09/11/22 幼子を受け入れる心 マルコ9:32~37

・だれが一番偉いか
 主イエスが十字架の死を目前としていたときに、弟子たちは「だれが一番偉いか」について論じ合っていました。彼らはイエスを地上の王のようにみなし、自分たちの誰がその大臣の地位につくかの論争でした。確かに責任ある地位につくことは大切ですが、地上においては「だれが一番偉いか」と争いをおこし、高慢と妬みが渦巻く状態になります。

・先に立ちたい者は、しんがりに
 主イエスは弟子たちの交わり、つまり教会では、地上とは全く異なる原理を持つべきことを示します。
 「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなしんがりとなり・・・」
 集団の中で先に立つ人材は必要です。しかしその人は他を支配するのでも、称賛されるのでも、利得のためでもありません。むしろ「しんがり」となって他に譲る姿勢、仕えるが重要になります。

・幼子を受け入れる心
 主イエスは「子どもを・・・彼らの真中に」して、弟子たちに例示します。普段は目に見える形では、子どもは真中におりませんが、教会の中心は「幼子」です。小さく無力な存在ですが、彼らが尊ばれ、守られていくところに教会の本質があるのです。
  世は弱肉強食の原理がまかり通る社会です。教会が「幼子を受け入れる」場として機能するときに、キリストの臨在と香りが際だちます。そのようにして世に対して証となるのです。
 「幼子・・・わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。」

***説教中で引用した「モモ」冒頭の詩(アイルランドの子どもの歌より)
 やみにきらめくおまえの光、
 どこからくるのか、わたしは知らない
 近いとも見え、とおいとも見える、
 おまえの名をわたしは知らない。
 たとえおまえがなんであれ、
 ひかれ、ひかれ、小さな星よ!

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