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2017/7/2 ピリピ4:14~23 コイノニアと教会



コイノニアと教会
 パウロはピリピ教会について「私と困難を分け合って と語っています。「分け合って」とはコイノニアで、パウロがこの手紙で良く用いている言葉です。これまでも恵みにあずかった人々」1:7、「御霊の交わり2:1、「キリストの苦しみにあずかる(コイノニア)3:10キリストの血にあずかる などがあります。このようにしてパウロは、教会の交わりは特別な霊的な交わりであることを示しております。

・物をやり取りする教会
 さらに「物をやり取りしてくれた教会」と語ります。それはピリピ教会がパウロの元に金銭を送ってくれたことを示しています。これもコイノニアという言葉が用いられており、物や金銭も歴とした霊的な交わりであることを現しています。それはパウロたちの欠乏を補うことになったのですが、それ以上に双方に霊的恵みをもたらしたことを指摘します。

・神への供え物
 さらに「神が喜んで受けてくださる供え物 」とあります。旧約の時代には神殿があり、そこでいけにえをして贖いをなし、さらに神との交わりの場としました。しかし新約時代はキリストのゆえにいけにえは必要ありません。しかし神との交わりのために自発的に献金するという形で「神に喜ばれ」、神との交わりを深める機会が提供されているのです。

2017/6/25 ピリピ4:10~13 満ち足りた心



・満ち足りた心
 使徒パウロはピリピ教会の人々に対して献金の感謝をすると同時に、彼自身は、お金や物に依存していないことを明言しています。「どんな境遇にあっても満ち足りることを学」んだとは、そのことです。
 「満ち足りた心」は、当時のギリシャ人たちが渇望していた精神状態です。どのような状況にも左右されることなく、平安で余裕のある心の状態で、日本的に言えば「悟りの境地」ということです。

・あらゆる境遇に対処する秘訣
 さらに「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」とあります。「秘訣」とは、当時の神秘的宗教の中で重宝されたことばです。彼らは神秘的儀式や作法で超人的状態に入ろうとしたのです。
 しかしパウロは、その秘訣をキリスト信仰によって獲得していることを証ししているのです。

・私を強くしてくださる方
 「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる 」とあります。「私を強くしてくださる方」とは神様のことです。「私」自身は弱く乏しいのですが、神がキリストのゆえに愛してくださり、いつでもどこでも力を注いで強くしてくださるということです。
 実際にパウロは何でもできたというのではなく、必要とあらば、神は私を通して「どんなことでもできる」ようにしてくださるということです。キリスト信仰は、小さい者、弱い者をも、絶対的な神信仰に導き「強い者」と変えるのです。

2017/6/11 ピリピ4:4~7 喜び、寛容、祈り 



・主にあって喜ぶ
「いつも主にあって喜びなさい」。「主にあって」とは、「主が共にいてくださる」という意味が含まれます。霊的現実を信仰の目で見て、喜ぶようにということです。
 目に見える状況が悪くとも、あえて信仰によって喜ぶという積極さが大切です。そして私たちが「主にあって喜ぶ」とき、実際に物事もよい方向に進展するのです。

・寛容
 「寛容な心」とは、相手を敵視したり、相手を恨んだりすることの反対です。むしろキリストのように、どのような人をもうけ入れ、融和さを持ち、欠点を覆うような寛大な心ということです。
 私たちの時代は、寛容さを失っている時代です。その中で、キリストの心のように生きることは良い証となります。

・祈りと平安
 「何も思い煩わないで」とあります。私たちの思い煩いは目先のことに囚われ、何でも自分で解決しようとする肉的状態の中で起こってきます。その時こそ、信仰を呼び覚まして、神に祈るチャンスです。
 私たちの霊の目は祈りを通して開かれ、私たちの近くにあって、私たちを愛してやまない父の神を知ることになります。そのようにして「人のすべての考えにまさる神の平安」私たちを覆うのです。 
 私たちは、不安と不満と失望の時代に生きています。この時代のただ中で、神の民として生きることの幸いを享受し、証ししましょう。

2017/6/4 ピリピ4:1~3 主にある一致



・「しっかりと立つ」
 信仰者たちが神とキリストとの強固な交わりの中にあることを示した後、パウロは、ピリピ教会の人々を激励しています。「しっかりと立って」とあります。戦場の兵士の、あるいは試合に臨む競技者に対するようなイメージで語っています。地上に生きるキリスト者は神の軍のようであり、地上にあって様々な悪に立ち向かうのです。そのために信仰の足場を固める必要があるのです。

・主にある一致
 ピリピ教会はすぐれた教会でしたが、教会内でユウオデヤとスントケという2人の有力女性の対立がありました。福音に熱心あまり、宣教方針などでしばしば対立が起こったのです。パウロは異端に対しては、徹底した排除するように命じますが、同じ信仰者同士の場合は、極力、和解し一致するように勧めています。「主にあって」とは、主イエスが十字架で示されたへりくだりの思いに真似てということです。

・周囲の協力
 「彼女たちを助けてやってください」とあります。これは周囲の者たちに対する勧めです。対立を放置したり、どちらかに加担するのではなく、和解のために助力するように促しているのです。何としてでも、教会内の対立は避けるべきで、「主にある一致」が保たれなければならないのです。その一致した教会において、主イエスの臨在は際立ち、力ある賛美と宣教が起こります。

2017/5/28 ピリピ3:17~21 天を待ち望む



・十字架の民と敵
 パウロは「私に見ならう者になってください」と語ります。正しい福音を知ると同時に、福音的な生活スタイルを身につけることの大切さを訴えているのです。というのは「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」とあります。その敵とは、ユダヤ主義たちのことですが、それだけではなく、世に執着する生き方すべてを指しています。

私たちの国籍は天
 「私たちの国籍は天に」とあり。「国籍」とは自分の母国であり、やがて立ち返る国です。人はどこにいたとしても、その生活スタイルから離れることはないのです。ちょうどそのようにキリスト者の国籍は天国ですから、地上にあってもその生活スタイルを失うことはなく事柄に執着することなく、 地上では旅人のようにして生活するのです。

・再臨と待望
 私たちは天に戻ることを求めて生活しますが、それが実現するのは主キリストの再臨です。その時に、神の恵みによって私たち自身に救いが完成し、私たちの卑しい体が栄光の体に変えられるのです。
 そこで地上に生きる私たちに求められることは、何よりも「待ち望む」信仰姿勢です。この言葉は、キリスト教独自の言葉で、自分の外からのものを切実に待ち望むという意味です。この待望感が、地上のキリスト者を神の民として、なによりも輝かせるのです。

2017/5/21 ピリピ3:12~16 栄冠を得るために



すでに得たのでもな
 「私は、すでに得たのでもなく…」とパウロは語っています。地上の信仰生涯では決して、私たちがキリストを完全に捕らえるとか、信仰者として完成されることはないことを明確にしています。むしろ、人生の節目節目でキリストが信仰者を捕らえてくださり、励ましてくださるのです。

・後ろのものを忘れ
うしろのものを忘れ前のものに向かって」とございます。「うしろのもの」とは地上での権利、名誉、功績、財産などを意味します。それは信仰的には意味をなさないのです。「前のもの」とはキリストご自身とその栄光です。必死に、前に向かい、未来に向かう信仰姿勢が大切であることを示しています。
・栄冠を得るために
 「神の栄冠を得るために一心に走って」とあります。「栄冠」とは神が天で与えてくださる救い、相続、永遠の生命、キリストの愛、すべてのことです。誰かと競争するというのではなく、相手は自分の不信仰と地上の執着のみです。ただ天の目標を一心に目指す者たちだけが「栄冠」を受けるのです。
 私たちの信仰心を引き締めて、キリストの愛を信じて、希望を持って日々、進むことが大切です。

2017/5/7 ピリピ3:8~11 キリストを知るすばらしさ



・キリストを知るすばらしさ
 私たちの世界には色々な価値観があります。しかしパウロは「キリスト・イエスを知っていること」が何よりも「すばらしい」と断言します。
 パウロが示す「キリストを知る」とは、肉的にキリストを見て知るということではなく、霊とみことばにより知ることです。それは頭で知るということより、むしろ深く交わって人格的に深く知るということを意味します。

信仰により知り知られ
 また「キリストを知る」ことは、行いによるのではなく、信仰による義に基づくことを明確にしています。それによって「キリストを得」「キリストの中にある者と認められ」るのです。
 また「キリストを知る」とは、ダイナミックに知るということも意味します。つまりその復活の力を知るということであり、苦難にあってはキリストの苦しみにあずかるということです。

・復活を目指す
 また「キリストを知る」ことは地上においてその苦難と復活の力を味わうということだけではありません。たえず世の終わりの完成に希望を抱いて生きる生き方です。地上においても、キリストを知り、キリストを得るということがあるのですが、それはごく一部です。その完成は世の終わりであり、そのとき私たちは死者の中から完全に復活して面と向かって交わることになります。
 

2017/4/23 ピリピ3:1~7 真の割礼者



・肉体だけの割礼者
 使徒パウロは交わりを破壊する律法主義的教師に気をつけるようにと語ります。彼らは信仰者に対して律法の遵守と割礼が必要であると主張していました。しかし、使徒は彼らは「犬」「悪い働き人」「肉を切っただけの者」に過ぎないと厳しい言葉で非難します。

・真の割礼者
 「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない」とあります。礼拝、神を誇り(賛美し)、人間ではなく神に頼る者こそ、神の民の姿です。「私たちのほうこそ割礼の者」と続きます。「割礼」とは聖められた者、神の民のしるしということですが、それは肉ではなく、心になされるものなのです。神は肉の割礼者を嫌い、心の割礼者を喜ばれます。また心の割礼者は、真の割礼者としてキリストを通して神の祝福を一身に受ける異なります。

・使徒パウロの例
 使徒パウロは自分を例として、肉の割礼の無益さ、キリストによる「割礼」の有益さについて証言します。彼は生粋のイスラエル人で肉の割礼者でした。しかもパリサイ人として誰よりも律法の業に熱心だったのです。「しかし私にとって得であった…ものを…損と思うように」なったと。
 私たちの周囲には肉の割礼者も律法を主張する者もいませんが、しかし人間(肉)を誇る傾向は根深くあります。それを克服することが教会の交わりのとって大切なことです。

2017/1/29 ピリピ2:25~30 エパフロデト



・エパフロデト…謙遜な人
 パウロはエパフロデトをピリピ教会に派遣することを伝えています。彼は、もともと、ピリピ教会の信徒で、ピリピ教会の献金をたずさえてパウロの元に来ていました。しばらくパウロの下に滞在し、伝道活動を協力し、パウロの「兄弟、同労者、戦友」と呼ばれています。彼は謙遜な人で、自分の病気がピリピ教会に伝わったことで、心配をかけていることをたいへん気にしていました。

・神のあわれみの体現者
 彼は「死ぬほどの病気にかかりました」が、神のあわれみによって癒されるという体験をしました。それはパウロにとっては慰めの体験となっていました。彼は神のあわれみの生き証人となったのです。それはまたピリピの人々にとっては、喜びとなることを、パウロは確信していました。

福音のため生命を捨てる程の人
キリストの仕事のためにいのちの危険を冒して死ぬほどになった」とあります。福音宣教のために死を覚悟して奉仕したことを示しています。エパフロデトは、謙遜さといい、献身姿勢といい、すべてキリストの心構えをもった人であったのです。
 「尊敬を払いなさい」とありますが、このような人こそ教会を建て上げ、コイノニアに喜びと生命を注ぐ器だからです。現代の教会も、このような器によって建て上げられていくのです。

2017/1/22 ピリピ2:19~24 テモテのように



・テモテの派遣
 パウロはピリピ教会に弟子のテモテを派遣することを伝えています。テモテは、小アジアのルステラの出身で、父親はギリシャ人で異邦人でしたが、敬虔なユダヤ人の母と祖母によって育てられた人です。第2次伝道旅行の際、パウロが、仲間に加え、ピリピにも赴きました。

・テモテのように
 パウロは「テモテのように私と同じ心になって」と、テモテの働き人としての資質を称賛します。パウロはキリストの心を自分の心としていた使徒ですが、テモテもまたキリストの心を持っていたということです。そして、ピリピ教会のことを心から心配し、祈っていたのです。もちろん、ピリピ派遣も喜んで承諾していたのです。

・「キリストのことを求める
 また「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません」とあります。「キリスト・イエスのこと」とは、キリストが願っていること、キリストの栄光となることという意味です。それは何よりも、教会を建て上げるという形で現されます。この点でも、テモテは真にキリストの心を心として、キリストのことを切に求めていたのです。
 私たちは、パウロの時代から遠く離れ、民族的にも異なるのですが、やはりテモテのように使徒と「同じ心」「キリストの心」をもって仕えたいと願うのです。

2017/1/15 ピリピ2:14~18 世の光として



つぶやかず、疑わずに
 パウロは「つぶやかず、疑わずに」と命令します。旧約の神の民は、この隠れた悪で自らを滅ぼしました。新約の民は、同じ過ちを犯してはならないのです。むしろ困難なときこそ、神の救いを信じて、希望を持って前進することが大切です。

・ 傷のない神の子として
非難されるところのない純真なもの」とあります。世は神に敵対し、罪と汚れが蔓延している世界です。また「まがった邪悪な世代」です。すべてがにおいて、神の御心から離れ、歪んでしまっているのです。
 しかし、私たちがキリスト信仰者として召されたのは、世の有様と一線を画し、「傷のない神の子供」として生きるためです。

・世の光として
 また「彼らの間で世の光として輝くため」とあります。世の人は見えるものに依存しますが、それらは決して満足させることはありません。むしろ罪と汚れに染まり、絶望状態に陥ります。それはちょうど闇の様相です。しかし、神の民は、どのような闇の中でも、神の光に照らされて歩むように導かれています。ダニエル12:3にも次のようにあります。「大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」