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2016/1/3 ローマ5:3~5 患難と希望



・患難さえ喜ぶ
 私たちが地上に生きる限り患難があります。それはどうにかして避けたいことですが、使徒は「患難さえも喜ぶ」と言明します。その理由は、人は、患難を通してこそ、成長することができるからです。スポーツの場合でも厳しい練習があって初めて、はじめて能力が培われます。

・忍耐と練られた品性
 「患難が忍耐を生み出し忍耐が練られた品性を生み出し」とあります。忍耐という徳は、安楽、安逸の中では生まれることはありません。患難の中で培われます。しかも忍耐は、人格の基盤となります。
 練られた品性とは、よく鍛えられた性格と言うことです。よい品質の金や銀は、精錬を通して出なければ獲得することはできません。
・希望
 「練られた品性が希望を生み出」とあります。「希望」は世においても望まれる品性ですが、その場合、目に見える好条件がなければ生み出すことができません。しかし、キリスト者は、目先のことではなく、目に見えない全知全能の神を信じる信仰によって、無から有となるという絶対的希望を持つのです。

・終わり
 現代は、能力と技術が重んじられる反面、人格の成長について軽視しがちです。またその形成基盤を見失っています。私たちはキリストという基盤を持っているので、彼を通して、どのような時にも、神の子としての忍耐、品性、希望という徳を養いましょう。

2012/7/1 ローマ16:17~27 サタンを踏み砕く

・学んだ教え
  最後に、使徒は「学んだ教え」から離れないように、強く勧告します。それはイエス・キリストの福音です。神が預言者たちに啓示し、イエスご自身も宣教した「教え」です。そこに一切の救いの宝と生命が隠されているのです。

 ・異端と分裂を避ける
  教会には、色々な悪が忍びこんできます。特に、「教えにそむいて、分裂とつまづきを引き起こす人たち」を警戒する必要があります。
  「教え」は教会にとって、遺伝子のようなものです。それが健全であれば、健全なキリストの体としての教会が、建て上げられます。しかし、それが傷ついたり、曲げられたりした時に、教会も傷つき、さらに分裂と躓きまで起こってくるのです。

 ・サタンを踏み砕く
  色々な背きを起こす人々の背後にあるのはサタンです。サタンとは敵対者という意味であり、神の業に敵対し、人間の心に背きの思いを吹き込みます。その結果、世の中に色々な汚れ、腐敗、争い、戦争まで起こってきます。
  しかし、私たちが「福音の教え」を忠実に学び、それに従って生きるときに、「サタンを踏み砕く」ことになります。そして「平和の神」の臨在が際立って現れるのです。

2012/6/3 ローマ16:1~16 教会の風景

・教会の風景・・・その1
  ローマ書最終章で、パウロは挨拶をしていますが、ここに福音によって立つ教会の風景を垣間見ることができます。  パウロはケンクレヤ教会の女執事フィベについて紹介し、ぜひ彼女を助けるようにと要請しています。彼女もまた良く人を助ける女性でした。「助ける」とは「傍にいる」、「傍に行く」という意味合いを持ちます。教会では、助けを必要としている兄弟姉妹の傍に、即行く風景がよく見られたのです。

 ・教会の風景・・・その2
  プリスキラとアクラのことが紹介されています。彼らはパウロの同労者であり、パウロの伝道旅行の当初から協力した夫妻です。「自分のいのちの危険を冒して」福音のため、人のために奉仕する人たちでした。  「あなたがたのために非常に労苦したマリヤ」とあります。ローマ教会の創設のときから、陰(かげ)になり日向(ひなた)になって労苦したのです。 ローマ教会には、このような人々が何人もいましたが、彼女はその代表格でした。  強いられてではなく、自発的に主イエスに仕える姿、しかも主と同じ労苦を喜んでなす人々でした。

 ・教会の風景・・・その3
  またローマ教会の多くは罪悪のどっぷりと浸っていた人々でした。しかし福音を信じて、偶像崇拝とその慣習の絆を断ち切り、また臨在される主イエスに心から献身していたのです。その内面の変化が、外側の交わりに現されていたのです。

2012/5/20 ローマ15:22~33 交わり・コイノニア

・パウロとコイノニア
  使徒パウロはローマ教会の人々との交わりを切望していました。イスパニア宣教の途中にローマに立ち寄り「あなたがた」によって力づけられたいと思ったのです。
  また教会間で交わりが保たれるよう努力しました。貧しいエルサレム教会のためにギリシャの諸教会が献金するよう要請したのです。

 ・コイノニアの意味
 交わりを聖書の言葉でコイノニアといいます。三位一体の神が信仰者をご自身の交わりに招いてくださっているのです。さらに神との交わりを背景にして、信仰者同士が互いに聖い交わりを持つことをコイノニアといいます。

 ・コイノニアの内容
  コイノニアの内容は、第1に福音と信仰の交わり。第2には祈りの交わり。第3に労苦を共有する交わり。第4に物をやり取りする交わりです。私たちは1つのコイノニアにあずかっているしるしとして、聖餐式をもちます。

 ・平和の神の臨在
  信仰者は1人で存在するのではなく、コイノニアの中で存在し、育まれ、成長します。そこに「平和の神」が臨在されます。
  私たちは桶川にある聖なるコイノニアに招かれています。そこで、より祝福され、より平和の神の臨在にふさわしい交わりを作っていきましょう。

2012/5/6 ローマ15:7~21 異邦人の救い主

・異邦人の福音
  ユダヤ人は聖書の宗教はユダヤ人のものであるという考えがありました。他方、異邦人はユダヤ人に遠慮する形で福音を受け入れている傾向が見られます。
  そこで使徒パウロは、福音は旧約聖書以来、ユダヤ人と共に異邦人に向けられていることを示します。

 ・異邦人の教会
 さらに神は異邦人のためにパウロを福音による仕え人、また祭司としました。そこにレビ系の祭司という枠を超えた異邦人教会の姿を見ることができます。
  パウロ以降も、神は異邦人教会に働き人をおこし、福音による宣教と聖餐を施させます。また信仰者すべてが祭司とされて、教会全体が「異邦人の光」とされています。

 ・異邦人の供え物
  異邦人教会でも、神はささげ物を求められます。それは信仰者たち自身が福音を理解して受け入れ、自発的に自分をささげることです。それは神のご意志に対する従順ということです。それは彼らにとっても、幸いとなる姿です。

 ・来たれ、異邦人の救い主
   「来たれ、異邦人の救い主」とは、AD4世紀のアンブロシウスの詩ですが、そこには敬虔な信仰姿勢が告白されています。  「私たちは、異邦人はチリにすぎぎない存在です。しかし神は見捨てられず、心の戸の外に立ってたたいています。」
  そこで私たちは心から告白するのです。「どうぞ、私の心にお入りください。私はすべてを献げます」と。

2012/4/29 ローマ15:1~6 強い人も弱い人も

・強い人と弱い人
  私たちには色々な点で、格差があります。力がある強い人と弱い人、能力がある人とない人、持つ人と持たない人というふうにです。世の中では、強い人は自分を誇り、弱い人は苦しむだけという矛盾が生じがちです。  また信仰者の場合も、信仰の自由だけを主張すると個人主義が行き過ぎて、強い者が弱い人に関知しない自己中心に陥る危険性があります。

 ・強い人は隣人の弱さをになう
  しかし「力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべき」です。また「隣人を喜ばせ、その徳を高めるため」に力を用いるべきです。それは強い人の力は隣人のために用いるために与えられた神の賜物だからです。

   ・キリストにならう  「キリストでえ、御自身を喜ばせることはなさらなかった」とあります。むしろ私たちが受けるべき裁きを自ら進んでその身に受けて、十字架の死にまで到りました。キリストは私たちの贖い主であるだけではなく、私たちの道しるべです。私たちが救われたのは、小さいキリストになるためです。

・強い人も弱い人も 教会には色々な点で強い人と弱い人がいますが、互いが互いの弱さをになうべきです。その関係がキリスト体の強い関節になり、一致が生じます。  またそこに聖霊が豊かに注がれ、「心を一つにして、声を合わせて」神をほめたたえるようになるのです。

2012/4/22 ローマ14:13~23 キリスト者の自由


・躓かせない配慮
 「兄弟にとって躓きとなるものを置かないように」とあります。教会に対して寛容であるだけではなく、さらに積極的に愛の配慮を持つようにと言うことです。
 バリヤフリーという言葉がありますが、教会では色々なところで信仰の養いの妨げとなる障害が取り除かれなければなりませんが、その決意が大切です。

・キリスト者の自由
 確かにキリスト者は信仰によって何を食べても何を飲んでも自由が与えられています。ルッターはキリスト者は何者にも束縛されない王であるとまで言っています。しかしながら、その自由を自己主張のために用いるのではなく、隣人の愛のために用いることの方が大切なのです。つまりキリスト者の自由は、神への愛、隣人への愛に向かう自由なのです。

・神の国は義と平和と喜び
 神の国は世の終わりに完成しますが、すでに今の世において、教会という形で現れています。教会は神の国であり、神の国のあり方で交わりを築くところです。
 神の国は「義と平和と聖霊による喜び」とあります。それはキリストがそうであったように、相手をおおうほどの義、自分から和解して作る平和、相手も含んだ喜びということです。神の国の民として、与えられた自由をふさわしく用いましょう。

2012/3/25 ローマ14:1~12 信仰の弱い人を受け入れる

・信仰の弱い人、強い人
同じ主イエスを信じていても、信仰の強い人と弱い人は存在します。また「それぞれ」にはそれぞれの信仰姿勢があります。何を食べるか食べないかでも異なります。 しかしその些細なことが、大きな問題になってしまうことがあります。強い人が弱い人に対して自分の信仰を強要したり、また反対に弱い人が強い人を裁いたりするのです。

 ・信仰の弱い人を受け入れる
私たちが兄弟の信仰を侮るとき、私たちは自分の分を超えているものです。その兄弟の主人はイエス・キリストご自身であって「あなた」ではないのです。 また主イエス・キリストは「あなた」が弱いと思っているその人を支えておられ、確実に立た、成長させることができるのです。

 ・それぞれの信仰の自由が大切
食べるだけではなく、信仰生活全般において 大切なことはそれぞれが主の前に確信をもって判断することです。人の言葉を恐れる必要はないのです。それぞれが、主イエスから直々の信仰の自由をいただいているのです。 また弱い信仰の人であっても神の恵みの中で、「主イエスのため」に存在し生きる者とされています。それは尊いものなので、その信仰に干渉することは極力さけるべきです。 主イエスは私たちが自由を持ち、ただ主イエスのために生き、死めものとなるために、死んで生きて下さつたからです。

2012/3/18 ローマ13:11~14 キリストを着る

・今という時を知る
  聖書には、一つの歴史観があります。それは将来に救いが完成するイエスの再臨の日があるということです。教会は、その「日」を目ざしながら地上に存在しています。  再臨の時は、いつか分かりませんが勢いよく接近しています。私たちは、「今」の意味を覚えて、生活スタイルの転換が求められています。

 ・光の武具を身に付けるとき
  「やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか」  「やみのわざ」とは、この地上の様々な欲や快楽や汚れた業のことです。地上に執着しているときに、これらの虜になります。救いにはいるためには、まずその一つ一つを捨てることが大切です。そして、「光の武具」を装着するのです。これはやがて到来する神の国にふさわしい装着物です。つまり神の聖さと神が喜ばれる生活スタイルを身に付けることです。

・キリストを着る
 「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」  「キリストに従う」「キリストに学ぶ」という勧めよりも、より徹底しています。役者が役作りのために、原作を読み解釈し、試行錯誤して主人公になりきる場合があります。ちょうどそのように、私たちはキリストの言葉から学び、解釈し、黙想し、祈り、試行錯誤して、キリストの生き方、生活スタイル、人との関わり方、心と思いを自分のものとしていくようにということです。

2012/3/11 ローマ13:8~10 愛は律法を全うする

・キリスト者の社会倫理
  キリスト者の社会倫理は、かつての律法のように、細々とした形だけの規定ではありません。むしろ状況倫理であり、基本的な心構えでもって様々な状況に対処します。その第1に「何の借りもあってはいけません」です。「借り」とは、「負い目」ということで、金銭を借りるということだけではなく、様々な害や迷惑を与えて負い目を持つということをも意味します。そのようにして、良い市民として振る舞うのです。

 ・愛の負い目を持つ
 第2は、「愛の負い目」を持つことです。キリストが私たちを愛してくださったように、私たちは先に隣人を愛する姿勢を持つと言うことです。愛とは、隣人を助け、癒し、建て上げる愛で、すべて隣人の益となることをなし、幸せを願うことです。この時に、世に氾濫している自分本位の愛と混同してはなりません。

 ・愛は律法を全うする
  旧約時代の律法の根本精神は愛でした。そして「愛は律法を全うする」のです。愛はまた、人間社会にあるすべての道徳規範の根本精神です。私たちはキリストから神の愛を学び、教会において愛の訓練を受け、さらに世において真実の愛を行使して生きるのです。  世の道徳規範は形骸化したり、希薄化してしまうのが実情です。世の人々も、キリスト者の真実な愛と愛に基づく行動を期待しているのです。

2012/3/4 ローマ13:1~7 上に立つ権威

・上に立つ権威
 ここで「上に立つ権威」とは、国の政治システムのことを意味します。私たちの国では、国民の総意として法と政治システムが存在します。それもまた私たちの「上に立つ権威」です。  それは異教徒が携わっている場合が多いのですが、「神によらない権威はなく」、すべて「神によって立てられたものです」。それ故、教会はそれらを重んじます。神は教会の主ですが、また世界の支配者であり、彼らを通して世を支配しておられます。

 ・「神のしもべ」であるから従う
  国家の政治システムと法に仕える人々は「神のしもべ」であり、その働きは基本的に「神のしもべ」としての働きです。私たちは彼らを重んじるべきです。  彼らはまた、私たちに益を与えるための「神のしもべ」であり、私たちが地上の生涯を平安で敬虔に過ごすことために奉仕しているのです。ですから、「良心のために」進んで従うべきです。

 ・国家と為政者のために祈る
  しかしながら、国家には悪が潜んでいることも覚えておくべきです。ヨハネ黙示録に描かれているように、時に国家が悪魔的獣に支配され、私たちの信仰の世界に土足で踏み込んでくることがあります。その時には、神とキリストに対して「死に到るまで忠実」が私たちの姿勢です。しかしそうならないように、国家と為政者のために祈る必要があります。

2012/2/26 ローマ12:17~21 悪に対する処方箋

・悪に対する処方箋・・悪を報いず
  私たちは地上で生活する限り悪との遭遇があります。その際に、私たち自身は自分のうちから出てくる悪にもサラされます。そこで「悪に悪を報いることをせず」の態度が肝要です。  また善と平和の民にふさわしい対応が必要です。「すべての人が良いと思うことを図ること」「すべての人と平和を保つこと」です。

・復讐してはならない
  「復讐」とは、昔は悪に遭遇した際の正義の手段でした。異教徒間でも律法でも、その規定があります。しかしキリストの民は、それを放棄します。「自分で復讐してはいけない」のです。キリストがそうであったように、キリスト者は神の復讐をではなく平和の大使です。どのような時にも神の平和を証しします。  悪は神に対する反逆ですから「神の怒りにまかせる」のです。正義の神は悪をいつまでも野放しにされることはありません。

 ・善をもって悪に打ち勝つ
  私たち自身の悪に対する対応としては「善をもって悪に打ち勝つ」以外の方法はありません。「敵が飢えたら食べさせ」「渇いたなら、飲ませる」のです。このような対応から、悪の権化も神のものとされる場合も起こってきます。初代教会もそうでしたし、後の福音宣教もこの方法で進展してきました。  キリストを土台として建てられる教会は平和の都そのものであり、神御自身が守られる場所です。

2012/2/19 ローマ12:15~16   一つ心で

・いっしょに
  「喜ぶ者・・泣く者といっしょに」  人には感情があるので、喜ぶときも、悲しむときもあります。その時に「いっしょに」と勧められています。喜びは「いっしょに」ということで、さらに大きくなります。悲しみは「いっしょに」で慰められるからです。また私たちが「いっしょに」喜び泣くときに「キリストがいっしょに」にいてくださいます。

 ・1つ心で  さらに「互いに一つ心に」とあります。人はみな違う考え方とビジョンを持っていますが、あえてキリストゆえに一致することが求められています。教会祝福の試金石になります。  具体的には「高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応」するように勧められます。「身分の低い者」とは、小さい者、弱い者というようながあります。  「順応する」といいますのは、歩調を合わせてということです。そのように心がけることで、キリストの心を自分たちの心とする教会が形づくられていきます。(ピリピ2:3~5)

・とこしえの祝福
 「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(133:3)と詩篇にあります。 一つ心の教会の姿は、旧新約の時代を通じて理想とされてきたありかたです。私たちはキリストの姿勢から、その心を学び続け、実現に向かっていきましょう。

2012/2/5 ローマ12:11~14 霊に燃え

・霊に燃え
  教会は地上に建てられたキリストの体です。この箇所でも、教会における生活スタイルを示しています。  「勤勉で怠らず、霊に燃え」とあります。キリストが頭なのですから、与えられた聖霊の賜物と力を用いて、私たちは精一杯に奉仕するのです。そのようにして聖霊の生命が顕わになり、私たちも周囲の人々も教会に宿る新しい生命を知ります。

 ・希望の光を灯す
  「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」とあります。私たちの国籍は地上ではなく神の国にあります。ですから、すべての試練に際して御国を待望し、忍耐して、希望の光を灯すのです。祈りは、私たちの心に希望を灯すよき機会となります。

 ・暖かい交わり
  「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」とあります。「協力し」とはコイノニアという文字でキリスト者同士の親密な交わりを意味します。互いの足りなさに対して、互いに助け合う中で暖かい交わりが生じます。冷たい世において人間の暖かさは人を生かします。また外国人に対するもてなしは大切なコイノニアの要素です。

 ・神の国の兆し
  世はドンドン冷え、暗くなっている時代です。教会の中で、共に霊を燃やし、希望の光を灯し、暖かさを作りましょう。そのようにして周囲の人々も神の国の到来を知らせることになるのです。

2012/1/29 ローマ12:9~10 偽りのない愛で

・偽りのない愛で
 教会は、神が愛を注がれる場です。また神の愛を実践する場です。その時、上辺だけの偽りの愛ではなく、純粋な愛を実践すべきです。その愛は、信仰心から滲み出るものですから、信仰生活の中で、絶えずキリストに向かい、そこからくみ出すのです。

 ・具体的な愛・・
 「悪を憎み善に親しむ」とあります。聖書において、善悪は十戒に明記されています。それは隣人に対する愛の具体化です。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽るな、貪るな、父母を敬え」、さらに与えるという積極的な行いが加えられます。これは具体的な愛の姿です。悪を嫌って離れ、善に対しては糊のように付着して生活することです。

 ・兄弟愛を持って
  兄弟愛とは仲のいい家族の中で見られる兄弟同士の愛、親子愛の姿です。信仰者は神の家族ですから、良き父、良き長子キリストにならって互いに愛し合うと言うことです。兄弟愛によって、私たちが1つになるときに、キリストの臨在が顕わにされます。また世の人々も教会に純金のように希な愛があることを知ることになるのです。

 ・愛は教会の旗印
  ある聖歌に「御旗は愛なり」という歌詞があります。確かに教会の旗印は愛ですから、妥協することなく、純粋な愛を、教会生活の中で求め続けていきましょう。

2012/1/22 ローマ12:3~8 キリストの建立

・恵みによる教会形成
  パウロは自分に与えられた「恵みによって」人々に勧めています。それは旧約の律法と対比され、新約の民のあり方の基本です。そしてまた教会形成の基本です。教会は、一人一人が喜び、生き生きとしながら奉仕して建て上げるのです。

 ・恵みの奉仕姿勢
  教会はキリストの体にたとえられます。1つの体には色々な器官があり、それぞれが調和して機能することで、健全になります。そのためには「だれでも、思うべき限度を超えて思い上がらず」「慎み深く」考えることが大切です。そのようにして、自分にとっても大きな負担とならず、他の人の奉仕を妨げることがない喜びと調和が生まれます。

 ・恵みの信仰に応じて
  また具体的な奉仕について「預言」「奉仕」「教える」「勧め」「分け与える」「指導する」「慈善」などがあります。それらは「信仰に応じて」為すべきです。つまり、神様に祈って示された通りに為すと言うことで、人間的な思いは極力排除すると言うことです。

 ・キリストの建立
  寺院などを建てることを建立すると言いますが、私たちは今の時代にキリストを建立するのです。しかし聖書的な教会は建物ではなく、互いの信仰と奉仕によって建て上げるキリストの体です。  人々は「今の時代にキリストがおられたら!」と言いますが、教会がそのキリストの体なのです。

2012/1/15 ローマ12:1 心の一新

・世と調子を合わせない
私たちの体質には、肉の力、自我の力、「この世」の力が大きく作用しているために、改心してからも、それらと調子を合わせて生活してしまいがちです。  しかし心の芯にキリストを迎え入れた者たちは、「この世」の流れに流されたままではいけません。

・心の一新  
「心の一新」とは、基本的な思いと判断を全く変えると言うことです。つまり世的で肉的なことに向けていた思いを神に向けると言うことです。ベクトルという言葉が用いられることがありますが、思いの方向と力を最大限に神に向けるということです。この姿勢から様々な考え方や生活の変化が起こります。

・自分を変える
 かつて私たちは自分で自分を変えることはできない惨めな存在でした。しかし今は、神の恵みの力の中に生かされています。そこで自分で自分を変えるということが促されています。  ちょうど蝶やトンボがサナギから成虫に変身するように、私たちも「心を尽くし、思いを尽くして」自分を変えていくのです。

・御心を知る  
私たちが神に対して心をしっかりと向けたときに、神はさらに具体的な御心を示して下さいます。それは神に喜ばれる完全な道です。私たちはその御心に従って、私たち自身の内と周囲に神の国を到来させるのです。

2012/1/08 ローマ12:1 私たちの霊的礼拝

・神の愛が先行する
 「そういうわけですから」とあります。それはこれまでパウロが論じてきたことを受けています。つまり神が私たちを愛して、御子キリストを与えて下さったということです。つまり、神が先に私たちのために一切を与えて、私たちを受け入れて下さっているということです。このことが、私たちの礼拝の前提となります。

・私たちも心とからだを捧げる
 次に、神は私たちの側で応答することを願っています。つまり自分の心とからだを生きた供え物として捧げるという礼拝行為です。そもそも神が私たちを救って下さったのは、そのためだったのです。  私たちは受動的な存在であるだけではなく、能動的で機能を持つ者として存在しています。それらはただ神のために用いるということで、永遠の充足感と幸福感を持つことができます。つまり生き甲斐を見いだすということです。

・私たちの霊的礼拝
 「霊的礼拝」とは、キリストの福音に「ふさわしい礼拝」ということです。神が先に愛し、御子キリストを与えて下さったので、今度は、その神を第1の価値として、私たちの一切を捧げるのです。  私たちの時代は、価値を失い、生きる意味も曖昧になっています。こうした中、私たちが霊的礼拝をきっちりと捧げることは私たち自身の生活の軸となります。同時に、世の人々も、私たちの礼拝式を通して、神の愛とキリストの贖いの尊さを知るようになるのです。

2011/12/04 ローマ11:25~36 この神に栄光あれ

・神の奥義
 パウロは信仰者たちが自分勝手な考えで高ぶらないように「奥義」を示します。それは異邦人の救いが完成するときに、今は不従順なイスラエル人も救われると言うことでした。神は人を不従順に放置して、その後に憐れみを注がれる神です。人間が自分がすぐれていると高ぶったり、自分の力で救われたという傲慢な思いを持たないためです。
 「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められた」のです。

・すべてのことは神から
 いつの場合でも、「神の知恵と知識の富」は人間には計り知れないのです。また人間は神の働きに自分から参与するとか、自分が神の働きを助けたなどという高ぶりは許されません。神のみが一切を成し遂げられる方なのです。
 確かに「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」のです。神のみが救済の歴史の創造者であり担い手です。神のみがほめたたえられなければなりません。

・この神に栄光あれ
 神は私たち信仰者に、神の主権を日々知らせます。また御言葉をとおして奥義として前もって示し下さいます。それは私たちがあえて、神に栄光を帰すためです。目先の現実は、神の憐れみが見えない、神は厳しい方、不可解な方と思うときがあっても、私たちは信仰によって、真実を覚え、希望を持って、ほめたたえるのです。どこまでもへりくだらされ、純粋な賛美者となるように招かれています。
「どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

2011/11/27ローマ11:11~24 慈しみに留まる

・彼らの違反と私たちの救い
 初代教会クリスチャンの中には、ユダヤ人の違反ばかり見て敵対視する者がいました。そこでパウロは、ユダヤ人を通して異邦人が多くの恵みを受けていることを指摘します。
 まず第1に、彼らの違反を通して福音が異邦人に及んだことです。もしユダヤ人の大勢が改心していたら、なかなか福音は民族の枠を超えて異邦人に伝わることがなかったのです。そこに神の恵みと慈しみがあります。

・彼らの完成と私たちの栄光
 第2に、神は現在と将来、彼らが福音にたちかえるという計画を持っておられます。彼らが復帰することは、彼らのみではなく、異邦人にとって「すばらしいもの」をもたらすことになります。つまり「彼らの捨てられることが世界の和解」「彼らの受け入れらることは、死者の中から生き返ること」となるのです。

・さばくな、高ぶるな
 私たちは、周囲の人々や集団を神に背を向けて滅びに向かうと裁いてしまいがちです。しかしそのような人々でも、背後では不思議な神の支配があります。私たちは早まって裁いたり、非難したりしてはならないのです。それは誇ること、高ぶることです。むしろ神を「恐れる」姿勢が大切です。

・神の慈しみに留まる
 私たちは自分の罪とむなしさを示されて、信仰に導かれました。その背後に、私たちに対する神の慈しみがあったからです。私たちがそこに留まるためには、私たちも神の前にへりくだって、同じ慈しみの心で人々を見、対応することです。