りながら語ります。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
 ラザロの死は、姉妹をはじめとした信仰者たちにとって、大きな試練になります。死という現実の前で、信仰や愛が無意味になるように思うからです。しかしその最大の試練こそが、神の栄光の場となることを主イエスはラザロの死という現実のただ中で示されるのです。

2014/10/19 ヨハネ福音書10:22~30 不滅の民



・時は冬
 「冬」という言葉は、主イエスと弟子たちがおかれていた状況を暗示します。初めは多くの者たちが信じましたが、同時に反対者の迫害が激しくなっていたのです。「それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで」とありますが、敵対者たちは、主イエスに隙があればいつでも捕縛しようとしていました。

・不信者の中で
 このことは私たちの場合も同様です。世の中には、主イエスの言葉に決して聞き従うことがなく、かえって強い反発や憎しみを抱く人々も大勢いるのです。その人々は、イエスの民にも敵対感を抱き、彼らを迫害します。「あなたがたは世にあっては患難があります」とのみ言葉の通りです。

・不滅の民
 しかしながら、主イエスの民は決して滅びないとの約束が与えられています。また「だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」とあります。これは父についても同じです。「わたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」と二重の守りの中におかれていることが証しされています。
 わたし自身も、この言葉を信じて信仰生活を送ってきましたが、アーメンと証することができます。これからも、「滅びない」「奪い去ることがない」との約束を信じて生きようと決意しています。


2014/10/12 ヨハネ福音書10:17~18 生命を得るため



・キリストの業と神の愛
 キリストが「自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てる」こととは、十字架と復活のことを意味します。父の神は、その業ゆえにキリストをより愛し、またキリストが築いた救いに導かれた人々を同じように愛されます。

・キリストの権威
 「それを捨てる権威」とありまが、キリストは決して悪魔や世の権力者に屈して十字架に架けられたのではありません。それはキリストの絶対的意志であり、それによって民との連帯を持ち、罪を贖い、死と悪魔の力を砕いたのです。
「それをもう一度得る権威」 とあります。つまり十字架の後、ハデスの門を砕き、ご自分の権威で再び生命を獲得して復活したことを意味します。これによって、キリストはご自分の生命の道を、民のために盤石なものとしました。

・生命を得るため
 私たちは、地上の生活において、罪と死の支配に喘いでいますが、キリストが備えて下さった救いの中に入ることにより救われます。そこは神の満ちあふれる愛があり、キリストの恵みの権威で守られた世界です。そこには罪の支配も死の恐怖も及ぶことがありせん。私たちは心から、キリストを信じて、彼の救いに入るべきです。