・だれが一番偉いか
主イエスが十字架の死を目前としていたときに、弟子たちは「だれが一番偉いか」について論じ合っていました。彼らはイエスを地上の王のようにみなし、自分たちの誰がその大臣の地位につくかの論争でした。確かに責任ある地位につくことは大切ですが、地上においては「だれが一番偉いか」と争いをおこし、高慢と妬みが渦巻く状態になります。
・先に立ちたい者は、しんがりに
主イエスは弟子たちの交わり、つまり教会では、地上とは全く異なる原理を持つべきことを示します。
「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなしんがりとなり・・・」
集団の中で先に立つ人材は必要です。しかしその人は他を支配するのでも、称賛されるのでも、利得のためでもありません。むしろ「しんがり」となって他に譲る姿勢、仕えるが重要になります。
・幼子を受け入れる心
主イエスは「子どもを・・・彼らの真中に」して、弟子たちに例示します。普段は目に見える形では、子どもは真中におりませんが、教会の中心は「幼子」です。小さく無力な存在ですが、彼らが尊ばれ、守られていくところに教会の本質があるのです。
世は弱肉強食の原理がまかり通る社会です。教会が「幼子を受け入れる」場として機能するときに、キリストの臨在と香りが際だちます。そのようにして世に対して証となるのです。
「幼子・・・わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。」
***説教中で引用した「モモ」冒頭の詩(アイルランドの子どもの歌より)
やみにきらめくおまえの光、
どこからくるのか、わたしは知らない
近いとも見え、とおいとも見える、
おまえの名をわたしは知らない。
たとえおまえがなんであれ、
ひかれ、ひかれ、小さな星よ!
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