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2011/11/13 マルコ6:45~52 湖で

イエスさまは弟子たちを舟に
乗り込ませて、先に向こう岸に行かせようとされました。ご自分は「山のほうに、祈るために向かっていきました。」
ところが、弟子たちの舟は真夜中になっても、やっと湖の真ん中でした。しかも向かい風がだんだん強くなってきていたのです。

 その時、だれかが舟の方に近づいてくるような気配がしました。それは風や波とは違って、何か動くものの気配で、どんどん、舟に近づいてきます。
 弟子たちは、幽霊だと思い、慌てふためき叫び声を上げました。


 それはイエスさまでした。歩いて湖をわたってこられたのです。イエスさまは「しっかりしなさい、私だ、恐れることはない」とおっしゃいました。その言葉で、弟子たちの心に平安がもどりました。それからイエスさまが舟にのりこむと、風がやみました。
 
 私たちは、ちょっとした事でも恐れてしまう弱虫です。本当は強い人はだれもいないのです。神の子イエスさまの「恐れることはない」という言葉で、人の心は湖のように、落ち着きをとりもどすのです。

2010/11/14 ヨハネ15:13 アホチュウ物語


少し昔のことです。関西のある町にアホチュウさんという少年がおりました。アホチュウというのは名前ではなくあだ名でした。町のみんなが「アホチュウ、アホチュウ」と呼んでいました。アホチュウさんはといえば、そのあだ名があまり好きではありませんでした。それでよく一人で町をぶらぶらしていました。

 アホチュウさんの町には、1つのふみきり踏切がありました。それは「開かずの踏切」でした。ある時に、アホチュウさんが「開かずの踏切で」留められているときに、町の牧師さんが近づいてきて神の救いを伝えました。
 アホチュウさんは自分の心が汚いと思っていたので、すなおにイエス様の救いを信じました。信じたアホチュウさんに、牧師さんはみことばをあげました。「人がその友のためいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれもっていません。」
それから数年が過ぎました。アホチュウさんは船乗りになっていました。ある時に、船は嵐にあい、船底を岩にぶつけて穴があいてしまいました。水がどんどん入り込んできます。

 それを見たアホチュウさんは、とっさに穴をふさごうとしました。その間に、他の船員達は船の上に逃げることができたのです。船はだいぶ傾きましたが、何とか沈没せず、無事に港に着いたのでした。





2010/5/30 1ヨハネ5:14 お母さんの祈りは聞かれた


■神に対する確信としての祈り
 私たちは神を信じています。その具体的な姿は「神はその願いを聞いてくださる」という確信に基づいた信仰生活によって現されます。次に祈りの確信によって歩んだ人の証を紹介します。
 **** ***
Nさんは12才の長女、9才と8才の男の子を持つお母さんでした。よく証し祈る方でした。男の子が買い物の帰り道に50円玉を落としたことがありました。Nさんはその子とともに祈り、暗くなるまで探し続けてついに見つけたことがありました。

■それから数年後、Nさんは顎下に悪性黒色腫の癌ができました。それが他の部分にも転移して闘病生活が始まります。初めて入院したときに、「これから神によって派遣されて伝道旅行に行く」という思いが与えられていました。そのように入院生活の間に同室の人々など16人の魂が救いに導かれました。

■しかしこの間、Nさんの気がかりは子供たちのことでした。特に長女のムちゃんのことでした。ムちゃんは自分がお母さんのようになって弟たちの面倒を見ないといけないと思い。気負いとプレッシャーでかえって家事が嫌いになり、皆と衝突するばかりだったからです。お母さんは祈りました。

■2年半の闘病後、お母さんは息を引き取りました。ムちゃんは「お母さんは天国に行ったのだ」と確信してはいても、お母さんの病気の苦しみや自分の身勝手さを思いおこしては心の傷になっていました。

■けれども数年後、お母さんと同じようにして祈りながら過去を振り返ったとき、お母さんのすべての祈りは今も働き、その通りに聞かれているのだと気がつきました。多くの人が救われたこともそうですが、その他に、兄弟が仲良くなり、さらにムちゃんもが家事が大好きになっていることなどもです。

2010/5/23 Ⅱ列王記5:1~14 ナアマン将軍のきよめ 

・ナアマン将軍
 本日の箇所は、BC800年頃の物語です。当時、旧約の民は北イスラエル王国と南ユダ王国に分断していました。ナアマン将軍はさらに北アラム王国の軍人です。
 彼は英雄でしたが、らい病にかかっていました。当時は誰も癒すことができず、ただ預言者のみが癒すことができるという話を聞いて、北イスラエルに出かけます。

・ナアマン将軍の誤り
 彼が預言者エリシャのもとに行ったときに、預言者は使いを通して「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい・・・。」と語りました。ところがナアマン将軍は、由々しい病気は、自分自身の多くの代価と努力、癒す者の誠意と目に見える手段を尽くさなければならないという先入観とプライドがありました。そこで「怒って帰途に」つこうとしました。

・ナアマン将軍のきよめ
 ところが部下たちのことばによって思い直し、ただ「神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した」のです。「すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった」のです。 聖めと救いは、人間の努力や功績によるのではなく、ただ神のみことばを信じ、従うことでなされるのです。

・キリストにあるバプテスマ
 私たちのバプテスマも、全く同じです。キリストのみことばを信じ、みことばに従って水に浸ることで、きよめと救いは与えられ、同時に、生涯にわたる証印になるのです。

2010/1/24 「子どものように」が条件 マルコ10:13~16


・「子どもたちをわたしのところに」
 人々がイエスの元に子どもたちを連れてきたときに、弟子たちは彼らをしかりました。弟子たちの考えでは、子どもたちのような社会的にも、能力的にも取るに足らない者は、王であるイエスのもとに来る資格がないと考えたのです。
 しかし主イエスは弟子たちの態度に対して憤っていわれました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。」と。

・神の国は地上の国と異なる
 地上の国では、どこに加入するにも人間の力、資格、能力、財産、経験などが求められます。それらは自分を高ぶらせますが、神を崇めることはないのです。
 しかし神の国では、あらゆる面で地上の国の原理とは全く異なります。神の国は、主イエスと御業によってもたらされ、神と恵みが支配します。そこではかえって、人間の力、能力、経験、功績などは、邪魔で妨げになります。むしろ子どもたちのように、自分の無力を前提に、恵みを信じてただ受け取る姿勢が大切になります。

・神の国は「子どものように」が条件
 「子どものように神の国を受け入れるのでなければ、決してそこに、はいることはできません」
 神の国に入るには「子どものように」が条件になります。それは自分の功績、経験、能力は、除外すること。むしろ自分の前に提供されているイエスと御言葉を、恵みのプレゼントであるとして、受け入れると言うことです。神の国の「みことばはあなたのちかくにある」(ローマ10:8)からです。

2010/1/17 夫婦のきずな マルコ10:1~12


・頑なな時代の夫婦関係
 モーセ律法の時代は、人々の心が頑ななために、仮の夫婦の規定が定められていました。その1つが離別についてです。申命記24:1にあるように妻に落ち度があったときに離婚状を書いて離別することが許されていたのです。
 また妻は夫の所有物のように取り扱われる面がありました。そこでは夫婦本来の人格関係は見失われます。

・夫婦のきずなの回復
 主イエスはパリサイ人らの質問に答えて、新しい夫婦のきずなについて語ります。それは創造の秩序の回復であるとともに、愛に基づく新しい夫婦関係です。
 神は人を、男と女とに創造されました。両者は性の違いがありますが、互いが神の形と尊厳を持ち、人格的に対等な存在です。夫婦としての男と女も同様です。夫婦の場合は何よりも深い人格的きずなで結ばれるものとして出会わされるのです。「一心同体」と言う言葉は、そのことを示します。

・新しい夫婦のきずな
 夫婦の創造の形は、主イエスを通して新しい生命と愛が注入されます。主イエスは十字架の死を通して神と人との愛のきずなを回復されました。この愛=アガペーをまずは、夫婦の間で育まれます。
 生来の人には、エロスとフィリアの愛があります。どちらも自己中心的な愛で、自分がよしと思うときだけ好意を持つ愛です。しかしアガペーの愛はそれらの超えた愛です。
 夫と妻はすべてにおいて違う人間です。そこで対立や葛藤が生じることもあります。その違いもアガペーの愛を育てる契機となるのです。

2010/1/10 イザヤ42:1~3 理想の人


・理想の人
 現代は価値観を見失い、同時に理想の人間像を喪失した時代です。聖書は神が求める「理想の人間像」を提供しますが、イザヤ書42章の「しもべ像」もその1つです。「しもべ」はメシヤ(キリスト)御自身ですが、また彼を信じて「神の子とされた人々」に対して神が求めておられる人間像です。

・自己中心を否定
 42章前半で、イザヤは「しもべ」について、7つの否定形を用いています。それは人間的な荒々しさや、虚栄、気ままさ、自己中心などの否定を意味しています。肉的な態度の徹底的否定を通して、神の「しもべ」像を浮き出させているのです。
・優しさ
 この中で注目されるのは「彼はいたんだ葦を折ることもなく・・・」という姿です。痛んだ葦は少しの刺激で完全に折れてしまいます。「くすぶる燈心」は少しの粗雑さで消えてしまいます。人間はみな痛んでおり、弱さを持ちます。しかし彼は人間の弱さを知り、限りない優しさを持つ方なので、さらに痛めることなく生命を新生させるのです。

・忍耐
 「彼は衰えず、くじけない。」時代の中で神の御心を遂行しようとするときには、色々な困難が伴います。そこで衰えそうでも衰えず、くじけそうでもくじけない忍耐力としぶとさが必要なります。それはただ神に信頼し切る信仰心から生まれます

2010/1/3 主を待ち望む イザヤ40:27~31


・現実とつぶやき
 「なぜ言うのか・・」とイザヤは人々のつぶやきを指摘しています。人々は目先の現実ばかり見て困難を覚え、つぶやいていたのです。
 私たちもただ目先の現実だけにとらわれていたら、いつの間にか、自分の心は呟きと不安と不信仰の巣と化してしまいます。

・永遠の神を見上げる
 「あなたは知らないのか・・・主は永遠の神」。信仰者が忘れてはならないことは、神の言葉を聞き、神に教えられ、神を見上げると言うことです。その時に肉眼で見て早合点した現実とは異なる世界が見えてきます。神は永遠の神であり、人間の思いと力を遙かにこえた方です。
 御自身が永遠であるだけではなく、神の民にその力と生命を与えようとしておられる方なのです。それは神が民にとって恵み(ヘセド)の神であると言うことです。「疲れた者には力を与え」るのです。

・主を待ち望む
 神の恵み(ヘセド)に対して、私たちはどのような誠実(ヘセド)を示したらいいのでしょうか。それはただ「主を待ち望む」という信仰姿勢のみです。主を信じ続けると言うことです。色々な困難がやってきますが、その中で信じ続けることで信仰は鍛えられていきます。

・鷲のように翼をかって
 イザヤは主を待ち望む者がどのような恵みと生命を受けるかについて見事なイメージを提供します。それは空飛ぶ鷲です。鷲の羽は傷ついたときなど自然と抜け落ちます。完全に回復するまでに数ヶ月かかりますが、その間、じっと待ち続けるのです。回復した羽は、以前よりもつやがあり、力ある羽となります。丁度その鷲のように、主を待ち望む者は恵みの気流を一杯に受け上昇するのです。

09/12/20 マリヤの讃歌 ルカ1:46~55

・マリヤの讃歌
 マリヤの讃歌は魂と霊の賛美です。人は表面的に喜ぶことがあっても、魂と霊という奥底から賛美、喜び讃えると言うことはありません。マリヤが霊から賛美するのは、マリヤが受けた恵みの本質は霊的だからです。霊的な賛美は深く、永続し、すべての時代に、すべての世界に響き渡ります。

・卑しいはしために目を留め
 マリヤの賛美は、神が「卑しいはしために目を留めてくださった」という信仰から起こっています。
 神は崇高者で人間から隔絶した方です。その方が、「卑しい」自分に目を留めて奇跡をなしてくださったのです。「目を留める」とは好意を持ち、選び、深い契約関係に入ることを意味します。この神との個人的な体験についての確信が彼女をして賛美に向かわせています。

・力ある方が大きなことを
 神は無から有を創造した天地創造の神です。すべて良き業であり、恵みの業です。その一切の力を自分の内で働かされたのです。「大きなこと」とは神の子キリストを自分の胎に宿すと言うことでした。さらに彼を通して救いを万人に与えると言うことも含まれています。

・神のあわれみ
 マリヤは自分の神体験を「あわれみ」という言葉で表現しています。値しない者が受ける好意であり、救いです。律法の下では神は厳しさと怒りの姿がありました。しかし神の子による救いは一切が「あわれみ」です。マリヤは「神のあわれみ」を受けたのです。かつてはアブラハムとその子孫にしめされ、やがて未来の人々に及んでいくのです。

09/12/06 マルコ9:43~50 躓きをさける


・躓きをさける
 主イエスは「小さい者たちのひとりにでもつまずきを与え」ないようにさとします。小さい者とは子どもや弱者、あるいは社会的に見下されがちな人々のことです。その人々もまた、神によって覚えられており、かけがいのないのです。教会の中では、くれぐれも小さい魂さえ躓かせることがないように、注意を払う必要があります。

・躓きを取り除く
 「もしあなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨て・・・。」
 主イエスは強烈な言葉で、つまずきを除去するように畳みかけます。つまずきは相手の滅びとなるだけではなく、自分の滅びとなります。身体の場合でも手や足に重い疾患を持つ場合に、切断して生命全体を救う処置がなされます。ちょうどそのように罪とつまずきを与える習慣は他人と自分の致命傷となるのです。

・キリストの心 
躓かないように配慮する心はキリストの心です。「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」とあるように神であり、王である方が、小さな者たちのために細心を払われたのです。
 私たちはキリストによって自由で権利を持つ者ですが、キリスト者の自由と権利は人に仕え、建て上げるためのもので、その心がけの中で多くを獲得することになるのです。つまり小さな者の生命が育まれ、自らもまた育まれるのです。

09/11/29 水一杯の好意にも マルコ9:38~41


・反対しないものは味方
 弟子たちは自分たちの仲間でないものがイエスの名を用いて奇跡を行おうとしているのを見て、やめさせようとしました。しかし主イエスは、「わたしたちに反対しないものは、わたしたちの味方です」と語られました。
 「キリストの名」は溢れるほどの恵みと力を持ち、私たちの仲間でない者たちの中でも、それ自体でキリストの働きをなしていくのです。

・水一杯の好意にも
 「キリストの名」「キリストの弟子」「キリストの教え」、何でもキリストを反映しているものは、キリストの祝福を担っています。そこにはキリストの香りがあり、キリストの恵みが流れ出るのです。「水一杯を飲ませ」ると言うことで、弟子たちに対して好意を示す人は、なおさらです。その人は、「決して報いを失うことはありません。」

・溢れるキリストの恵みと救い
 私たちはキリストの教えと教会を守ろうとするあまり、自分自身を狭めてしまう場合があります。確かに、純粋な福音と教会の交わりは保たれなければなりません。しかし「キリストの名」に対する大胆な楽観も必要です。私たちの思いを超えて、神は「キリストの名」を用いて、恵みと救いを前進させる方なのです。

***説教で引用した詩/「ひびいてゆこう」八木重吉作*****
  おおぞらを
  びんびんと
   ひびいてゆこう

09/11/22 幼子を受け入れる心 マルコ9:32~37

・だれが一番偉いか
 主イエスが十字架の死を目前としていたときに、弟子たちは「だれが一番偉いか」について論じ合っていました。彼らはイエスを地上の王のようにみなし、自分たちの誰がその大臣の地位につくかの論争でした。確かに責任ある地位につくことは大切ですが、地上においては「だれが一番偉いか」と争いをおこし、高慢と妬みが渦巻く状態になります。

・先に立ちたい者は、しんがりに
 主イエスは弟子たちの交わり、つまり教会では、地上とは全く異なる原理を持つべきことを示します。
 「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなしんがりとなり・・・」
 集団の中で先に立つ人材は必要です。しかしその人は他を支配するのでも、称賛されるのでも、利得のためでもありません。むしろ「しんがり」となって他に譲る姿勢、仕えるが重要になります。

・幼子を受け入れる心
 主イエスは「子どもを・・・彼らの真中に」して、弟子たちに例示します。普段は目に見える形では、子どもは真中におりませんが、教会の中心は「幼子」です。小さく無力な存在ですが、彼らが尊ばれ、守られていくところに教会の本質があるのです。
  世は弱肉強食の原理がまかり通る社会です。教会が「幼子を受け入れる」場として機能するときに、キリストの臨在と香りが際だちます。そのようにして世に対して証となるのです。
 「幼子・・・わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。」

***説教中で引用した「モモ」冒頭の詩(アイルランドの子どもの歌より)
 やみにきらめくおまえの光、
 どこからくるのか、わたしは知らない
 近いとも見え、とおいとも見える、
 おまえの名をわたしは知らない。
 たとえおまえがなんであれ、
 ひかれ、ひかれ、小さな星よ!

09/11/15 信じる者には マルコ9:14~29



・弟子たちの現実
 主イエスたちが帰ってきてみると、大勢の群衆がおり弟子たちは律法学者たちとイエスの権威について論争していました。彼らは病人から悪霊を追い出すことができなかったために皆の非難の的となっていたのです。これは世における弟子たちの現実です。

・不信仰な世
「ああ、不信仰な世だ。」主イエスは人々の不信仰を強く嘆きます。ちょうど、出エジプト記でモーセが山から下りてきたときに、人々が偶像礼拝をしていた情景を思いおこします。主イエスもまた、神の前に不信仰をさらけ出している人々に対して激して怒り、嘆いているのです。
 「いつまであなたがたにがまんしていなければ・・・」この言葉も主イエスの嘆きです。主は弟子たちと群衆の中に信仰が育つことを切望していました。その主イエスの心の内がハッキリと示されています。

・信じる者には
 主イエスは病人の父親に子供の状態を尋ねます。人の痛み苦しみを聞いて受け止める愛の姿が現れています。しかし父親の不信仰な言葉には再び叱責します。
 「できるものなら、というのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
 実に明快な言葉です。主イエスが切望していたのは、信仰でした。主イエス御自身は栄光の姿を持ち、愛に満ちた神です。その力と権威を導き出すのは、私たちの側の信仰のみです。

・現実の中で信仰を働かせる
 私たちを取り巻いている現実も、人間の力ではどうしようもない悪と悲惨の世界です。この現実を乗り越えるためには是非とも、主イエスの力と権威が必要なのですが、それは私たちの信仰によります。主イエスは「祈り」の必要に触れていますが、私たちも祈りを通して私たちの信仰を強めましょう。

09/11/8 ラザロと金持ち/ペロペロワンちゃんルカ16:19~31


 次をクリックして下さい。スライドになります。
ペロペロワンちゃん
・貧ぼう人ラザロ
 ワンちゃんは、おできだらけの貧ぼう人ラザロの所にきては、おできをペロペロとしてあげました。
 ラザロさんは貧ぼう人だけれども、やさしい心の人で神に愛されている人した。でもラザロさんはいつもおなかがペコペコで金持ちの家の食じの残ぱんでも食べたいと思っていました。 

・ケチでぜいたくな金持ち
 金持ちはぜいたくな生活をしており、高価な着物をきて、食べ物、飲み物もごうかで、毎日を遊びくらしていました。
 そしてケチで誰にも何もあげず、特に貧乏人にはそうで、また軽べつしていました。

・死後の世界の逆てん
 ラザロは死んで、天国のアブラハムの所に

行きました。彼はアブラハムにたいへん愛され、慰めを受けました。金持ちも死にましたが、彼はハデス(じごく)に落とされ、裁きの火で苦しみました。
 彼はアブラハムに助けを求めましたが、アブラハムは言いました。「おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていた。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」「それに大きな淵あるので・・・助けることはできない。」

・5人の兄弟の救いは?
 じごくの金持ちは、何も知らない5人のケチな兄弟の救いを求めました。しかしアブラハムは次のように答えました。
 「もし、モーセと預言者(聖書)の教えに耳をかたむけないなら、たとい、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」。

09/11/01 マルコ9:1~8 変貌の山


・変貌の山・・・顕現
主イエスは3人の弟子たちを連れて高い山に登り、そこで栄光の姿に変わリました。衣が白く輝いたのはイエスが神の子キリストであり、天の栄光を持つ方であることを示しています。主イエスは下僕として地上の生涯を過しますが、本質は神と同質の栄光を持つ方なのです。

・モーセとエリヤ
山では、モーセとエリヤが現われてイエスと話していました。ニ人とも旧約聖書を代表する入物で、旧約の一切の預言が神の子キリストを指し示し、さらに「イエスこそキリストである」ことを証ししているのです。
この光景は肉眼で見えたことであると同時に聖霊が弟子たちの心を照して明らかにされたのです。私たちの場合も、旧約聖書を読んでそこにキリスト預言を見いだしてイエスと認めるとき聖霊もまた恐れと感動により証しします。

・神の声
さらにイエスを証しするものがあります。それは神の声です。「これは、わたしの愛する子...彼の言うことを聞きなさい。」これは明暸に「イエスが神の子キリスト」であることを証言しています。弟子たちもよく覚えており、ペテロもその手紙(Ⅱペテロ1:17)で触れています。イエス以上に神について、救いについて、裁きについて啓示する方はありません。

・栄光のイエスを覚える
この顕現は、弟子たちが試練の中でも栄光のイエスを覚えさせるためでした。やがてイエスは十字架につけられますが、弟子たちは、復活の姿に出会うこと共に、この栄光のイエスを想起して、聖霊によって強められたのです。
 このことは、同じ試練の中におかれている私たちの場合も全く同じです。イエスが神の子であることを心に刻むことにより、聖霊はその栄光を顕わにします。(Ⅰペテロ4:14)

09/10/11 自分の十字架を負う マルコ8:31~38


・人の子の苦難と復活
 信仰告白した弟子たちに対して、主イエスは「人の子の苦難」について示されます。「人の子」とはキリストのことで、贖い主であり、真の人の姿を示します。
 キリストは予知したとおりの生涯を歩みます。ユダヤの指導者たちによって、憎まれ、捨てられ、十字架上で殺されます。彼の地上の生涯は、世の流れによって完全に否定され、抹殺されたのでした。
 しかし苦難の中で、信仰と従順を貫くことは、神の生命が注がれる契機となります。「三日の後によみがえられなければ」とはそのことです。このようにして、主イエスは真の人が辿るべき生命の法則を示します。

・下がれサタン
 しかしペテロは「イエスを・・・いさめ始めた」とあります。彼は信仰告白後も、キリストと御業について不鮮明で、世の人生観に支配されていました。世の人生観にとらわれる者は、神の御心よりも人間的願望を大切にしてしまうのです。  
 「下がれ。サタン。」と主イエスはペテロを厳しく叱責します。弟子である者が、心に銘記すべきことだからです。人間的分別と優しさのようでありながら、その心はサタンの下にあり、神に敵対する者となっているです。

・自分の十字架を負う・・・生命の原則
 「自分を捨て、自分の十字架を負い」と主イエスは語ります。主イエスの地上の生涯は贖いのための生涯であると同時に、信仰者の生き方の模範となるためでした。世の流れに抗してのみ、イエスの道を歩むことが可能となるのです。誤りの否認によってのみ正しさが貫かれます。
 また神が祝福する生命とは世と人間の虚偽の中には生じません。十字架の法則に歩む者だけが復活の生命を得るのです。また同時に、歴史の真髄も十字架の法則に従った人々によってうち立てられているです。

09/10/4 あなたはキリスト マルコ8:27~30


・心頑(かたく)なの中で
 マルコ福音書の背景には、人々の心の頑なさがあります。「目がありながら見えず、耳がありながら聞こえない」と主イエスが語られるとおりです。主イエスの願いは心の目と耳が開かれることです。聾唖者の耳と盲人の目の開くという奇跡の背後に、弟子たちの心を開こうとする願いが込められているのです。
 
・あなたはわたしを誰と
 「では、あなたがたはわたしをだれだと言いますか」。主イエスは一般論ではなく、「あなたはわたしを」と主体的な信仰を求めます。私たちはいろいろな「あなたと私」の関係を持っていますが、その中心は神との関係です。この中心の関係が正しいときに、私たちの目は開かれてすべての領域においてもよき関わりを持つことができるようになります。
 主イエスとの関係は神の領域における関係です。私たちが主イエスを正しく告白できる時に、私たちの目が開かれ、生活のすべての領域に光が差してくるのです。

・あなたはキリスト
 「あなたは、キリストです」とペテロは信仰告白します。この告白の背後に神の霊の働きがあります。神によってのみ人は心の目が開かれるからです。キリストとは「油注がれた者」という意味で旧約の王、大祭司、預言者のすべてにまさる神の子を意味します。「わたし」は彼を通してのみ、一切から救われ、一切の罪をきよめられ、神の一切を知ることができます。

・さらに明瞭にキリストを刻む
 ペテロの信仰告白はマルコ福音書の分岐点となり、これから後半の十字架と復活の場面に進みます。それに従って、ペテロと弟子たちのキリスト信仰も正され、深められていきます。
 これは私たちの場合も同じです。つまり私たちにとっても信仰告白が一つの目標であり、さらにこれを基点としてキリストの姿をさらに明瞭に、正しく心に刻んでいく信仰生活が始まるのです。

09/09/27 開け エパタ マルコ7:31~37


・耳と口が閉ざされた者
 主イエスがデカポリス地方に行かれたときに「耳が聞こえず、口がきけない人」が連れてこられました。「耳が聞こえない」と言うことは、外界の音と言葉から閉ざされていることであり、「口がきけない」ことは、自分の言葉を外に伝えることができないと言うことです。全く、世界から閉ざされた世界に放置され、隔絶されていることです。

・その人だけを連れ出して
 主イエスは「その人だけを連れ出して」、深いお取り扱いをします。一人だけ取り出されることは、神との関係を深め、救いを深めるために大切な手順です。
 「両耳に指を差し入れ」「唾をして、その人の舌にさわられた」と閉ざされた部分に深く関わって下さいます。耳と口が開かれるためには、イエスに深く関わっていただかなければならないのです。イエスは汚れもいとわず、その人を徹底的に愛して御業をなすのです。

・開け/エパタ
 「深く嘆息し」「『エパタ』と言われた」。嘆息とは「うめき」とも訳されます。エパタは「開け」という意味です。ヘブル語の「パタ」の命令形です。イエスの言葉に不思議な響きがあったので、言語のまま紹介されています。イエスが「開かれる」ことを心から願って叫ばれたことが分かります。
 さらにこの奇跡はイザヤ35:5の預言の成就となっています。ただ肉の耳だけでなく、心の耳、口もイエスの臨在と恵みに「開かれ」るべきことが示されています。

・イエスの愛に開け/エパタ
 私たちの心の耳と口も閉ざされがちです。主イエスが私たち一人一人をも「連れだし」、親密に関わって臨在と恵みを知らせようとしていることに霊の耳を開き、口によって証する者となりましょう。

09/09/20 主の聖徒たちの死は尊い  詩116:15


・主の聖徒たち
 「聖徒」とは「ヘセドの民」という意味です。神の恵み、誠実、愛の約束を心から信じ、自分でも神を愛して生きる人々のことです。旧新約の信仰者たちは、皆、この信仰姿勢を持っていました。
 「私は主を愛する。主は・・・私の願いを聞いて下さる」とは聖徒たちの基本的な告白です。聖徒たちはその通りに生涯、主の恵みと愛を体験してきました。たとい絶体絶命の時でも、主が救って下さり、魂を救い、悲しみを取り除き、実際の問題も見事に解決して下さったことを体験しています。

・主の聖徒たちの死は尊い
 「聖徒たちの死は主の目に尊い」とあります。聖徒たちも地上の生涯を終えることがあり、その際には、本人も周囲の人々も、主イエスをいよいよ信じて、告白して、死の間際まで切なる願いをします。
 その死は、肉の目には空しく見えますが、主は「尊い」とご覧になります。それも主の恵みと愛の所以です。地上の生涯に恵みを与えられた方は、死という危機に際してこそ、完全なる恵みと愛の眼差しを「聖徒の死」に向けられるのです。地上の死を迎えた「聖徒たち」は主の目には何よりも尊い宝石のように輝いて映っているのです。

・私たちの「聖徒たち」
 私たちの「聖徒たち」も地上の生涯において主の恵みを信じ、また自分でも誠意を持って従っていました。死の間際まで、信仰を貫き、しかも切に祈りと願いを捧げたのです。
 主は、その祈りを忘れておられません。むしろ「尊い」とご覧になり、永遠に心に刻んでおられます。そして来るべき日に、新しいからだに復活させるのです。復活の体もまた、イエスに似た「尊い」ものとなるのです。