2016/7/17 創世記18:16~33 とりなしの祈り



・神の友アブラハム
 ソドムの町は、罪悪に満ち、罪を訴える叫びが主なる神に届いていました。主なる神は、そのソドムを裁こうとしておりましたが、アブラハムを友のように信頼し、ソドムの裁きについて告知します。それは神の公義を明らかにすることと、彼をとりなし手とし、彼を通して神の憐れみを示すためでした。

・アブラハムのとりなしの祈り
 アブラハムはソドムのためにとりなしの祈りをしていますが、それは第1にロトとその家族を救うため、第2に神の公義が正しく示されるため、第3にはソドムの町自体を救うためでした。
 アブラハムは、悪者の故に町を裁くのではなく、その町の正しい人々故に救ってくださるようにと執りなします。その正しい人の人数を50人から始めるのですが、神のあわれみを信じて、45人、40人、30人、20人としついに10人でも裁きを猶予するよう願います。それに対して神は憐れみの心を示します。

・私たちのとりなしの祈り
 私たちもまたキリスト故に、神の友とされ、地上におけるとりなし手とされています。それは私たちの場合も、とりなしの祈りを通して、神のあわれみが示されて、一人でも多くの人々が救われるため、また私たち自身が祈りを通して、あわれみの神を深く知るためです。ですから、私たちに委ねられたとりなし手としての役割を十分に用いるようにいたしましょう。