・全き者には、全き神
「あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ…」
私たちが、神が導いてくださった一年を振り返るにあたって大切なことは、神に対する誠実(恵み深さ)と全き姿勢です。またきよい信仰の目です。ちょうど鏡のように、神に対する全く清い姿勢を持つときに神は正しく見え、曲がった姿勢のときに、神はネジ曲がって見えるからです。
・神、その道は完全
「神、その道は完全。主のみ言葉は純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」
ダビデは、彼の人生を振り返り、あらためて、神の素晴らしさを全面的に告白しています。神が導かれる道は完全で、欠けがなく誤り導くことがないということ。主なる神のみことばは、ちょうど純金のように不純なものが混在しておらず信頼できるということ。そして、主なる神は身を避ける者にとって完全な盾であるということです。
・この神こそ 私に力を
ダビデは過去を振り返って、神についての確信を強め、さらに未来に対する展望をいだいています。つまり未来についても、神は「私の道を完全にされる」と。それだけではなく自分自身が神によって強められて歩むことも告白しています。
私たちも一年を振り返って全き神を告白し、新年に向かって「この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる」と信じましょう。
2021/12/26 詩篇18:25~34 神、その道は完全
2021/12/19 マタイ福音書2:1~12 博士たちの礼拝
・東方の博士たち
ヘロデ王の時代に東方の博士たちがエルサレムにやってきたことが記されています。この博士たちは、マゴス、マギなどと呼ばれた学者たちで、占星術と古今東西の学問に通じた人々でした。しかし彼はそれらに真理はない事を悟り、ユダヤの預言を探り求めました。そのときに、ユダヤ人の王キリストの誕生を知らせる星を見つけたのです。聖霊は真摯に求道する者たちにあらゆる方法を通して導きを与えるのです。
・「ユダヤの地、ベツレヘム」
博士たちの来訪に、ヘロデ王と人々は「恐れ惑った」とあります。彼らは虚しい栄光に甘んじて、真実の変革を嫌っていたのです。
しかしヘロデ王の元に集まった祭司長らは旧約預言からキリスト誕生は「ユダの地、ベツレヘム 」と特定します。そのみ言葉に従った時、博士たちは例の星によって「幼子」の元に導かれています。
・博士たちの礼拝
博士たちは「母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ」とあります。彼らは富と地位を持つ誇り高き人々でしたが、幼子をキリストと信じて礼拝したのです。
「宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」。礼拝は心と態度だけではなく、捧げものを通して真実となります。礼拝(worship)とは「価値がある(worth) 状態(ship)と辞書にあります。彼らの礼拝こそキリストに捧げるにふさわしいworshipです。
2021/12/12 マタイ福音書1:1,1825 処女降誕とインマヌエル
・キリストの系図
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図 。」
マタイ福音書では、キリストは神の恵みの契約のとおりに到来したことを系図を通して示します。しかも系図の中にはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻というふうに異邦人また曰くあリの女性たちの名前が含まれています。これらによって、神の恵みは、人間の思いや常識を超えた形で実現したことを明らかにしています。
・処女降誕
「母マリヤは…聖霊によって身重になった」とあります。聖霊は三位一体の第三格の神ご自身です。マリヤに起こったことは、旧約聖書が待望する救い主キリストの懐胎でした。しかし夫ヨセフは不可解に思ってつまずき、彼女との離縁を心で決めました。
・インマヌエル
しかしなおヨセフが「思い巡らしていた」とあります。マリヤに起こったことを恵みと全能の神の御前で深く考えたのです。そのときに「主の使いが夢に現われて」真実を告げられ、結局、彼はマリヤを娶ることになったのです。
「その名はインマヌエル(With-us-God)」とあります。名は体を表すと言われる通り、彼はマリヤとともにインマヌエルを受け入れる事となり、そればかりではなく民すべてのために救いの扉を開く役割を果たしたのです。
2021/12/05 ルカ福音書15:1~10 捜し求める神
・捜し求める神
主イエスが取税人や罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにしているのを見て、パリサイ人らが非難しました。そこで主イエスは、2つのたとえ話を通して、ご自分の使命とは何か、またご自分を遣わした神の姿は何かを示しています。それは失われた罪人を捜し求める神の姿でした。
・一匹を捜す羊飼いのたとえ
最初のたとえは迷子になった羊を捜す羊飼いのたとえです。彼は99匹の羊を野原に残してでも「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩」くという話です。羊飼いとしての愛の本性は、失われた羊に向けられ、どこまでも捜し歩くということです。「見つけたら、大喜びで…」とありますが、いつの場合でも喜びは、真実な愛の果実です。
・銀貨を捜す女の人のたとえ
もう一つは、銀貨を失った女の人のたとえです。彼女はなくした一枚のために「見つけるまで念入りに捜」すというのです。9枚残っていても失われた1枚を貴重とし、それに執着するのです。そしてこの場合も「見つけたら」自分だけにとどまらず近所の人々まで呼んで喜びを分かちあうのです。
・罪人の悔い改めを求める神
以上のたとえを通して、神は「ひとりの罪人の悔い改め」を切に求める方であることが示されています。それが神の愛の本性であり、そこにいつの場合でも神の喜びがあり、また「神の御使いたちに喜びがわき起こる」のです。
2021/11/28 ルカ福音書14:34~35 キリスト者の塩気
・塩は良いもの
「塩は良いもの」とあります。確かに減塩が叫ばれる時代ですが、塩自体は人間にとって必要欠くべからざるもので、塩分によって筋肉と臓器のバランスがたもたれています。それで人間は塩の味覚がきわめて敏感で、すべての味覚の基本だということです。まさしく「塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか」とある通りです。
・塩気をなくしたら
「…土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられて」とあります。
当時のユダヤでは塩とは、死海周辺から産出される岩塩で、かなりの不純物が混じったものでした。それで塩分が融解して残った塩は、もやは形だけは塩でも、塩気がなくなっている場合がありました。その時、それは畑の土にも、肥やしにもならない役立たずとして「外に」捨てられるのです。
・キリスト者の塩気
以上,「塩」は極端な両面を持っているのですが、それは世にあるキリスト者の場合も同じだということです。「塩気」のあるキリスト者は神の目の前でも、世においても「良いもの」です。しかし「塩気」を失った者は、まったく役に立たない者となっているということです。
具体的にキリスト者の「塩気」とは、主イエスに第一に従う心です。その信仰心から「神への恐れはきよく」とあるように聖さが生まれます。また真実な「信仰と希望と愛」が養われます。私たちは、神の前で自分を顧みて、信仰心を正し「塩気」を保つことが肝要です。
2021/11/21 ルカ福音書14:25~33 弟子の条件
・弟子の条件
主イエスはご自分についてくる群衆に対して、弟子の条件とは何かについて、次のように語っています。
「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」
地上に生きる人間にとって「自分のいのち」は言うまでもなく、家族と親族は何よりも愛すべき存在です。それを「憎むように」ということは、世の常識を覆す革命的言葉です。
・自分の十字架を負って
さらに「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」と畳み掛けています。「十字架」とは、地上の一切を否定する象徴です。地上のものに未練を残していては、イエスの弟子となれないと明言しているのです。
「塔を築こうとするとき」「どんな王でも…戦いを交えようとするとき」と2つの例を用いて、物ごとを成功させたり、勝利するときに、基本となる合理的判断が必要であることを示しています。それがイエスの弟子となる場合は、「自分のいのちを憎む」「十字架を負う」ということだということです。
・神中心の生活転換
これらの命令は、ショック療法的言葉で、私たちが地上の生命に執着するよりも、神を第一に愛すべきをことを具体的に示しているのです。その基礎があって初めて、地上のいのちも人間関係が純化され、健全で幸いとなるからです。
2021/11/14 ルカ福音書14:15~24 神の国で食事する人
・神の国で食事する人
主イエスは盛大な宴会にたとえて義とされて、神の国で食事する人とは、どのような人であるかについて語っています。
「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いていた」。しかし「宴会の時刻になったのでしもべ」を遣わしました。ここで「ある人」とは神のことで、神の国の救いと祝福の大宴会を開くことを意味しています。
・断る招待者たち
「ところが、みな同じように断わり始めた」とあります。皆が皆、それぞれの世的な理由で、宴会への招待を断ったというのです。それは旧約において神の救いに招待されていたユダヤ人たちが、主イエスを通して提供された福音を拒絶したことを暗示します。彼らは世を愛するあまりに躓いたのです。
・「無理にでも」…残りの席のため
そこで主人は「大通りや路地に出て行って、貧しい人…」を連れてくるように命じています。彼らは世的な楽しみもないために、素直に招待に応じるのです。さらに残った席があったので「街道や垣根のところに出かけて行って…無理にでも人々を連れて来なさい」と命じています。
用意されている「席」とは神のキリストの血によって買い取られた救いの席です。それは決してないがしろにしてはならず「無理にでも(どうしても)」満たされなければならないのです。私たちはすでに招かれているものです。この招待を無駄にしないように心して気をつけましょう。(ヘブル10:25)
2021/11/07 ルカ福音書14:12~14 祝宴の招待者
・祝宴の招待者
主イエスは祝宴の招待者について「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません」と語っています。それは、身近な人々との交わりは、ギブ&テイクの関係で、本質は自己愛に基づく地上の狭い人間関係に過ぎないからで、神の国の愛の関係ではないことを明らかにしています。
・招待者は貧しい人…
「祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい」とあります。「貧しい者…」は社会的立場も経済力もなく、ユダヤ社会では、交わりや集団からは除外される傾向がありました。また一般の人々は、彼を食卓に招いても、なんの益にもならないと考えていました。しかし主イエスは、そのような人々こそ祝宴に招くのが「幸い」と語っております。それは彼が「お返しできない」分、神に対する純粋な愛が現れるからであり、それゆえに「義人の復活のとき」神が報いてくださるからです。
・神の国の招待者
主イエスもまた、神の国に招いているのは、世の力ある者ではなく「貧しい者…」です。私たち自身も、貧しい時に、キリストによって見いだされて、招かれているのです。そこで私たち自身も、キリストから受けたとおりに、「幸い」な愛、神の国にふさわしい愛を実践するようにいたしましょう。
2021/10/31 ルカ福音書14:7~11 自分を高くする者 低くする者
・披露宴のたとえ
食事に「招かれた人々が上座を選んで」いました。それは、パリサイ人らにとって、上座は、いわば栄光の座で、自分の宗教的社会的地位を築く機会であると同時に、自分の虚栄心を満足させる場となっていたからです。その事に気づいた主イエスは、婚礼の披露宴の例えを語り、それによって神の国でのありかたを示しております。
・上座ではなく 末席に
「上座にすわってはいけません」とあります。それは後で「あなたよりも身分の高い人」が来た時に、主催者の判断で末席に移され「恥をかく」ことになるからです。そこで「末席に着きなさい」と勧めています。それは、自分を一番小さく低い者と考えて、それにふさわしい席に着きなさいということです。その場合も主催者は、その人のことを覚えて、必ずや上席に招かれて面目躍如となるということです。
・高くする者 低くする者
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」。この原則は、神の国では徹底しています。そこでは神が主権者で、虚栄や高慢で上座に着こうとする者は、確実に恥を受け、反対に自分の小ささを認識して、へりくだる者は、神によって栄光を受けるということです。このことは、主イエスご自身が身を持って示されたことです。彼は低くなったがゆえに、神によって何よりも高められました。
2021/10/24 ルカ福音書14:1~6 水腫の人の癒やし
・安息日/パリサイ人の家
ある安息日に、主イエスがパリサイ人の家で食事に招かれたときのことです。パリサイ人らは、イエスの一挙手一投足に注目していたことが記されています。彼らは「イエスの真正面に、水腫をわずらっている人」をあえて座らせて、癒やしの瞬間をとらえて、非難しようとしていたのです。 彼らは律法を、ただ自己義認のための手段として、ただ規則だらけの束縛の世界を作っていました。
・水腫の人の癒やし
「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」 主イエスは彼らの魂胆を察して機先を制して問いかけています。彼らが沈黙していることを見て「イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった」とあります。イエスの癒やしは肉体だけではなく全人格的であり、水腫の人は癒やされて、罪と律法の束縛から神の救いと愛の世界に復帰させたのです。そして主イエスは、癒やした理由について、例外規定を引用して、安息日の基本精神は「愛とあわれみ」であることを示しています。
・信仰と愛による転換
人間は罪人であるため、どのような律法もただ人間疎外の規則にしてしまうだけです。ただ主イエスを受け入れることで、その誤りは克服され、さらに優れた行動基準を獲得します。「キリスト・イエスにあっては…愛によって働く信仰だけが大事」ガラ5:6とあります。私たちもキリスト信仰とともに、愛を中心とした世界をつくりましょう。
2021/10/17 ルカ13:31~35 ああ エルサレム
・きょうもあすも
パリサイ人らが「ヘロデがあなたを殺そうと思っています」と恐怖心を吹き込んで、み働きを挫こうとしました。それに対して主イエスは「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません」と答えます。そこには神によって派遣された者の徹底した献身姿勢が見られます。
・神の都エルサレム
「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえない」とあります。エルサレムはダビデ契約により神殿が据えられ、神の都とされた町であり、旧約の民の象徴とされた所でした。それで神はこの町を愛し、預言者たちを遣わして、神のことばを告げた町でした。また最後の「預言者」イエスもまた、エルサレムに死を覚悟して向かっていました。それもすべて神の愛のゆえでした。
・ああエルサレム
「ああ、エルサレム、エルサレム」と主イエスは嘆きのことばを発しています。神が愛ゆえに預言者たちを、さらに神の子キリストを遣わしても殺してしまうことを嘆き、またそれ故に滅びを招くことになることを嘆いています。実際に、その予見のとおりとなり、現代にいたるまでエルサレムは荒廃しています。
私たちは新しく招かれた新約の民ですが、旧約の民の過ちを同じように犯すことがないようにしたいものです。そのためには過去から教訓を得て、絶えず神の愛の大きさと、自らの罪の深さを知らされること、それによって悔い改めと信仰を深めていくことです。
2021/10/10 ルカ福音書13:22~30 狭い門から
・狭い門から
「努力して狭い門から入りなさい」
主イエスは質問に答えて救われるための心がけについて語っています。「努力して」とは、運動選手たちが栄冠を得るために必死に努力する有様を示しています。
「狭い門」とは見つけにくい門、見すぼらしい門、入るのに困難な門ということです。そこで多く者は見出すことがなく、見出しても門前で疑い、躊躇して、入らずじまいの門です。しかしそれでも神の国に入るためには「狭い門から入る」ことが必要です。
・狭い門とはイエス・キリスト
主イエスは「わたしは…門」ヨハ10:7と語っています。彼のみが神の国に至るための唯一の門です。しかしながら、世の人々は無視し、捨て去る門、あるいは入ろうと思いながらも躊躇する門です。
ただ神に目が開かれた者たちのみが、それを見出し、永遠の救いに至る門と知らされました。それゆえ彼らは「努力して狭い門から入った」のです。ピリピ3:13に「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」とあるとおりです。
・ 門が閉ざされる時
「主人が…戸をしめてしまって」とあります。門はいつまでも開かれたままでなく、時が来ると完全に閉ざされます。そのときに、いくら戸を叩いても入ることはできません。
私たちはキリストによって招かれている者たちです。それが「狭い門」だからといって躊躇せず「ひたむきに」信仰を持って進んで行きましょう。
2021/10/3 ルカ福音書13:18~21 からし種とパン種
・からし種のたとえ
主イエスは神の国を2つのたとえを用いて弟子たちに示しています。それは当時の人々が考えていたように突然訪れるものではなく、漸次拡大するものとして示されています。
その1つは「それは、からし種のようなもの」とあります。からし種は小さな種ですが「それを取って庭に蒔く」ことで、その内に宿されている生命が働き「生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作る」程になるということです。ただの野菜の次元を超えて「木」になり、庭の外の「空の鳥」にとっても憩いと養いの場となるということです。
・パン種のたとえ
次に神の国は「パン種のようなもの」とたとえています。パン種もまた小さいものですが「女が…とって…粉に混ぜたところ、全体がふくれました」とあります。この場合も、はじめは何の変化も見られないのですが、時間がたつに従い、驚くほどの大きな塊になるのです。
・神の国と福音
「からし種」「パン種」でたとえられているのは、主イエスの福音と神の国の有様です。主イエスの福音もまた、世の中では小さく愚かな教えとされています。しかし、それを心から信じる人々、集団のなかでは、神の生命が働き、人間の思いを超えた次元にまで拡大していくのです。「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」Ⅰテサ2:13と。また「福音は…それをほんとうに理解したとき以来…世界中で、実を結び広がり続け」コロ1:6とあるとおりです。
2021/9/26 召天者記念礼拝 イザヤ26:19 あなたの露は 光の露
・「あなたの死人は生き返り」
「あなたの死人」とは主なる神の民のことで、地上で信仰を全うして、今は「死人」となっている人々のことです。死者は生きかえることなどないということは、地上の考え、常識です。しかし神によって復活の啓示があり、預言者自身も告白をしています。さらにまた、自分自身についても「私のなきがらはよみがえります」と告白します。
・「あなたの露は 光の露」
「露」はエルサレム周辺では夏の日照りの中で作物などを生かす恵みそのものでした。そこで「あなたの露」とは、地上の悲惨の中で、信仰者にくだされる神の恵みを表します。「光」とは、神の臨在と生命を意味します。そこで「光の露」とは、神の臨在と命が宿る露ということで、信仰者たちが地上で受け取る神の恵みは、そのまま復活の生命であり、その約束であることを告白しています。実際に、草花に降りる朝露に、光が輝く光景は、そのような神秘を覚えます。
・「地は、死者の霊を生き返らせ」
「地」とは、古代において死者を飲み込み閉ざす世界とされていました。しかし神の民は、恵みと復活の約束を受けている者たちであるゆえに、そこに閉ざしたままにすることはできず生命の世界に「投げ出す」ということです。ダイナミックな啓示であり、それに同調して預言者もダイナミックに告白しています。
私たちもまた、死が一切を支配するような世界に生きていますが、日々、神の生命の露を受け取り、復活信仰を告白していきましょう。
2021/9/19 イザヤ46:3~4 あなたを背負う神
・「わたしに聞け」
人が高齢になると新たな危機に直面します。仕事のリタイアー、肉体と記憶等の弱さ、そして将来の展望などについてです。そこで不安を覚え色々と考えるのです。
しかし神ご自身が「わたしに聞け」と語りかけています。「あなた」の創造者かつ贖い主の語りかけですから、当然、神のことばに耳を傾けることが最善です。
・あなたを背負う神
「胎内にいる時からになわれており…運ばれた者よ」とあります。人は母の胎内で誕生し、幼子として担われ、やがて大人として成長します。しかし、背後で「にない」「運んで」くださったのは、神ご自身であったという霊的事実を確認させています。
私たちの場合、何も考えなければ、母が父が、また周囲のお陰、自分の力で成長してきたと思ってしまいます。しかしみ言葉を通して、あらためて神が「あなた」を 「にない」「運んでくださった」と認識することが大切です。
・白髪になっても
「あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う」とあります。「しらがになって」とは高齢となり、力がが衰えた時、様々な人間関係が希薄になる時、それゆえに将来について不安を抱く時のことです。しかし、絶対的な「わたし」である神は「あなた」をこれまでと同じように「背負う」と約束しておられます。それは神の大きな恵みによります。老年こそ神の恵みの深さを深く味わう時となるということです。
2021/9/12 ルカ福音書13:10~17 アブラハムの娘のため
・病の霊につかれた女の癒やし
主イエスはある安息日に、会堂で18年間、病の霊につかれて腰が曲がった女を見かけて、御元に招き、み言葉により癒やしました。「女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた」とあります。主イエスの救いがあるところでは神の栄光もまた現れて、褒めたたえがあります。
・アブラハムの娘のため
「それを見た会堂管理者は」安息日に癒やしの業が行われたことに憤ったとあります。それに対して主イエスは、安息日に牛やロバの綱を解いて水を飲ませるのに、どうしてアブラハムの娘をサタンの束縛から解いてはならないのかと、彼らの偽善を指摘します。
またサタンの束縛を解いた主イエスこそ、安息日を凌駕する安息の主、神の子キリストであることを示しています。
・信仰によるアブラハムの娘のため
ガラテヤ3:7に「信仰による人々こそアブラハムの子孫」とあります。つまり、今は私たちキリスト者が、信仰による子孫とされて、神に選ばれ、愛された者とされているということです。それは私たちの生涯の中で、さらにキリストの栄光が現され、サタンの束縛が打ち砕かれるためです。また、そのことで神が絶えず、賛美されるためです。
2021/9/5 ルカ福音書13:6~9 いちじくの木のたとえ
・いちじくの木のたとえ
「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた」けれども、一向に実をならせる気配がないことを見て「切り倒してしまいなさい」と番人に命じています。これは旧約の民が神によってカナンの地に植えられたのにもかかわらず、その頑なさゆえに実をならすことがなかったことを示しています。
・裁きの猶予とキリスト
それに対して番人は「木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。…それでもだめなら、切り倒してください。」番人もまた、神のうちにある憐れみを示しています。神は旧約の民に対して恵みと忍耐を示し、さらに憐れみとチャンスをも与えて、最善をなしたのです。
ところが彼らは、キリストという最後のチャンスをも無にして、結局は神によって断ち切られます。
・キリストの民と実
「倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。」ローマ11:22
私たちは神のいつくしみによって、新しい神の民として召されてキリストに結び付けられています。それはすべて神のために実を結ぶためです。「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。」エペソ5:9 とありますが、私たちも精一杯の実をならせるようにいたしましょう。
2021/8/29ルカ福音書13:1~5 悔い改めなければ
・「ガリラヤ人たち」の非業の死
主イエスは「ガリラヤ人たち」の非業の死について聞いた時、人々の受け止め方について非難しています。人々は彼らの隠れた罪について噂し、それと比較して自分たちは、まだましで善人というような考えでいました。つまり、人々はそのゴシップをネタにして、自己義認と自己正当化していたのです。そのことはシロアムの塔の出来事の場合も、全く同様でした。
・悔い改めないなら
まず「そうではない」と彼らの自己義認の考え方を否定し、かれらもまた同じように罪人であることを明確に示します。他の箇所にも「義人はいない。ひとりもいない」ローマ3:10とあるとおりです。さらに「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と、そのままの状態では滅ぶことを予告しております。この「滅び」とは単に肉体の死ではなく、永遠の滅びです。
・イエスと悔い改め
そこで人間にとって「悔い改め」が極めて大切なことであることとしております。「悔い改め」とは、考えと思い、また行いの転換を意味するだけのものではありません。何よりも人間の中心の心の転換であり、全人の罪からの転換です。そして向かう先は、ただイエス・キリストご自身です。悔い改めにはいつの場合でも、彼に対する献身が伴います。
2021/8/22 ルカ福音書12:54~59 時を見分ける
・時を見分ける
主イエスは群衆に対して、次のように語り非難しています。「地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」
確かに世の人々は、気象の変化について関心を持って見分けるのですが、「この時代を見分け」ようとはしないものです。つまり、この時代が神の怒りの下にあり、世の終わりに直面しているということです。
・自ら進んで判断する
さらに「なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか」とあります。人は誰かに、自分の罪を指摘されてもなかなか、それを認めようとしない存在です。そこでいつでも自分から自発的に罪を察知して悔い改め、神との和解をえる信仰姿勢が大切になります。
・悔い改めと和解の時
最後に主イエスはたとえを通して、神の裁きを免れるために、悔い改めて和解することの大切さを示します。その和解の道とはイエス・キリストです。
私たちは、さながらこの債務者で、神の怒りと裁きの下にある債務者また罪人です。そのことを認識し、自発的に心から悔い改めて、神が用意してくださっている和解を受け入れる姿勢が大切です。
2021/8/15 ルカ福音書12:49~53 火のバプテスマ
・火を投げ込むため
主イエスはご自分が地上に来られた目的について「火を投げ込むため」と語ります。人々は主イエスについて平和の君という期待を持っていたのですが、それとは正反対のイメージです。
主イエスが語る「火」とは、目に見えない聖霊の火です。罪との妥協で偽りの平和の世界は、聖霊の火によって燃やされなければならないのです。その「火」によって初めて、真実の平和が世に訪れるのです。
・イエスの火のバプテスマ
「わたしには受けるバプテスマ」とあります。つまり世に火を投げ込む前に、ご自身が火のバプテスマによって燃やされ、苦しむということを預言しております。つまり神の怒りに焼き尽くされ、同時に肉の姿で罪を焼き尽くすということでした。
・私たちの火のバプテスマ
「…むしろ、分裂」とあります。主イエスご自身が受けたバプテスマによって、今度は福音と言う形で聖霊の火が弟子たちに与えられます。それによって弟子たち自身と世との関係に火が投じられることになります。それが「分裂」です。
私たちも福音のもとにありますが、その火は、私たちの内側と世との関わりの中で、罪と義、汚れと聖をことごとく分離させます。そこでは多少の痛みが伴いますが、しかしその「火」を通して平和が訪れることになるのです。
2021/8/8 ルカ福音書12:41~48 忠実な思慮深い管理人
・忠実な思慮深い管理人
主イエスは忠実な思慮深い管理人のたとえを通して、教会のリーダーたちの信仰姿勢について語っています。「忠実な」とは、主人が不在の間も主人の思いと利益を優先して、家のしもべたちをよく管理し、特に恵み深い主人の思いに従って、しもべたちに「食事時には彼らに食べ物を与える」のです。主イエスの家である教会の場合、食べ物とは何より神の言葉です。
・主人が帰ってきたとき
「主人が帰ってきたとき」、忠実で思慮深い管理人は、幸いと祝福を受け、それに対して、不忠実で愚かな管理人は厳しい裁きにあいます。ちょどそのように、主イエス再臨のときに、神の家でも同じことが起こります。神の家の管理人とは、使徒、伝道者、牧師、教師、また監督、長老、執事など、責任ある立場の者たちです。
・賜物と奉仕でも深い管理者
最後に「多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます」とあります。ここで主イエス再臨のときに審判を受けるのは、賜物と責任を委ねられているすべてのキリスト者とされています。
私たちは、それぞれ賜物を受け、何らかの責任を委ねられている者たちです。それらを忠実さと思慮深さを持って、十二分に用いていく必要があるのです。
主イエスの再臨は確実にあるのです。その時を期待しながら、力を尽くし、思いを尽くして、精神を尽くして、神の家で、共に仕えていくようにいたしましょう。
2021/8/1 ルカ福音書12:35~40 再臨と待望
・再臨と待望
主イエスは婚礼から帰る主人とそれを待つしもべたちにたとえて、ご自身の再臨と弟子たちの信仰姿勢について語っています。「腰に帯を締め、あかりをともして」とは仕える姿勢と心が覚醒した状態で主人を待つしもべたちの姿勢ですが、ちょうどそのように、弟子たちに対して、主イエスの再臨を待望するように警告しています。
・報いと幸い
「帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸い」とあります。「目をさましている…しもべ」とは、仕える姿勢と心が覚醒した状態を保つしもべたちのことです。彼らに対して、たとえの主人は大きな報いを与えています。ちょうどそのように、主イエスご自身も、忠実な弟子たちに対して大きな報いと恵みを与えることが示されています。
・用心していなさい
最後に「あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから」とあります。
現代は、主イエスの再臨を信じる者が少ない時代です。世の人々は、全く馬鹿げたことのように考えています。またキリスト者の中でも、救いを心の中だけに矮小化し、再臨という歴史上におこる救いをリアルに受け止めない傾向があります。しかし、そのような信仰は空虚です。
私たちは、このような時代だからこそ、「用心して」再臨待望の信仰を失ってはなりません。その信仰だけが、神の国で完成し、報いを受ける信仰でだからです。
2021/7/25 ルカ福音書12:31~34 天に宝を積み上げる
・神の国を求めなさい
主イエスは地上の事柄に対する執着ではなく、まず第一に「神の国を求めなさい」と語ります。神の国は神の恵みが支配する世界のことです。その国はすでに天から下って地上に突入しており、神は主イエスの弟子たちを喜んでそこに招かれておられます。その際に、必要なことは信じて「求め続ける」姿勢です。
・天に宝を積み上げる
しかし神の国を求める信仰は、空虚なものではなく、具体的な生きた信仰として実践されていく必要があります。それが「持ち物を売って、施しをし…宝を天に積み上げる」ということです。「売って、施す」ということは、「私」にとって痛みを伴うことですが、その分、私のために天に宝が積み上がる結果となります。しかもその宝は朽ちない永遠の宝となって、神の目に留まる信仰の証となるのです。神もまた、その人を永遠の愛によって愛し、また生命を与えられます。
・宝のあるところに心
「宝のあるところに、あなたがたの心もある」とあります。つまり地に宝がある時、その心は地上に属し、天に宝がある時、その心は天の属するということです。宝がどこにあるかによって、その人の本質が顕になるのです。
かつて修道女マザー・テレサが「自分自身が痛む程に与えなさい」と語っていたということですが、彼女ほどの痛みではなくても、自分に与えられた信仰にしたがって「痛んで」天に宝を積み上げることは大切な信仰の実践です。
2021/7/18 ルカ福音書12:22~30 空の烏、野のゆりを見よ
・心配
主イエスは「いのちのことで何を食べようか…何を着ようかと心配したりするのはやめなさい」と語っています。世に生きる限り、様々な生活の心配と煩いは避けることはできません。しかし、それが過度になる時に、囚われて目に見えない神の恵みから離れる危険があります。
・烏のことを考える
「烏のことを考えてみなさい」とあります。烏は不浄な鳥とされていますが、それでも「蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉も」ないのに繁栄しています。それは神の養いの中にあるからです。
自然の中に現されている恵みを考えさせてから、次に「あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたもの」とあります。小から大の論理で類推させています。
・ゆりの花のことを考える
次に野の「ゆりの花」について「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」と語ります。神の恵みと装いの中にあるものは、どのような人間の装いよりもすぐれていることを示しています。そしてここでも「ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう」と小と大の論理、特別な恵みを洞察する霊的類推に招いています。
私たちは圧倒的な異邦人の中にあり、同じように心配の虜になりがちです。そのような時に、自然の恵みに目を留め、次に神の遥かに大きな恵みに心を向けることが大切です。
2021/7/11 ルカ福音書12:13~21 愚かな金持ちのたとえ話
・どんな貪欲にも注意
主イエスは遺産相続分配の訴えがあったことを契機に、弟子たちに対して「どんな貪欲にも注意」するように警告を与えています。それは主イエスがもたらした神の国も永遠のいのちも地上の財産によるものではなく、むしろそれらが害になる場合が多いからです。
・愚かな金持ちのたとえ話
そこで主イエスは愚かな金持ちのたとえ話をします。彼はすでに財産があるのに、貪欲にとらわれて、さらる財産が自分のたましいの喜びと保証となるかのように錯覚したのです。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」とは、貪欲にとらわれた者の愚かな夢想です。
ちょうどその夢想の頂点の時に神宣告は以下のとおり下ります。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」
・神の前に富まない者の悲惨
金持ちは自分が知恵者で思慮深い人間であると考えていたのに対して、神は「愚か者」と宣告しています。この金持ちの愚かであるゆえんは、目先の財産にとらわれ、目に見えない神とその主権を見失ったところにあります。その結果、この世と後の世のいのちまでも、すべて失ったのです。最後に「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」とあります。
2021/7/4 ルカ福音書12:8~12 イエスを告白する
・イエスを告白する
主イエスは「わたしを人の前で認める」ことの大切さを示しています。それは洗礼式のときだけではなく、生涯にわたることです。そして、地上の告白が、即、最後の審判に反映されるのです。「人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます」とあるとおりです。
・イエスを否認
反対に、自分ではイエスの弟子との自覚があっても、イエスを人の前で否認した場合も、即、最後の審判に反映され、その人が否認されることになります。
しかし何度かイエスを否認したとしても、心から放棄して聖霊を汚すのでない限り、悔い改めによって、立ち返ることが赦されます。
・聖霊による告白
また弟子たちが、困難な中でも信仰告白をしようとする時に、「聖霊が教えてくださる」とあります。聖霊はイエスの霊、約束の霊で、前向きにイエスを告白しようとする弟子たちにともなうのです。その聖霊による教えと告白を通して、世に対して鮮明な証をなし、同時に弟子たちも成長することになります。
・信仰告白…「神のもとにいたる道」
ナチスの時代に告白教会を設立したボンヘッファーはこの世は「通り過ぎるもの」ではなく「神のもとにいたる道」であると語っています。つまり私たちは困難があったとしても、明確な信仰告白をなすことで、御国に凱旋することができるということです。
2021/6/27 ルカ福音書12:4~7 人間ではなく 神を恐れる
・人間たちを恐れるな
主イエスは弟子たちを「友」と呼び、主イエスの宣教の後継者、新しい民の形成者として、信仰生活の基本を示しています。その第1は、「人間たちを恐れてはいけません」です。実際に人間たちは「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない」存在だからです。また人間を恐れると罠にかかり、神に対する反逆と様々な罪の原因となります。
・神を恐れる
「殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい」とあります。神のことですが、神は第1に地上の生殺与奪の権を持ち、さらに死後に第二の死、永遠の滅びであるゲヘナに投げ込む権も同時に持つ方であることを示しています。だから人間を恐れずに、神こそ恐れるべき方であることを教えています。
・憐れみと愛の神
また雀の例を通して、神が憐れみと愛の存在者であることを示しています。「五羽の雀は二アサリオン」とは、雀一羽が、この世では極めて小さな存在であることを示しますが「…神の御前には忘れられてはいません」と。「あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者」と語っています。
私たちは人間を恐れて、信仰生活を台無しにしがちな存在です。そこで、私たちは主イエスの言葉を通して、霊の世界に目を開き、神を恐れ、また神のあわれみと愛の中に生きるという信仰の基本を徹底させていきましょう。
2021/6/20 創世記22:1~14 父の価値観…火と刀
・アブラハムの試練
「…あなたの愛しているひとり子イサクを全焼のいけにえとして…わたしにささげなさい」と神はアブラハムを試練にあわせます。試練によって彼の信仰を試し、また神の恵みの大きさを新たに示すためです。
この命令に対してアブラハムは従順に従い、イサクを連れて「神がお告げになった場所へ出かけて行った」とあります。
・父の価値観…火と刀
「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた」とあります。三日間はさながら巡礼の旅で、神を思い自らを思うときでした。そして「その場所が見える」とことで従者らを残し、アブラハムは息子イサクに薪を負わせ、自分は手に火と刀をもって進んでいきます。その姿の中に、アブラハムが神を恐れ神第1とする信仰心を見ることができます。
・ 信仰告白…アドナイ・イルエ
山に向かっている時、息子イサクは父親に問います。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」 この問いに対して父アブラハムは「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」と返答しています。これはごまかしではなく、アブラハムの心からの信仰告白で、「アドナイ・イルエ」ということです。
このとき、父の信仰は子イサクの心に投射されることになり、イサクもまた父の信仰と価値観を継承することになったのです。
2021/6/13 ルカ福音書11:45~54 律法専門家と知識の鍵
・律法の専門家も忌まわしいもの
主イエスは律法の専門家たちに対しても「忌まわしいものだ」と3回畳み掛けます。彼らは色々な規則を作っていましたが、その世界は表面的な敬虔だけで、実態は、神を恐れることも憐れみもない世界でした。彼らは人間社会の中で、権威と力を持ちたいだけだったのです。
・預言者たちを殺した先祖と同じ
「あなたがたは、預言者たちの墓を建てている。しかし、あなたがたの先祖は預言者たちを殺した」とあります。ここでも律法専門家たちが、預言者たちを敬う素振りをしながら実態は、先祖と同じように神に敵対し、神が派遣した預言者の迫害者、殺害者であることを避難しています。さらには「預言者の血の責任を、この時代が問われる」とあります。それは主イエスを捨て去ることで、彼ら自身も神の民としての立場から捨て去られ、新しい民が起こされることになると宣告しています。
・知識の鍵を持ち去り
さらに「知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げた」と避難しています。「知識のかぎ」とはキリストによる信仰義認の教理です。彼らは人間的な高ぶりと歪曲のために、聖書の専門家でありながら、聖書を理解せず、聖書が伝える救いの鍵を自らも理解できず、民にも提供しなかったのです。
ローマ11:20に「… 高ぶらないで、かえって恐れなさい」とありますが、私たちも同じ轍を踏まないように恐れをもって知識の鍵を保ちたいと願わされます。
2021/6/6 ルカ福音書11:37~44 内側のきよめ
・外側のきよめよりも
主イエスが食事の前に「きよめの洗い」をしないのを見て、食事に招いたパリサイ人はつまずきを覚えて驚きました。しかし主イエスはその反応を見て、彼らパリサイ人たちを厳しく非難します。つまり「あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです」と。
・内側のきよめ
さらに「とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります」とあります。「うちのもの」とは、何よりも私たち自身の心の内側のことを意味します。この部分がきよめられて、神に捧げられることが肝要なのです。そのための手段は、彼らの前に立つイエス・キリストの贖いであり、心からの悔い改めです。
・「忌まわしい」から転換
「だが、忌まわしいものだ。パリサイ人…」と続きます。 主イエスの言葉にも関わらず、頑なに外側のきよめ、捧げもの、評判によって自己義認するパリサイ人らに対する痛烈な非難です。また、後のキリスト者たちに対する警告の言葉という意味もあります。
つまり私たちの場合も、内側ではなく外側の敬虔スタイルでよしとして自己義認に陥っている場合があります。そこで、常に心の内側を照らされ、悔い改めによってきよさを回復する必要があります。詩篇51:17にも「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」とあるとおりです。
2021/5/30 ルカ福音書11:33~36 福音と「健全な目」
・「あかり」と光
はじめに、主イエスはご自身が神の光であって、暗やみを照らし、生命を与える方であることを明言します。またご自身は隠されておらず、福音を通して、世にも私たちにも、明々白々たる形で示されていることを告げます。実際に、私たちに対しても福音を通して、キリストは提供され、光として私たちの前に輝いています。
・健全な目
「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るい」とあります。「からだ」とは心を中心とした人間存在全体(全人)のことを意味し、それは罪と悪に染まって暗い存在です。「目」とは肉眼と心の目を意味し、外側にあるキリスト(光)を内側に受け入れる唯一の手段です。そこで「目が健全」であることで「全身も明るく」なります。「健全」とは単焦点ということで、世の欲とダブってはならないということです。
・気をつけなさい
「あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい」とは、すでにキリストを受け入れた人々に対する警告です。私たちはすでにキリストを受け入れて、全人が明るくされています。しかし、私たちの目は悪くなる傾向があり、その結果、「からだ」全体も暗やみなる場合が多いのです。そこでいつも、「目の健全」さを保つように「気をつける」必要があります。つまり絶えず、世の欲と煩いよりも、キリストを求める心を保ち続けることです。
2021/5/23 ルカ福音書11:29~32 ヨナよりも まさった者
・しるしと悪い時代
「この時代は悪い時代」とあります。当時のユダヤ人たちは、自分たちが一番正しいと自負していたのですが、神の目には「悪」と写っていたのです。その理由は「しるしを求めている」でした。それは真摯な求道心などではなく、はじめから懐疑的で自分の心と生活を決して変えようとしない不信仰と俗悪性です。
・「ヨナのしるし」と福音
「ヨナのしるし」とは、預言者ヨナが大きな魚の腹に三日三晩いたという奇跡です。ちょうどそのように「人の子が…しるしとなる」とは、イエスが死んだ後、三日後に復活することを指しています。それがイエスが神の子キリストであることの決定的しるしとなることを示しています。このことはイエスの復活後に実現し、福音という形で宣教されていきます。そして福音を受け入れるか否かの応答如何で人は救いと裁きに分けられます。
・ヨナよりもまさった者
「ここにソロモンよりもまさった者…ヨナよりもまさった者がいる」とあります。イエスが旧約のいかなる知恵者、預言者よりも優れた方であり、まさに神の子キリストであることを示しています。
私たちはイエスの時代から二千年後の世界に生きておりますが、この時代にも、何よりも優れたキリストの福音が宣教されています。その厳かさを覚えて、旧約の人々以上に「恐れおののいて自分の救いを達成」(ピリピ2:12)すべきです。
2021/5/16 ルカ福音書11:14~20 神の指と神の国
・悪霊を追い出す
主イエスがおしの悪霊を追い出して群衆が驚いていた時、ある者は「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言いました。彼らはイエスの福音も御業も受け入れず、頭から悪としていました。自分の心が悪い者たちは、いつも自己中心の判断をします。
・神の指と神の国
そこで主イエスは彼らの論理の矛盾を指摘し、次に「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」と語ります。「神の指」という言葉は、出エジプトの十の災いの時に用いられている言葉で、神が直接に奇跡をなしていることを示します。他の箇所では「聖霊」とされています。つまり主イエスの福音と共に御業が起こり、それは「終わりの日」に到来する神の国の現れであると宣言しているのです。
・ 神の指と教会
現代の教会でも確かに神の指が現れています。それは福音とともに目に見える現れというよりも、一人一人の心のなかと生活に現れます。
「…神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」Ⅰテサロニケ2:13とあります。私たちが礼拝において真摯にみ言葉を受け入れる時に、教会は神の指が現れ、豊かに働く場となります。
2021/5/9 Ⅰ列王記17:8~24 母の信仰と祈り
・ツァレファテの母の信仰
ツァレファテの寡婦は、飢饉のときにエリヤの神、主を信じて自分と息子の生命を救うことになりました。彼女がエリヤの命令に従って、主なる神を第1としたからでした。その結果、「かめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」という地上の生命についての恵みと賜物を獲得したのでした。
・母の訴えと息子の復活
それからまもなく彼女の息子は重病となり、死んでしまいます。そのときには、彼女は息子の死を諦めきれず、エリヤのもとに行って悲しみと怒りをぶちまけて、その不条理を訴えます。その訴えに動かされてエリヤは神に祈り、結局、彼女の息子を復活させます。その復活は新約の復活の生命の雛形です。
・ 母の信仰と祈り
母親は神によって、子供の生命を委ねられています。その役割は、地上の生命を産み出して保つことと同時に、息子にも天上の生命が授けられるように祈ることです。
教父アウグスティヌスは「告白」の中で、母モニカについて次のように記しています。「(母は私を)肉体においては、時の中に、心においては、永遠の光の中に、産み出した」と。まさしく、母に対する最高の賛辞、感謝の言葉だと思います。
2021/5/2 ルカ福音書11:5~13 求める者は 受ける
・真夜中の嘆願者
主イエスは祈り続ける必要について教えるために真夜中の嘆願者のたとえ話をします。どうしてもすぐにパンが必要であったために、真夜中にある人が友人の家に嘆願に行ったのです。友人も子どもたちも寝ていたので、はじめは断っていても「あくまで頼み続けるなら…必要な物を与える」と。
・求める者は受ける
以上のことを祈りの極意として、主イエスは続けて語ります。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」誰であっても「求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれ」るのです。神に祈るものはひたすら求めることが求められており、そのうめくような祈りのなかで「受け…見つけだす」のです。
・聖霊を求める
最後に主イエスは聖霊を求めることの大切さを示します。聖霊は、神の子たちの生命であり、力です。地上では世の権威権力の脅威があり、絶えず悪と汚れた霊が教会に忍び込もうとしています。 神の子たちと教会は、絶えず聖霊を求め、聖霊に満たされて、初めて世の光として輝きを保ち、地の塩として機能することができるのです。
2021/4/25 ルカ福音書11:1~4 主の祈り
・主の祈り
主イエスは弟子の求めに応じて「主の祈り」を教えました。その祈りは短いのですが、祈りの全体と本質を示すものです。
「父よ」という呼び掛けで、祈りが始まります。弟子たちはキリストによって神の子としての立場が与えられているという前提のもと祈りが始まります。つまり祈りは、私たちが、神の子たちと自覚し、実際に神との交わりを持ち、その生命に生かされる手段ということです。
・御名と御国
「御名があがめられますように」とは神が、真実の神が神として明らかにされ、聖別され、礼拝されるようにという祈りです。「御国が来ますように」とあります。御国は世の終わりに完全な形で到来しますが、神の子たちは地上に執着することなく、救いの完成となる神の国を待望します。また、先取りした形で今の時代にも神の国が現れることを求める祈りです。
・糧、罪の赦し、試みの守り
前半は神との関係、後半は私たち自身についての祈りです。その内容は日ごとの糧、罪の赦し、試みからの守りです。その場合も、神に全面的に頼り、依存することの告白と求めです。そのようにして、私たちが地上にあって、自ら誇ることなく、ただ神の恵みに生きる神の子たちであることを自覚し、また証しするのです。
2021/4/18 ルカ福音書10:38~42 マルタとマリヤ
・マルタとマリヤ
「イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした 」とあります。マルタは善良な人でイエス一行を歓迎し、もてなしに奔走したのです。ところが妹マリヤは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」とあります。当時、女性が男性の弟子たちの位置にいることは、非常識と思われる態度でした。
・マルタ、マルタ
「マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず」、主イエスのもとに来て、妹マリヤの態度を非難し「私の手伝いをするように」と催促しています。当時、それは社会的にも常識な意見でした。
しかし主イエスは「マルタ、マルタ。あなたは…」とマルタの方をたしなめています。それは彼女の方が、神の前で逸脱した状態にあったからです。
・マリヤは良いほうを
「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだ」とあります。マリヤが選んだ「一つ」の「良いほう」とは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入ること」でした。それは主イエスによって保証された権利であり、大切なことです。
私たちは生まれながらマルタ的体質を持ちますが、キリスト信仰によって霊的「内なるマリヤ」が新しく生まれています。私たちは日常の忙しさの中にある時、いつでもマリヤの信仰姿勢に立ち戻るべきです。
2021/4/11 ルカ福音書10:25~37 良きサマリヤ人のたとえ
・隣人とは
あり律法学者が主イエスに「永遠のいのち」獲得の手段について尋ねた時、主イエスは彼の偽善を見抜いて、律法つまり「神と隣人を愛せよ」という命令を実行するように命令します。しかし彼は自分の正しさを示そうとして「私の隣人とは誰ですか」と問います。
・良きサマリヤ人のたとえ
そこで主イエスは良きサマリヤ人の例えを語ります。つまり、ある人が強盗に襲われて半殺しにされて倒れていた時に、誰が彼を愛して助けたかという話です。祭司もレビ人もそこを通り、その人を見たのですが、彼らは見て見ぬふりをして通り過ぎます。しかし「あるサマリヤ人」は「彼を見てかわいそうに思い」、回復するまで徹底した介抱をしました。祭司とレビ人の姿は、律法主義で義人を装っているユダヤ人のすがたであり、そこには愛も生命もないことが暴かれています。「サマリヤ人」とは、イエスご自身を暗示しています。愛と生命は律法の枠外から到来するのです。そしてすべての人は、霊的にはむしろ、半殺し状態の存在なのです。
・良きサマリヤ人…イエス
私たちの場合も、まず自分は霊的には半殺し状態の存在であることを素直に認める必要があります。そして良きサマリヤ人であるイエスの愛と救いを受けて癒やされ、新しい生命を獲得することが大切です。その後に、彼にならって「同じように」することができるのです。
2021/4/4 ヨハネ福音書20:24~29 見ずに信じる者は幸い
・トマス
主イエス復活の証言を聞いた時、トマスは「手に釘の跡を見…手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と主イエスの復活に対して懐疑的でした。彼は目に見えるものに対してはよく反応する人間でしたが、目に見えない世界についてはまったく、懐疑的な人間でした。
・「私の主。私の神。」
その八日後に、復活のイエスは再び、弟子たちの中に現れ、今度はトマスに向かって「指をここに…手を…わきに」と語られます。この時に、トマスは「私の主。私の神。」と応答して信仰告白を新たにします。「主」とはただ先生ということではなく、死から復活した絶対的主ということです。「神」とは、無から有をも創造する方ということです。しかも「私の…」と徹底した個人の信仰告白をしています。
・「見ずに信じる者は幸い」
「…見ずに信じる者は幸いです」とあります。かつてのトマスの世界観は目に見える世界だけでしたが、その結末は絶望的な暗さでした。しかし復活信仰によって招き入れられた世界は、目に見えない神の世界であり、そこは永遠の生命と喜びの世界です。この新たな領域は「見ずに信じる」信仰によってのみ啓かれていく「幸い」な世界です。
2021/3/28受難週 ヨハネ福音書19:1~16 「この人を見よ」
・いばらの冠と紫の衣
ローマ総督ピラトはイエスが無罪であることを知って、赦免しようとします。しかしユダヤ人たちはイエスではなく強盗バラバの釈放を求めました。さらにユダヤ人を懐柔しようとして、イエスをむち打ちにし、いばらの冠と紫の衣で愚弄し、「さあ、この人です」と言って、彼らの前に立たせました。
・「十字架につけろ…」
ところがユダヤ人たちは「十字架に付けろ、十字架に付けろ」と激しく叫んだとあります。十字架はローマの極刑であり、律法でも最悪の処罰です。主イエスは正しいとピラトによっても証言されていたのに、彼らは頑なまでもイエスを憎んで、拒絶し、酷たらしい死を望んだのです。
・「この人を見よ」
ユダヤ人たちは、律法によって自分を義とする人々ですが、このようにして最も罪深い状態であったことを顕にしました。それはユダヤ人だけではなく、誰でも自分を義とする人間の実体です。
それに対して、イエスは十字架の苦難の中で、ご自分の正しさと聖さをより際立たせ、その意味で神の子であることを顕にしました。さらには、自分の罪を認識する者にとっては「癒やしの神」「贖いの神」であることを顕にしたのです。
2021/3/21 ルカ福音書10:21~24 イエスを見る目は幸い
・幼子たちに現された奥義
主イエスは「喜びにあふれて」神をほめたたえています。それは神が福音の奥義を「賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださった」からでした。「賢い者や知恵のある者」とは世の知恵と権力を持ち、世の名誉に執着している人々のことです。「幼子たち」とは世の中で小さく弱くまた貧しい者たちのことです。彼らは世に執着せず心が開かれており、神も彼らに福音の奥義を啓示されるのです。
・ 父と子の交わりに
「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されて」とありますが、それは主イエスが神の力と権威と知恵を一身にうけた神の子であることを示します。また「子がだれであるか…父がだれであるか」とは父と子の神の間の密接な愛の交わりを意味します。さらにその交わりは「子が父を知らせようと心に定めた人たち」である弟子たちも提供されています。
・ イエスを見る目は幸い
「あなたがたの見ていることを見る目は幸い」とあります。主イエスが選び、霊的に開いた弟子たちの目ということです。その目をとおして、弟子たちは父と子の交わりに深く招かれていくのです。
私たちもまた、主イエスによって選ばれて教会に導かれ、福音を見聞きすることが許されています。そこで、さらに福音の奥義を理解し、父と子の愛と永遠の交わりに加えられていくために、イエスを見る目、福音を聞く耳をしっかりと開くようにいたしましょう。
2021/3/14 ルカ10:17~20 天の国籍を喜ぶ
・七十人の帰還と喜び
主イエスによって派遣されていた七十人の弟子たちは、喜んで帰還し「御名を使うと悪霊どもでさえ…服従」すると宣教成果を報告しています。イエスの御名は単なる記号ではなく、力と権威が伴う「名」であることを明らかにしています。
・サタンが天から落ち
主イエスご自身も弟子たちの成果を裏付けて「サタンが、いなずまのように天から落ち」、「あなたがたに…敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた」と語っております。 福音宣教とともに神の国が地上に到来して、サタンの王国がどんどんと打ち破られていくことを示し、また保証しております。
・天の国籍を喜ぶ
しかし主イエスは弟子たちに対して彼らの本分が地上の働きではなく、天にあることを覚えるように次のように警告も与えています。「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
・成果(doing)よりも存在(being)
私たちの場合も、このことは同様です。私たちはキリスト者として地上で信仰生活をする時にも祝福と喜びがあります。しかし地上の喜びは過ぎ去っていくものであり、浮き沈みもあるものす。私たちの生命は天にあるので、その天の国籍を喜ぶことが、自分を保ち、常に変わらない平安と力を保つ秘訣です。
2021/3/7 ルカ福音書10:1~16 神の国は近づいた
・「神の国」宣教の緊急性
主イエスは「別に七十人を定め」て派遣しています。彼らに対して、幾つかの命令を与えています。「働き手」が加えられること、「狼の中に小羊を送り出すような」危険が伴うこと、財布持たず、挨拶もせずに宣教地に行くことなどです。それらはみな「神の国」宣教が緊急性を要した働きであることを示す命令です。
・神の国は近づいた…救い
弟子たちの宣教の内容は、一言で「神の国が近づいた」とあります。「神の国」とは、主イエスと共に到来した神の支配です。それは「すでに」と言う側面と「まだ」という2つの側面を持ちます。「すでに」とは、福音と聖霊による支配として現れ、「まだ」とは最後の審判と共に公然と現されるからです。そして神の国の福音を受け入れた者は、最後の審判の中で救いが明らかにされます。
・神の国は近づいた…裁き
最後に主イエスは「神の国」の福音を受け入れない者たちに対して、警告を与えています。「その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽い」。
私たちはこの町で「神の国」宣教を委ねられています。まずは自分自身が「目を覚まして」福音に聞いて応答すること。次に宣教によって町の人々が「目を覚まして」救いに入れられることを祈りましょう。
2021/2/28 ルカ福音書9:57~62 手を鋤につけてから
・人の子には枕する所もない
主イエスは弟子となろうとする者に対して「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」語ります。狐も鳥も地上で安住の場があるが、キリストとその弟子に約束されているのは、地上での安住ではないことを示しています。
・死人たちに死人たちを
別の弟子に対しては「死人たちに…死人たちを葬らせなさい」と語ります。はじめの「死人たち」とは神から離れて地上のことに始終する人々のことです。彼らの関心事は地上の生命と葬りです。その人々に肉体的な「死人たち」を葬らせないということです。
「あなたは出て行って、神の国を…」とあります。神の国は福音とともに到来している永遠の生命の広告です。弟子たちは新しい生命に招かれているので、世の業から決別して生命のために働くように促しています。
・手を鋤につけてから
第3の人は、家の者に暇乞いを求めています。その人に対して「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」と中途半端な志をたしなめています。確かにロトの妻の例にあるように、世に対する執着は災となります。私たちも神の御国に招かれているキリストの弟子として姿勢を正すべきです。
2021/2/21 ルカ福音書9:51~56 御顔をまっすぐに
・「天に上げられる日」
ルカ9:51から19:44はエルサレム途上のイエスを描いており、しかもルカ独特の物語が挿入されています。「さて、天が上げられる日」とありますが、それはイエスの結末であり、十字架と復活と昇天の救いの業の一切を示しています。これがルカ福音書の主題であり、聖書全体の中心です。
・御顔をまっすぐに
「イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」とあります。エルサレムとは、当時、神殿があった町ですが、同時にキリスト預言の中心となる町でした。「み顔をまっすぐに」とは、きわめてひたすらで、真面目で、真剣な主イエスの姿を現しています。それは父から委ねられた救いを成し遂げようとするイエスの心と意志をよく現しています。
・イエスに習う
私たちは、神の国の民として、主イエスが切り開いた天への道に招かれています。この主イエスのエルサレムに向かう姿勢にならって、私たちの前に備えられた小道を進んでいくべきです。
ヘブル人12:2に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあるとおりです。
2021/2/14 ルカ福音書9:46~48 神の国の価値観
・「だれが一番偉いか」
「弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」とあります。彼らは目に見える世的価値観によって「偉い」「大きい」「優れている」を図ろうとしていました。神から離れた世では、自分たちで価値観を作り、しかも比較によって優劣を決めようとする体質を持ちます。そこには常に弊害が伴い、妬みと争いの種となり、また小さいとされるものを蔑視することになります。
・子どもをそばに
そこで主イエスは「子どもの手を取り、自分のそばに立たせ」て弟子たちの価値観を訂正します。当時、子どもは力もなくまた律法を知らない故、劣った者とされていました。しかし主イエスは「このような子ども」こそ最高の価値ある存在としていることを 示し、その価値観を弟子たちも受け入れるよう促しています。
・神の国の価値観
「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」と主イエスは地の国と神の国の価値観が逆転することを示します。それゆえ、私たちは主イエスの御元でこの世の価値観を砕いて、神の国の価値観を身につけることが大切です。
そのようにして、私たち自身の絶対的価値をも見出すことができるし、神の国の幸いな交わりを実現することができるのだと思います。
2021/2/14 ルカ福音書9:37~45 「今の世」と十字架
・悪霊に憑かれた子
主イエスの一行が山から降りてきたときに、ひとり息子の癒やしのために「群衆の中からひとりの人」が叫びました。その息子は悪霊につかれると「突然叫び出す…ひきつけさせてあわを吹かせ…なかなか離れようとし」ない状態でした。それは罪の世の悲惨な現実でした。
・「不信仰な、曲がった今の世」
「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ…。」主イエスは弟子たちの不信仰、群衆と父親の不信仰、さらに「今の世」を叱責しておられます。神がいくら働きかけても、霊の目が閉ざされて不信仰と罪のままなのが「今の世」です。主イエスの叱責の背後に、神の忍耐を垣間見ることができます。主イエスは叱責をしても、世の悲惨を放置することもなく、その悪霊につかれた息子を癒やされます。
・「今の世」と十字架
最後に主イエスは弟子たちに密かに「人の子は、いまに人々の手に渡されます」と弟子たちに告げます。それは十字架の予告ですが、十字架は「今の世」の罪の一切を忍耐しつつ担った帰結でした。十字架によってでなければ、誰も自分の罪にも、神の忍耐にも、気が付かないし、霊的麻痺から癒やされることもないのです。
「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされた」Ⅰペテロ2: 24とは真実飲み言葉です。
2021/1/31 ルカ福音書9:28~36 変貌の山
・変貌の山
主イエスは3人の弟子たちを連れて祈るために山に登りました。そのときに「御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた 」とあります。人の顔ではなく、「別の顔」、神の子としての顔に変貌したのです。
・十字架と栄光の救い
「ふたりの人がイエスと話し合って」とありますが、それはモーセとエリヤでした。彼らは旧約聖書を代表する人物たちです。彼らは主イエスとともに「エルサレムで遂げようとしておられるご最期について話していたのである」とあります。その「ご最期」とは新しい出エジプト、十字架の救済のことでした。主イエスが弟子たちに対して、その光景を顕にされたのは、彼らが十字架の苦難の中でも、栄光ある救いの道を見失わないためでした。
・「彼の言うことを聞きなさい」
やがて栄光の姿は消え去りましたが、雲の中から御父の声がしました。「…これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」。つまり、主イエスを神の子として認証し、彼の言葉によって新たな救済に導かれるということです。
このことは私たちの場合も、全く同様です。つまり、イエスの言葉である福音に深く聞く時、私たちも変貌の山を体験し、救いの道を見失うことなく、信仰の人生を歩むことができるということです。
2021/1/24 ルカ福音書9:18~27 自分の十字架を負う
・信仰告白
ペテロは主イエスの問いに対して「神のキリスト」と答えましたが、このときから主イエスは、ご自身の苦難と復活の予告をします。つまり「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨て られ、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」と。
この預言は弟子たちのキリスト観とは全く異なりましたが、より大きなキリスト像、つまり罪と死に対する勝利者としての姿が啓示されています。
・自分の十字架を負う
次に主イエスはご自分の弟子の信仰姿勢について次のように語ります。「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして私についてきなさい」。弟子とは単に告白するだけのものではなく、自分を否定して、キリストに従う者です。「日々自分の十字架を負う」とは、自分に委ねられるキリストからの使命を、苦難が伴ったとしても、担って生きることです。
・自分のいのちを救う
この命令は、なにか恐ろしいもののようですが、しかしこれ以外には私たちが自分の生命を救う手段はありません。「自分のいのちを失う者は、それを救うのです」。
私たちはそれぞれ異なった「自分の十字架」がありますが、それは実は祝福なので、前向きの姿勢で担っていくことが大切です。
2021/1/17 ルカ福音書9:10~17 5つのパンと2匹の魚
・神の国の現実
主イエスが弟子たちを休ませるために辺鄙な野に退いたときに、多くの群衆も主イエスをしたってついてきました。「日も暮れ始めた」ときに、主イエスは弟子たちにたいして「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい」と語られました。ところが彼らの手元には「五つのパンと二匹の魚のほか何も」なかったので、当方に暮れました。地上での神の国の現実は、しばしば、欠乏、小ささ、弱さ、危機です。
・神の国の祝福
しかし主イエスは群衆を五〇人ほどのグループにして座らせてから「イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた」とあります。「五つのパンと二匹の魚」は、決して、小さなものではなく、神の恵みによる賜物として感謝し祝福しているのです。 次に「裂き…配る」というふうに神の国の交わりを作っています。また弟子たちも群衆もこの交わりを繰り返したとき、そこに神の国の恵みと祝福が、出現しました。
・ボンヘファー「共に生きる生活」
「感謝ということは、キリスト者の生活の他の方面においてもそうであるように、キリスト者の交わりにおいても大切なことである。小さなことに感謝するものだけが、大きなものを受けるのである。」
2021/1/10 ルカ福音書9:1~6 召命と派遣
・神の国の召命と派遣
主イエスは12弟子を呼び集めて「力と権威とをお授けに」なりました。また「神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた」とあります。神の国とは神の支配ということでみ言葉と御霊によって実現します。その際に神の国到来の具体的なしるしとして癒やしと悪霊追放がともなうのです。これは主イエスによる召命と派遣であり、弟子たちも応答したのです。
・神のみに頼る
「旅のために何も持って行かないように」とあります。神の国の働き人を神が養ってくださるからで、後の一切は神に信頼するようにということです。そして彼らを受け入れる家あるいは町では、宣教を続けて祝福を与え、「受け入れない」町を出ていくときには、「足のちりを払い落として」、神の支配を拒絶したことを証言するようにと命令を受けます。
・宣教の拡大
弟子たちの派遣によって、神の国の福音は拡大します。そして10章では、さらに多くの弟子たちを派遣して、さらなる拡大が起こり、使徒の働きでは、さらに全世界に広がっていく様子が記されています。
そして、主イエスは21世紀の現代においても、さらに神の国を世に拡大浸透させるために私たちに対して、同じようにして「召命と派遣」を与えておられます。
2021/1/3 詩篇104篇 主をたたえよ
・「主をほめたたえよ」
「主をほめたたえよ」とありますが、私たち人間は全身全霊をもって主なる神をほめたたえるよう招かれています。実際に、主はほめたたえられるにふさわしい偉大さと「尊厳と威光」をもって天において一切を支配しておられ、天に心の目が啓かれた者たちは誰でも、主をほめたたえざるをえません。
・盤石な恵みの支配
「地をその基の上に据え」とありますが、これは天地創造の有様を描いています。神は「深い水」とカオスを支配し、盤石な地を創造されました。さらに神は、地を水で潤し、生きとし生けるものを恵みで支配しておられる様が描かれています。その美しい世界に人間もまた、生かされています。
・新年に「主をほめたたえよ」
最後に神は、死と再生を支配し、正義と悪の審判者であるという信仰告白をしています。神の支配から免れる者はないのです。そこで私たちがなすことは、神の御心にかなう者となり、神の恵みの支配の中にやすらい、心から神に歌うことです。
すでに新しい年となりましたが、世はコロナ禍で世界に対して不安と怖れを抱く時代となっています。この時代の中で、私たち神の民は、主イエスによってすでに御心にかなうものとされて、この地上に生かされていることを覚えて、ただただ神に感謝し、ただ神を賛美することです。