・エマオへの途上
安息日の翌朝、ふたりの弟子がエルサレムからエマオという村に行く途中のことでした。彼らは失望しながらも「いっさいの出来事について話し合って」いました。そこに復活のイエスが近づいたのですが、彼らの目は「さえぎられていて」イエスと認めることができませんでした。復活のイエスは、不信仰の者には決して見ることができないからです。
・聖書からの説き明かし
主イエスは彼らの不信仰を叱責した後「聖書全体」から「キリストは…苦しみを受けて彼の栄光にはいる」ことを「説き明か」しました。「説き明かす」ことによってのみ、神の不思議とキリストの救いが顕にされるのです。
彼らは、旅路の「説き明かし」を通して復活信仰を持つようになっていました。それで故郷の村についたときに「無理に願って」イエスを家に招き入れました。
・心はうちに燃えて
「パンを取って祝福し…彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」とあります。信仰による愛餐の交わり(聖餐)の中で、復活のイエスの臨在が明らかにされたのです。それと同時にイエスは見えなくなりましたが、かえって彼らは、イエスの御霊の臨在を確信しています。
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」とあります。私たちの場合も、このことは全く同じです。教会における、十字架と復活のイエスを中心とする聖書の説き明かしと聖餐の交わりの中に、イエスの御霊が臨在して私たちの心を燃やすのです。
2023/4/9 ルカ福音書24:13~35 エマオへの途上
2023/4/02 ルカ福音書23:44~56 イエスの死と葬り
・イエスの死
主イエスの十字架の時「全地が暗くなって」とあります。世の終わりに現れる神の怒りが、イエスにくだされたことを象徴し、「神殿の幕は真二つに裂けた」のは旧約時代の終わりを暗示します。「わが霊を御手にゆだねます」とのイエスの最後の言葉は、詩篇31:5の成就で、正しい者の死を意味します。イエスは正しい者の死を全うして贖いをなし、古い契約を終わらせ、新しい契約を成就させました。
・百人隊長の証言
百人隊長は「この人は正しい方」と証言しています。彼は十字架のイエスの一切の振る舞いから、神の子としての正しさを告白せざるを得なかったのです。これはルカ福音書ではイエスが「罪がない」「正しい」という7回目の証言となっています。まさにパーフェクトな正しさを示しています。
・主イエスの葬り
アリマタヤのヨセフはピラトに願い出て「イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた」とあります。彼は議員のひとりで、イエスを支持し、神の国を待望していた人物でしたが、このように最後に彼の信仰を証しました。また彼はイエスの葬りを通して、イエスの死をしっかりと受け止めたのでした.
彼の態度は、私たちも見習うべきです。つまり、この受難週に、私たちもイエスの死とその意味をしっかりと受け止めたいです。そしてどうして、「正しい」方が死ななければならなかったかを、深く思い巡らしましょう。
2023/3/26 ルカ福音書23:39~43 ふたりの犯罪人
・十字架上で…ひとりの犯罪人
主イエスの十字架刑の時、その両脇にふたりの犯罪人も共につけられました。そのひとりは「イエスに悪口を言い」「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言い放ちます。「人は生きてきたようにして、死んでいく」と言われますが、彼はその典型です。最後まで、目先の現実だけを見て、その背後にある真実が見えないのです。
・もうひとりの犯罪人
「ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて」とあります。彼もはじめはイエスに悪口を言っていたようですが、途中で見方が変わっています。死の間際まで「悪いことは何もせず」忍耐し、赦す姿に、世の次元から隔絶した「正しさ」を見ています。そして「あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」とイエスを神の子キリストであると信仰告白をしています。彼の場合は、死の間際に注がれた神のあわれみの器です。
・ わたしとともにパラダイスに
彼に対してて主イエスは告げます。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。「きょう」とは、その瞬間であり、死ぬその日のことです。パラダイスとは神の聖域であり、神の国の圧倒的支配の中を意味します。つまり、極悪人であってもイエスをキリストと信仰告白した瞬間、彼はキリストと共に神の圧倒的恵みと生命の支配の中に置かれているということです。
私たちもまた、罪人ですが、もうもうひとりの犯罪人のように、イエスの正しさを見て、心からの信仰告白をしたいです。
2023/3/19 ルカ福音書23:26~38 ユダヤ人の王キリスト
・十字架を負って
兵士たちは、イエスにの十字架を、クレネ人シモンに負わせまました。主イエスの十字架を負うという点で、彼は私たちキリスト者の典型です。
さらに主イエスの後には、大ぜいの群衆と嘆き悲しむ女たちが従いました。主イエスはその女たちに向かって神の裁きを預言します。それは単に、彼女たちだけではなく、すべてイエスをキリストと信じない者たちに対する裁きの預言です。
・十字架上のとりなし
ゴルゴダで、主イエスは兵士によって十字架につけられました。そのときに「父よ。彼らをお赦しください…」と神に向かって赦しを願います。神と主イエスに敵対し反逆する者たち全てに対してのとりなしです。その贖いと和解の姿こそ地上に到来した神の子の真の姿でした。
・ユダヤ人の王キリスト
「「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に…」とあります。ユダヤ人の王とは、旧約聖書で預言されてきた神の子キリストのことです。彼はユダヤ人の王だけにとどまらず、全国民の王として定められています。その使命は、力で敵を打ち負かすことではなく、神と人間との和解と贖いでした。
私たちは彼の贖いと和解を受け入れた者たちですが、私たちの使命は彼の十字架を背負って地上の生涯を全し、彼を証しすることです。
2023/3/12 ルカ福音書23:1~25 「十字架につけろ」
・総督ピラトの前で
祭司長とユダヤ指導者たちは、夜中に議会を持って主イエスを有罪としローマ法廷のもとで、十字架刑にすることを決議しました。翌朝、ローマ総督ピラトの法廷につれていき主イエスを訴えますが、ピラトは無罪と判断します。しかし彼らユダヤ指導者らは「あくまで言い張って」告発し続けています。
・国主ヘロデの前で
主イエスはガリラヤ領主ヘロデの元にも引き出されます。彼は洗礼者ヨハネの殺害者であり、邪悪で狡猾な人間でした。彼は奇跡を見たいと思い、色々と質問しますが、真摯に聞こうとはしません。そのような人間に、主イエスは沈黙を保ったままでした。
やがてそこでも祭司長とユダヤ指導者らは、激しく訴えたので、ヘロデ王は主イエスを侮辱し、はでな衣を着せて、ピラトのもとに返します。
・十字架につけろ
ピラトは主イエスを釈放する口実を作りますが、ユダヤ人指導者らは、人殺し「バラバ」の釈放を求めます。さらに「十字架だ。十字架につけろ。」とあくまでも大声で主張します。「そしてついにその声が勝った」とあります。
祭司長とユダヤ指導者たちは、自分を義とする人間の典型です。そこではいつでも神とキリストに対する反逆があるのです。しかし、神はいつでも、人間の思いを超えた形で新たな救いの道を開かれるのです。
2022/12/25 ルカ福音書2:8~20 天に栄光 地に平和
・喜びの知らせと主の栄光
キリスト誕生の知らせは、主の使いによって野の羊飼いたちに伝えられました。彼らが夜番で羊の群れを見守っていた時「主の栄光が回りを照らした」とあります。
「主の栄光」とは、神の圧倒的に優れた存在と御性質です。それが降誕の「喜びの知らせ」を携える御使いととにも地上で輝いたのです。
・天に栄光 地に平和
「いと高き所に、栄光が」「地の上に、平和が」 とは、御使いと共に現れた天の軍勢の賛美です。これらもまた御子の誕生によって、天からもたらされた祝福とその輝きです。御子は神の栄光をさらに輝かし、地上において永遠の平和を実現させるのです。
・私たちの内なる栄光と平和
羊飼いたちは、御使いらと共に現れた天の輝きに恐れ驚きましたが、なおそれらは彼らの外側の現象でした。それが心のうちに刻まれたのは、御告げに従って御子キリストを捜し出し、受け入れたときです。そのとき彼らも、御使いたちのように「神をあがめ、賛美した」のです。
私たちの前にも、同じ「喜びの知らせ」が提供されています。それが外側にあるだけなら、何の意味もありません。それを心から信じて、御子キリストに出会うとき、私たちのうちにも天の栄光、地の平和」が訪れるのです。
2022/12/18 ルカ福音書1:46~55 マリヤの讃歌
・マリヤの讃歌
マリヤはエリザベツと出会ったときに、聖霊に満たされて神を賛美しています。いわゆるマリヤの讃歌です。彼女は「魂は主をあがめ…霊は…神を喜びたたえ」と全人的に神をたたえています。
ルッターは、人間の体を神殿にたとえ、魂は聖所、霊は至聖所と語りました。マリヤは、その一切を神賛美で満たされている状態です。
・大きなこと
その理由について「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったから」と証ししています。つまり「力ある方が、私に大きなことを」とは、キリスト受胎のことであることを告白しています。神が人の胎に宿るという奇跡は、地上の誰も体験することがない栄誉であり、あわれみの極致ですから、マリヤの霊と魂と体全体が賛美に満たされるのは無理もありません。
・主のあわれみは代々に
マリヤは、自分のあわれみの体験は「主を恐れかしこむ者に、代々に及びます」と証ししています。つまり、キリスト誕生とともに神の国が出現し、世とは真逆の正義と審判が実現するということです。
私たちはマリヤのように胎にキリストを宿すことはないのですが、キリストの霊が宿る神の宮とされています。この霊的事実を覚え、マリヤとともに霊と魂と体全体をもって、神を賛美しましょう。
2022/09/04 ルカ福音書22:54~62 ペテロの否認
・ペテロの否認
役人たちは主イエスを捕縛した後に、大祭司の家に連れ行きました。ペテロは遠く離れて後をついていき、人々の中に紛れて、焚き火の周りに腰を下ろしていました。
すると女中がペテロを見つけて「この人も、イエスといっしょにいました」 と証言します。それに対してペテロは打ち消して言います。「…私はあの人を知りません。」女中さんだから、軽く言い逃れできると考えたのです。
・ 二、三回目の否認と鶏鳴
しばらくしてほかの男が「あなたも、彼らの仲間だ」と語った時、ペテロは、なかば本気に「「いや、違います」と自分とイエスの関わりを否定します。三人目が来て、より断定的に語ります。「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」それに対してペテロは「あなたの言うことは私にはわかりません」と徹底して、自分とイエスの関わりを否認するのです。
・罪認識と真の救い
「彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた」とあります。それと同時に、ペテロは主イエスの予告を思い出して、明確に自分の肉の弱さと罪深さを認識しました。「外に出て、激しく泣いた」とは、その現れでした。しかし彼は、その体験を通して、自分の贖い主としてのキリストを明確に知ることになったのです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 」 Ⅰヨハネ4:10
2022/8/14 ルカ福音書22:31~38 イエスの執りなし
・サタンの試み
「シモン、シモン」と主イエスはペテロの元の名を呼んで、サタンの試みについて予告しています。彼は第1の弟子との自覚を持っていましたが、なおその信仰は肉的側面が多かったのです。
「サタンが…ふるいにかけることを願って聞き届けられ」とあります。これまで彼らは主イエスの恵みのバリヤーのもとにあったのですが、一時的にそれがることを神があえて許されたということです。不可解ですが、試みの中で人は、より真実な信仰を宿すからです。
・イエスの執りなし
「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈り」とあります。主イエスの執りなしの祈りはサタンの訴えよりも優先されます。そして主イエスの恵みは、試みの中で、より深く作用するのです。そもそも主イエスの苦しみと十字架の死は、私たちの大祭司となるためのみ業でもあったからです。
・兄弟たちを力づけるため
「だから…立ち直ったら、兄弟たちを力づけて」とあります。先に、キリストの執りなしとあわれみを受けた者は、自分でも、人を思いやる賜物を獲得することになります。その賜物で、兄弟たちを力づけることが使命であるということです。
私たちの時代でも、サタンの試みがありますが、その中でも主イエスの執りなしとあわれみは最強です。それによって立ち直った者たちは、他の兄弟たちを力づける使命を担っているのです。
2022/8/7 ルカ福音書22:24~30 神の国のリーダー像
・だれが一番?
「この中でだれが一番偉い?」とあります。主イエスの弟子たちはもうすぐ神の国が実現すると思い、そのときに、自分たちの中でだれが一番優れていて、リーダーとなるのにふさわしいかという論議していたのです。
主イエスは「だれが一番偉い」という論議自体を否定することなく、まずは、神の国のリーダーは、この世の王たちやリーダーたちとは、異なることを明確にします。
・神の国のリーダー像
次に神の国のリーダー像について語ります。「一番偉い人は一番年の若い者のように」「治める人は仕える人のように」と。「仕える」とは、自分を低くして他の人の必要に応えるということです。
主イエスは、ご自分のリーダーとしての本質は、それであったことを示すために、この食事の席であえて腰に手ぬぐいを下げて、弟子たちの足を洗っていたのです。
・神の国の王権
「あなたがたに王権を与えます」とあります。 主イエスが父の神から受けた王権を、使徒たちもまた主イエスとともに受けるということです。その権威は、今の時代でも、隠れているのですが、たしかに聖霊によって現れるのです。
「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」Ⅱテモテ2:12とあるとおりです。
2022/7/31 ルカ福音書22:7~22 過越の食事
・過越の食事
主イエスは弟子たちに過越の食事の準備をさせましたが、弟子たちが行ってみると神によって聖別された客間が用意されていました。
主イエスはその過越の食事を切望していた事を証し、それが十字架前の最後の食事であること、また未来の神の国での再会を約束する食事であることを示します。
・主の聖餐
主イエスが次に示されたのは、主の聖餐でした。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだ」とみ言葉を語ってから、パンを弟子たちに与えています。ここに十字架と復活という御業の意味が明確にされ、霊的に提供されています。
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約」とあります。ブドウの杯も、み言葉とともに与えられています。それはパンの場合と同様、見えるみ言葉として提供されています。「新しい契約」とは、律法による旧約ではなく、キリストによる恵みの契約ということです。
・信仰が大切
この聖餐について、カトリック教会では、キリストの体と血が化体したもので、キリストそのものとします。そこでは信仰は軽視され、霊的な意味も失われがちです。
聖書では、パンとブドウの杯は、あくまでも象徴で、それを信仰によって受けることが大切であることを強調しています。信仰によらなければ、ユダのように滅ぶのです。
2022/7/17 ルカ福音書21:20~36 油断せずに祈る
・エルサレム滅亡の預言
主イエスはエルサレム滅亡について預言し「そのとき…山へ逃げなさい 」と語ります。実際にAD70年にエルサレムはローマ軍によって包囲されて陥落し、神殿も破壊されます。そのときにキリスト者たちはこの警告に従って近くの町に逃れました。
・キリスト再臨
主イエスはさらに世の終わりに現れる天変地異の前兆について触れます。「諸国の民は…不安に陥って悩み…恐ろしさのあまり気を失い」とあります。しかしそのときこそ、キリスト再臨と贖いの完成という希望の時となります。「からだをまっすぐにし、あなたがたの頭を上に上げ」とは、文字通りのスタイルを取るというより、強い希望を抱くべきことを示しています。
・油断せずに祈る
「放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んで」とありますが、キリスト者であっても、世との関わりが強くなるときに、霊的に眠り、このような危機的状態となります。
そこで「いつも油断せずに祈っていなさい」とあります。「油断せずに」とは、夜番の歩哨が眠らないでいることを意味する言葉です。ちょうどそのように、世の楽しみや煩い事にとらわれて、霊的に眠らないようにということです。
「祈り」とは、神を怖れて信じ、期待するという、霊の営みです。私たちは「祈り」によって、世の眠りから免れて、再臨待望の灯火を保つことができるのです。
2022/7/10 ルカ福音書21:5~19 時の終わりに
・神殿を前にして
「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると」感嘆していた人々に対して主イエスは、その破壊されることを予告します。そして真の信仰は、目に見える神殿に依存するような形式的なものではないことを示し、さらに目まぐるしく変遷する時代の中で、内なる確信として培われていくことをしめします。
・時の終わりに…信仰の確立と証
時の終わりは、すぐに来るわけではなく、それまでに様々な困難がやってきます。偽キリストによる惑わしがその一つです。彼らは人々がパニック状態のときに現れてきますが、その際に、キリスト者は何が真理であるかを判別して、そこにしっかりと立つ必要があります。
また迫害の時があり、人々は偶像や世の流れに染まるように強制します。そうしたときに、キリスト者は聖霊に励まされて、証をすることで、自分の心の内に不動の信仰を養っていきます。
・世の終わりに…忍耐
キリスト者の困難は、一時のものではないので忍耐が要請されます。信仰にしっかりと踏みとどまるということです。そして、キリスト者は困難から逃げることではなく、むしろ忍耐して信仰にしっかりと踏みとどまることで、自分の生命を勝ち取ることができるのです。
私たちは安穏とした信仰生活を願いますが、主イエスのみ心は、困難な時代にあって、一人一人がしっかりと信仰に立つことです。
2022/7/3 ルカ福音書21:1~4 銅貨二つの尊さ
・献金箱の前で
「イエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた」 とあります。献金箱は婦人の庭にあったのですが、そこでの光景です。金持ちたちが多額の硬貨を投げ入れたのは目でも音でも分かりました。それで本人も周囲の者たちも、その信仰を評価していました。「ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れ」とありますが、その場合も、目と耳で、その小さな額がわかり、人々は蔑む傾向がありました。
・銅貨二つの尊さ
しかし、主イエスは、人々とは異なった評価をしています。「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました」と。その理由は「みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたから」とあります。つまり献金の価値は、金額の大小ではなく、目に見えない信仰と献身の大小にあるとしたのです。
貧しいやもめは一レプタでも大きな心の痛みでしたが、神を信じて更に一レプタ銅貨を捧げて、神を礼拝したのです。
・痛みと尊さ
私たちも、このやもめにはかないませんが、痛みがあったとしても、神を第1とするにふさわしい信仰と献身を具現した形で献金をいたしましょう。神は、それを高価で尊いとしてご覧になられるからです。
2022/6/26 ルカ福音書20:27~40 生きている者の神
・サドカイ人の復活否定
サドカイ人とは祭司長一族らを中心とするグループです。彼らはモーセ五書だけを聖典として死者の復活を否定していました。彼らは主イエスの評判を貶めようとして、復活信仰を否定する論戦を挑んできました。それは律法の規定を盾にした詭弁で、夫と次々に死別して、結局7人の兄弟の妻となった女性は、復活のときに誰の妻になるかというものでした。
・この世の生命、復活の生命
主イエスは「この世の子らは、めとったり、とついだりするが…死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません」と語ります。この世の生命と神の子たちの生命の違いを明瞭にしているのです。この世の生命の論理で、復活を云々することは誤りであるということです。
・生きている者の神
さらに出エジプト記3章の柴の箇所で神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」として現れたことを示します。神は園の存在者であり、しかも契約の民との関わりを永遠に保ち、彼らを永遠に生かしていることを明らかにします。
「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」とあります。真実の神信仰に導かれた者たちは死に絶える生命ではなく、永遠の生命をいただき、たとい地上の生命が滅んだとしても復活に至ることを明確にしています。
この死の時代に、私たちは復活信仰によって「生きている者」とされているので、心からの礼拝により生きた神を証ししましょう。
2022/6/12 ルカ福音書20:20~26 神のものは 神に
・カイザルに税金?
主イエスの生命を狙う祭司長らは、義人を装った間者を送って、イエスを罠にかけ、ローマ総督にひきわたそうとと企みました。彼らは「カイザルに税金を納めることは律法にかなっているかどうか」との質問をし、どう答えてもイエスの立場を危うくしようとします。まさしく毒をはらんだ質問です。
・カイザルのものはカイザルに
主イエスは彼らの企みを見抜いて対応しています。まずはデナリ銀貨を取り出させて、そこにカイザルの肖像と銘が刻まれていることを確認させます。それによって地上の政治経済の支配権はどこにあるかを示しています。そのようにして「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と返答します。
・ 神のものは神に
しかし主イエスの強調点は次にあります。「神のものは神に返しなさい」です。人間は神に似せて創造され、神の肖像、神の銘が刻まれた「神のもの」です。表面的に装いながら世的悪意や欺きにうつつを抜かすことは、本来のあり方から逸脱した姿です。
そこで「神のものを神に返す」とは、表面的にではなく、心から神を礼拝することです。詩篇51:16に「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。」とありますが、まさしくそのような礼拝です。
2022/6/5 ルカ福音書20:9~18 捨てられた石、礎の石
・ぶどう園のたとえ
主イエスは旧約から新約にいたる救済史を「ぶどう園のたとえ」で語ります。ぶどう園主が農夫たちに契約によって貸付て、長い旅にでました。収穫期を迎えて主人はしもべを遣わしましたが、農夫たちは「袋だたきにし、何も持たせないで送り帰し」ました。その後、別のしもべ、三人目のしもべを遣わしても反逆心をエスカレートするだけでした。
・愛する息子の殺害と契約破綻
最後に、主人は契約に対する誠実を尽くして「愛する息子」を派遣します。農夫たちは、その息子が跡取りだと分かると農園を略奪しようと殺してしまいます。主人はこの反逆と罪により、契約破綻とし、さらに罪に対する報いとして「農夫どもを打ち滅ぼし」、さらに「ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます」と。このたとえの「愛する息子」とは神の子キリストです。
・捨てられた石、礎の石
主イエスは最後に旧約預言を示します。「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」。旧約の民が捨てたキリストが、新約の救いの礎となったということです。
これは単にユダヤの歴史について語ったことではありません。いつの時代にも、どこの地域でも、世の権力者たちはキリストを捨てます。それでも「神の目に選ばれた石」Ⅰペテロ2:4は、永遠の御国の民とされるのです。
2022/5/29 ルカ福音書19:41~48 神の訪れの時
・イエスの嘆き
オリーブ山からエルサレム全景を見渡すことができますが、そのエルサレムに近づいたときに、主イエスは「その都のために泣いて」とあります。シクシクと言うのではなく、大声を上げて泣いたのです。旧約でも預言者たちは、しばしばエルサレムのために嘆げいていますが、主イエスの反応も全く同じでした。それはまた、神ご自身の激しい嘆きの姿です。
・神の訪れの時を知らず
イエスの嘆きの理由は、人々が「神の訪れの時を知らなかった」ということです。つまり神の子キリストが平和の主として到来したのに、彼らはそれとは認めずに、神に反逆したままで、神の子を拒絶したからです。その結果、エルサレムは外敵によって徹底して破壊され、民も滅ぼされることになるのです。
・祈りの家/強盗の巣
実際に主イエスがエルサレム神殿に入ったときに、そこが「商売の場となっている有様を目撃しました。宮聖めの後に、そこは「祈りの家」であるべきなのに「強盗の巣」にしていると指導者たちを責めます。
現代も主イエスは、み言葉とともに私たちのもとに訪れます。そのときに私たちは神の平和と恵みをそのまま受け入れる「祈りの家」でなければなりません。決して人間的な思いと罪の欲望に満ちた「強盗の巣」にしてはならないのです。
2022/5/22 ルカ福音書19:28~40 ろばの子の召命
・エルサレムへ
「イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って」とあります。エリコからエルサレムまでは約25キロ1000mの高低差を上っていくことになります。オリーブ山中腹は、その峠となり、眼下にエルルサレムが眺望できます。主イエスは、エルサレムを前にして、公式に、神のキリストとして入城の準備をします。
・ろばの子の召命
主イエスは細やかに2人の弟子に命じて、村でろばの子を見つけてくるように語ります。もし「なぜ、ほどくのか」と尋ねる人があったら「主がお入用なのです」と言うようにと…。弟子たちが行くと案の定、ろばの子の所有者たちが「なぜ」と詰問するのですが、弟子たちは「主がお入用なのです」と告げると引き渡してくれました。主イエスは、すべてに優先する「主」だからです。
・ろばの子に乗って
「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちはみな…喜んで大声に神を賛美し」とあります。弟子たちが、神を賛美したのはイエス・キリストの入城であり、到来でありましたが、名馬ではなく、柔和なろばの子に乗ってやってきたキリストを喜んだのです。
現代でも、キリストは霊によって人々に届けられますが、その際にも非力であっても、柔和な器を用いられるのです。ただその器に求められることは、召命感です。
2022/5/15 ルカ福音書19:11~27 一ミナの重み
・一ミナずつの下僕たち
主イエスは、主人と一ミナずつ与えられた下僕たちのたとえを話します。そしてご自分が再臨する時までの期間、弟子たちが与えられた賜物を用いてご自身のために奉仕し、忠実に仕える大切さを示します。一ミナとは、当時の貨幣単位で、一デナリの100倍、1タラントの60分の1の価値です。大きくはないのですが、決して小さくはない賜物です。
・最臨時のしもべたち
主人が「王位を受けて帰って来たとき」に、下僕たちはそれぞれ、自分の働きと忠実さについて審判をうけています。はじめの下僕は1ミナで10ミナを儲けたと報告しました。王となった主人は「よくやった。良いしもべだ」「小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者に…」と祝福と報いを与えます。次の下僕は1ミナで5ミナ儲けたと報告し、同じように祝福と報いを受けます。
しかし、もうひとりは、1ミナを預かったのにそれを用いないで「ふろしきに包んでしまって」いたと報告します。その結果、彼は王によって厳しい裁きを受けています。
・一ミナの重み
現代の私たちも、キリストからそれぞれ一ミナずつの賜物を与えられています。それは大きくはないのですが、決して小さくはない価値を持っています。そして、それを用いて忠実に仕えることで、この地上でキリストとの接点を保ち、また再臨の時まで、そのように仕えることが期待されているのです。