・12箇条「肉体の復活」
12箇条信仰告白の最後は「肉体の復活」についてです。次のようにあります。「信者は主とともなる永遠の祝福と喜びによみがえり、不信者はさばきと永遠に意識する刑罰によみがえることを信じる。」
・肉体の復活
聖書では、キリストが肉体によって復活したように、信者も肉体の復活することを示します。ちょうどキリストは初穂であり、信仰者はそれと同じように復活すると言うことです。
また復活の体は、御霊に属する体です。それは生まれながらの生命に血肉の体があるように、御霊の生命にふさわしい「よりすぐれた体」栄光ある姿」でよみがえります。
・最後の審判と復活
肉体の復活は、最後の審判時に起こります。そのときに、信仰者は新しい体に復活して、「主とともなる永遠の祝福と喜びによみがえり」ます。それは救いの完成の時です。
しかし、キリストをしりぞけた者はその救いを獲得することなく、永遠の刑罰に陥って滅びます。
・信仰生活の励み
ですから、私たちは「心を引き締め、身を慎み、…ひたすら待ち望」(1ペテロ1:13)む姿勢を整えるべきです。それは地上のどのような時でも、キリストを信じる信仰を強め、救いの完成に向かって希望を持って生きることです。
2012/10/14 信仰告白「キリストの再臨」
・終末論とキリストの再臨
日本福音自由教会信仰告白第11条に次のようにあります。
「わたしたちの主イエス・キリストの御自身による千年王国前の、切迫した再臨を信じる。この「祝福に満ちた望み」は信者の個人的生活と信仰に重大な意義をもつものである。」
聖書の歴史観は、神による最初があって神による最後があるというものです。しかも「キリストによって」とあるのが特徴です。二千年前にキリストが地上に来られたことを初臨といい、終末における到来を再臨といいます。
・千年王国前の再臨
黙示録20章にキリストが再臨した後に、信仰者らがキリストともに千年の間、世界を支配するという啓示があります。信仰者は裁かれることなく、キリストのさらなる愛の中におかれると言うことです。
無千年王国説、千年王国後再臨説をとる教会もありますが、私たちは前千年王国説の立場に立ちます。
・切迫した再臨/祝福の望み
「目を覚ましていなさい」とあるように、聖書では切迫した再臨について啓示しています。私たちは聖書の歴史観、人生観にしっかりと立ち、「五人の賢い娘たち」のように忍耐深く待つという姿勢を保つべきです。この世の煩いや欲に捕らえられて、キリストの再臨を忘れ、信仰の灯火を消してはならないのです。
2012/8/12 信仰告白 教会について
・第八条・・・真の教会
「真の教会がイエス・キリストにある救いの信仰を通し、聖霊により新生し、そのかしらであるキリストの体に結合されているすべての人により構成されるものであることを信じる。」
真の教会とは、全世界全歴史に広がる一つのキリストの体であり、地の国と対峙する神の国のことです。その民は、神の一切の祝福を相続する者たちです。私たちは元来、地の国の者ですが、ただ「信仰を通し」、その民になります。
・第九条・・・地方教会会員
「真の教会の会員である者のみが地方教会会員資格をもつものであることを信じる。」
真の教会に属する者は、抽象的に存在するのではなく、具体的な目に見える地方教会を形成し、そこに属します。私たちの場合は真の教会に属する者として、具体的に桶川福音自由教会を形成し、そこに属しているのです。この地方教会も、また一つのキリストの体です。
具体的に地上におかれた教会には、多くの試練や苦難がありますが、その中で戦闘の教会として、キリストのために戦います。
・第十条・・・地方教会の自治
「イエス・キリストが教会の主であり、かしらであること、またすべての地方教会がキリストのもとに個々の業務を決定し、つかさどる権利をもつものであることを信じる。」
教会の主は、いかなる地上の権威でも、外部の権威でもありません。ただ目に見えないキリストです。会員一人一人が御言葉と祈りを通して示された御心と判断が、教会活動に反映されます。これが地方教会の自治であり、また自律(オートノミー)です。
ですから、私たちの教会では個々人がキリストにあって成長することが大切であり、また互いの自発性と献身が極めて大切であるということです。
真の教会とは、全世界全歴史に広がる一つのキリストの体であり、地の国と対峙する神の国のことです。その民は、神の一切の祝福を相続する者たちです。私たちは元来、地の国の者ですが、ただ「信仰を通し」、その民になります。
・第九条・・・地方教会会員
具体的に地上におかれた教会には、多くの試練や苦難がありますが、その中で戦闘の教会として、キリストのために戦います。
・第十条・・・地方教会の自治
2012/06/24 礼典について
・聖礼典
信仰告白第7条は礼典についてです。「水の洗礼および主の聖餐が現代の時代における教会により守らるべき礼典であることを信じる。しかしそれらは救いの手段としてみなされてはならない。」 日本福音自由教会では、礼典は水の洗礼と聖餐の2つです。これらは聖書において明記されている礼典です。礼典は主イエスの救いの恵みを見える形で示し、見えるみ言葉と言われます。それを信仰によって心の内側に受け取ります。
・水の洗礼
聖書では、実際に洗礼が施された場面が記されていますし、マタイ福音書28章では主イエスご自身の命令があります。 ローマ6章によると、信仰者はキリストと共に死んで一切の罪を聖められたこと、またキリストと共に生き返り新しい命を受けていることを示します。目に見える形では、牧師が水の洗礼を授けますが、霊的には主イエスご自身が授け、聖霊が受洗者の罪を洗い新生させます。
・主の聖餐
マタイ26章、Ⅰコリント11章などに聖餐式の記述があります。その主題はイエス・キリストの救いです。み言葉とともにパンとぶどう液が提供されます。パンはキリストの体、ぶどう液はキリストの血を象徴します。陪餐者は信じつつ食し、飲みます。それによって霊的なキリストの生命と血が内側に提供されます。これらはすべて、信仰によって霊的な食物となるのです。私たちにとってキリストこそ真の食物です。
信仰告白第7条は礼典についてです。「水の洗礼および主の聖餐が現代の時代における教会により守らるべき礼典であることを信じる。しかしそれらは救いの手段としてみなされてはならない。」 日本福音自由教会では、礼典は水の洗礼と聖餐の2つです。これらは聖書において明記されている礼典です。礼典は主イエスの救いの恵みを見える形で示し、見えるみ言葉と言われます。それを信仰によって心の内側に受け取ります。
・水の洗礼
聖書では、実際に洗礼が施された場面が記されていますし、マタイ福音書28章では主イエスご自身の命令があります。 ローマ6章によると、信仰者はキリストと共に死んで一切の罪を聖められたこと、またキリストと共に生き返り新しい命を受けていることを示します。目に見える形では、牧師が水の洗礼を授けますが、霊的には主イエスご自身が授け、聖霊が受洗者の罪を洗い新生させます。
・主の聖餐
マタイ26章、Ⅰコリント11章などに聖餐式の記述があります。その主題はイエス・キリストの救いです。み言葉とともにパンとぶどう液が提供されます。パンはキリストの体、ぶどう液はキリストの血を象徴します。陪餐者は信じつつ食し、飲みます。それによって霊的なキリストの生命と血が内側に提供されます。これらはすべて、信仰によって霊的な食物となるのです。私たちにとってキリストこそ真の食物です。
2012/4/15 信仰告白第6条 救いについて
・救いについて
信仰告白第6条は「救いについて」です。この背景には、次の二つのことがあります。つまり人間が罪人で神の怒りの下にあること、また罪と死の支配の中にあって悲惨な状態であるということです。
・キリストの血と復活が基盤
「キリストの血と復活が、救いの基盤」とあります。神の子キリストの血は無限の贖いの価値を持ちます。無限の高貴な方が、無限の苦しみの中で死んで流された血だからです。
さらにキリストの復活は、彼が死をのみ込む力を持ち、無限の生命の保有者であることを示します。
・信仰のみ
神が用意された救いの基盤に、私たちが預かることができるのは、神が定めた手段によります。それが信仰です。「御子を信じる者が…永遠の生命を持つ」とあるとおりです。 異教異端では、努力、めい想、悟り、難行苦行で救われることを説きますが、信仰のみが救われるための「狭い門」です。
・義認と新生/救い
キリストの贖いを通して、私たちの罪はキリストに、キリストの義
は私たちに転嫁されます。それによって私たちは神の怒りから逃れます。 またキリストの死と復活により、聖霊が私たちに与えられますが、聖霊は私たちを新生させ、罪と死の支配から生命の御霊の支配の中に入れます。私たちの生涯は、この原理によって、栄光の姿に変えられていくのです。これが救いです。
信仰告白第6条は「救いについて」です。この背景には、次の二つのことがあります。つまり人間が罪人で神の怒りの下にあること、また罪と死の支配の中にあって悲惨な状態であるということです。
・キリストの血と復活が基盤
「キリストの血と復活が、救いの基盤」とあります。神の子キリストの血は無限の贖いの価値を持ちます。無限の高貴な方が、無限の苦しみの中で死んで流された血だからです。
さらにキリストの復活は、彼が死をのみ込む力を持ち、無限の生命の保有者であることを示します。・信仰のみ
神が用意された救いの基盤に、私たちが預かることができるのは、神が定めた手段によります。それが信仰です。「御子を信じる者が…永遠の生命を持つ」とあるとおりです。 異教異端では、努力、めい想、悟り、難行苦行で救われることを説きますが、信仰のみが救われるための「狭い門」です。
・義認と新生/救いキリストの贖いを通して、私たちの罪はキリストに、キリストの義
は私たちに転嫁されます。それによって私たちは神の怒りから逃れます。 またキリストの死と復活により、聖霊が私たちに与えられますが、聖霊は私たちを新生させ、罪と死の支配から生命の御霊の支配の中に入れます。私たちの生涯は、この原理によって、栄光の姿に変えられていくのです。これが救いです。
2012/2/12 創世記1:26~27,3:6 神のかたち・人間
・神のかたちに創造
創世記1:27にあるとおり「人間は神のかたちにつくられ」ました。神のかたちとは人格を持つ存在と言うことです。人間は人格を持つことで、神と交わり、人間どうしてでも愛によって交わりを保つのです。 さらに神のかたちである人間は尊厳を持ち、そのことが道徳の根源となります。十戒にしるされている「殺してはならない・・・」はこの啓示によります。
・神に対して堕落して死んだ
「神のかたち」であることは、神の御言葉と霊によって保たれていました。ところがその断絶が生じます。神ではないものの言葉に惑わされて堕落するのです。 堕落の結果、罪と死が全人類に及びます。そして自分の力や知恵では立ち返ることができない状態になりました。 さらに堕落は深刻で根深く、「神のように」という傲慢、また神に対する反逆心が宿るようになります。
・新生による霊的生命(神のかたち)の回復
「聖霊による新生を通じてのみ救いと霊的生命を与えられる」とあります。つまりイエス・キリストを信じるときに、人は聖霊によって新生すると言うことです。この時に、人は再び神の言葉と霊的生命の中で神のかたちを回復することになります。むしろ神の子キリストに似たものとされるので、初めのかたち以上の回復となります。もはや罪も死も、新しい生命を破壊することはできません。
創世記1:27にあるとおり「人間は神のかたちにつくられ」ました。神のかたちとは人格を持つ存在と言うことです。人間は人格を持つことで、神と交わり、人間どうしてでも愛によって交わりを保つのです。 さらに神のかたちである人間は尊厳を持ち、そのことが道徳の根源となります。十戒にしるされている「殺してはならない・・・」はこの啓示によります。
・神に対して堕落して死んだ
「神のかたち」であることは、神の御言葉と霊によって保たれていました。ところがその断絶が生じます。神ではないものの言葉に惑わされて堕落するのです。 堕落の結果、罪と死が全人類に及びます。そして自分の力や知恵では立ち返ることができない状態になりました。 さらに堕落は深刻で根深く、「神のように」という傲慢、また神に対する反逆心が宿るようになります。
・新生による霊的生命(神のかたち)の回復
「聖霊による新生を通じてのみ救いと霊的生命を与えられる」とあります。つまりイエス・キリストを信じるときに、人は聖霊によって新生すると言うことです。この時に、人は再び神の言葉と霊的生命の中で神のかたちを回復することになります。むしろ神の子キリストに似たものとされるので、初めのかたち以上の回復となります。もはや罪も死も、新しい生命を破壊することはできません。
2011/12/11 ヨハネ14:16~18,16:14 聖霊について
・第4条…聖霊
「聖霊のみわざが主イエス・キリストに栄光を帰し、現在の時代においては人々に罪を認めさせ、信じる罪人を新生させ、敬虔な生活と奉仕のために信者に内住し、信者を導き、教え、力づけるものであることを信じる。」
聖霊は三位一体の神の第3格です。父と子キリストから流れ出た霊であると言われます。しかし蒸発などすることなく、百パーセント完全に流れ出た霊であって、父と子の神と同じように、神としてのご性質と能力を持っておられます。 また「もう一人の助け主」とあるように、単なる力というのではなく、明瞭な顔を持つ人格(ペルソナ)です。
・キリストに栄光を帰す
「御霊はわたしの栄光を現します」とあるように、御霊はキリストの人格と御業をそのまま現します。それ以上でもそれ以下でもありません。具体的にも、御言葉と霊として人々にご介入されることによってキリストの栄光が現し、その顔と心はキリストそのものです。
・今の時代において
厳密には、父は天にあり、子は二千年前に地上に来られただけで、今の時代には、直接に関わりません。すべて御霊を通して、私たちとともにあり、私たちを愛し、私たちの罪を裁き、私たちを救います。闇の時代にあっても、私たちは「孤児」ではありません。
具体的には、罪人を新生させ、信者に内住して、神殿とし、その祈りを聞き、日々の導きを与え、教会を形成します。
最後に、私たちが聖霊の恵みにあずかるためには、ただキリストを信じ、御霊の業を信じることです。
「聖霊のみわざが主イエス・キリストに栄光を帰し、現在の時代においては人々に罪を認めさせ、信じる罪人を新生させ、敬虔な生活と奉仕のために信者に内住し、信者を導き、教え、力づけるものであることを信じる。」
聖霊は三位一体の神の第3格です。父と子キリストから流れ出た霊であると言われます。しかし蒸発などすることなく、百パーセント完全に流れ出た霊であって、父と子の神と同じように、神としてのご性質と能力を持っておられます。 また「もう一人の助け主」とあるように、単なる力というのではなく、明瞭な顔を持つ人格(ペルソナ)です。
・キリストに栄光を帰す
「御霊はわたしの栄光を現します」とあるように、御霊はキリストの人格と御業をそのまま現します。それ以上でもそれ以下でもありません。具体的にも、御言葉と霊として人々にご介入されることによってキリストの栄光が現し、その顔と心はキリストそのものです。
・今の時代において
厳密には、父は天にあり、子は二千年前に地上に来られただけで、今の時代には、直接に関わりません。すべて御霊を通して、私たちとともにあり、私たちを愛し、私たちの罪を裁き、私たちを救います。闇の時代にあっても、私たちは「孤児」ではありません。
具体的には、罪人を新生させ、信者に内住して、神殿とし、その祈りを聞き、日々の導きを与え、教会を形成します。
最後に、私たちが聖霊の恵みにあずかるためには、ただキリストを信じ、御霊の業を信じることです。
2011/10/9 信仰箇条第3 イエス・キリスト
・信仰箇条
信仰箇条の学びを隔月にしていますが、これは信仰の一致と異端の誤りから教会とクリスチャンを守るために有益です。今回は第3条は「イエス・キリスト」についてです。
・イエス・キリストの人格
「真の神であり、真の人である」とあります。これを神学用語で二性一人格といいます。神と人とは1つの人格の中で一体となっているという意味です。
このことは聖書に基づきます。ヨハネ1:1,14またピリピ2:6~8、ヘブル1:3に記されています。このキリストの特異なご人格は神と人との仲介の働きをするために大切です。
・キリストの業
「聖書に示すとおり、十字架の上に私たちの罪の犠牲として死なれたことを信じる」「肉体を持って復活し・・・」
イエスの業の中心は十字架の贖罪と復活です。主は福音書においてご自分の使命を明示しておられます。「十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない」ルカ24:7。また他にも「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」ヨハネ1:29、「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」Ⅰテモテ2:6.との御言葉があります。
・異端を判別し、純粋な信仰を養う
私たちは、信仰告白によって様々な毒のような異端を見分けることができます。同時に、安心して純粋な信仰を養うことができるのです。
しかし最終的には自分の目で聖書に触れて確かめ、またキリストを味わうことがより大切です。
信仰箇条の学びを隔月にしていますが、これは信仰の一致と異端の誤りから教会とクリスチャンを守るために有益です。今回は第3条は「イエス・キリスト」についてです。
・イエス・キリストの人格
「真の神であり、真の人である」とあります。これを神学用語で二性一人格といいます。神と人とは1つの人格の中で一体となっているという意味です。
このことは聖書に基づきます。ヨハネ1:1,14またピリピ2:6~8、ヘブル1:3に記されています。このキリストの特異なご人格は神と人との仲介の働きをするために大切です。
・キリストの業
「聖書に示すとおり、十字架の上に私たちの罪の犠牲として死なれたことを信じる」「肉体を持って復活し・・・」
イエスの業の中心は十字架の贖罪と復活です。主は福音書においてご自分の使命を明示しておられます。「十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない」ルカ24:7。また他にも「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」ヨハネ1:29、「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」Ⅰテモテ2:6.との御言葉があります。
・異端を判別し、純粋な信仰を養う
私たちは、信仰告白によって様々な毒のような異端を見分けることができます。同時に、安心して純粋な信仰を養うことができるのです。
しかし最終的には自分の目で聖書に触れて確かめ、またキリストを味わうことがより大切です。
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