・外側のきよめよりも
主イエスが食事の前に「きよめの洗い」をしないのを見て、食事に招いたパリサイ人はつまずきを覚えて驚きました。しかし主イエスはその反応を見て、彼らパリサイ人たちを厳しく非難します。つまり「あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです」と。
・内側のきよめ
さらに「とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります」とあります。「うちのもの」とは、何よりも私たち自身の心の内側のことを意味します。この部分がきよめられて、神に捧げられることが肝要なのです。そのための手段は、彼らの前に立つイエス・キリストの贖いであり、心からの悔い改めです。
・「忌まわしい」から転換
「だが、忌まわしいものだ。パリサイ人…」と続きます。 主イエスの言葉にも関わらず、頑なに外側のきよめ、捧げもの、評判によって自己義認するパリサイ人らに対する痛烈な非難です。また、後のキリスト者たちに対する警告の言葉という意味もあります。
つまり私たちの場合も、内側ではなく外側の敬虔スタイルでよしとして自己義認に陥っている場合があります。そこで、常に心の内側を照らされ、悔い改めによってきよさを回復する必要があります。詩篇51:17にも「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」とあるとおりです。
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