・トマス
主イエス復活の証言を聞いた時、トマスは「手に釘の跡を見…手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と主イエスの復活に対して懐疑的でした。彼は目に見えるものに対してはよく反応する人間でしたが、目に見えない世界についてはまったく、懐疑的な人間でした。
・「私の主。私の神。」
その八日後に、復活のイエスは再び、弟子たちの中に現れ、今度はトマスに向かって「指をここに…手を…わきに」と語られます。この時に、トマスは「私の主。私の神。」と応答して信仰告白を新たにします。「主」とはただ先生ということではなく、死から復活した絶対的主ということです。「神」とは、無から有をも創造する方ということです。しかも「私の…」と徹底した個人の信仰告白をしています。
・「見ずに信じる者は幸い」
「…見ずに信じる者は幸いです」とあります。かつてのトマスの世界観は目に見える世界だけでしたが、その結末は絶望的な暗さでした。しかし復活信仰によって招き入れられた世界は、目に見えない神の世界であり、そこは永遠の生命と喜びの世界です。この新たな領域は「見ずに信じる」信仰によってのみ啓かれていく「幸い」な世界です。
2021/4/4 ヨハネ福音書20:24~29 見ずに信じる者は幸い
2021/3/28受難週 ヨハネ福音書19:1~16 「この人を見よ」
・いばらの冠と紫の衣
ローマ総督ピラトはイエスが無罪であることを知って、赦免しようとします。しかしユダヤ人たちはイエスではなく強盗バラバの釈放を求めました。さらにユダヤ人を懐柔しようとして、イエスをむち打ちにし、いばらの冠と紫の衣で愚弄し、「さあ、この人です」と言って、彼らの前に立たせました。
・「十字架につけろ…」
ところがユダヤ人たちは「十字架に付けろ、十字架に付けろ」と激しく叫んだとあります。十字架はローマの極刑であり、律法でも最悪の処罰です。主イエスは正しいとピラトによっても証言されていたのに、彼らは頑なまでもイエスを憎んで、拒絶し、酷たらしい死を望んだのです。
・「この人を見よ」
ユダヤ人たちは、律法によって自分を義とする人々ですが、このようにして最も罪深い状態であったことを顕にしました。それはユダヤ人だけではなく、誰でも自分を義とする人間の実体です。
それに対して、イエスは十字架の苦難の中で、ご自分の正しさと聖さをより際立たせ、その意味で神の子であることを顕にしました。さらには、自分の罪を認識する者にとっては「癒やしの神」「贖いの神」であることを顕にしたのです。
2019/4/21 ヨハネ福音書20:1~18 復活の朝
・復活の朝
マグダラのマリヤが早朝、墓に行ったとき「墓から石が取りのけられているの見」ました。それを聞いた、ペテロとヨハネも墓がからであることを確認しました。しかし誰も、イエスが復活した事実には気がつきませんでした。それは聖書を通して、「イエスが死人の中からよみがえらなければならない」という真理を理解しなければ生じない信仰でした。
・「マリヤ」と「ラボニ」
マリヤは墓からイエスの体が消えたことで、たいへん深い悲しみに陥っていました。その悲しみから解放するために、まず御使いが、次に主イエスご自身が「なぜ泣いているの…」と問いかけます。感情の深みから認識に心を向かわせ、内側から復活信仰を呼び覚ますためでした。
主イエスは、さらに「マリヤ」との呼びかけ彼女を明確な信仰へと導きます。彼女は「ラボニ」と応答しますが、すでに新しい関係が始まっています。
・新しい関係への転換
マリヤは感覚的身体的性向の女性でしたから、主イエスにすがりつこうとしますが、主イエスは「…いけない」と制止します。新しい関係は、感覚的身体的な献身ではないからです。さらに主イエスは「わたしの兄弟たちのところにいって」主イエスが復活して父のもとに上ると「告げなさい」と命令します。それは主イエスの勝利宣言です。復活後の関係は、救いと勝利の言葉と信仰による関係に転換したことを示しています。
2019/4/14 ヨハネ福音書19:1~16 この人を見よ
・この人を見よ
ローマ総督ピラトのもとでイエスは尋問を受けますが、彼はイエスに何の罪も見つけることができませんでした。そこでユダヤ人を懐柔するためにイエスをむち打ち、兵士らに愚弄させ、イバラの冠と紫の衣を着せてユダヤ人たちの前に引き出します。「さあ、この人です」と道化姿で引き出したのです。
・「この人」を捨てる
その時、イエスに対するユダヤ人たちの憎しみと殺意は激しく、憐れみの情どころか「十字架につけろ、十字架につけろ」との叫びが響き渡るだけでした。十字架刑とはローマでは極刑であり、ユダヤ律法では神に呪われた者の刑でした。「木にかけられた者は呪われた者」とあるとおりです。彼らはイエスの生命だけではなく、名も影響も根絶しようと考えたのです。それでもピラトがイエスを助けようとした時に、彼らはカイザルだけが自分たちの王であるとして、完全にイエスを捨て去りました。ヨハネ1:11にある通りです。
・「この人」 と救い
聖書は世を愛し、自分を義とする者は、神に敵対してついには神殺しをなすことを「この人」を通して暴き出しています。
私たちの内にも、この世を愛し、自分を義とする心が宿っていますが、それが如何に罪深いか自省する必要があります。そして自分の罪に気がつく者のみが、「この人」こそ、神の子キリストとして受け容れることができ、そこに宿された救いと永遠の生命を獲得できるのです。
2018/2/25 ヨハネ福音書2:1~11 水がぶどう酒に
・カナの婚礼
主イエスは母と共にカナでの婚礼に招かれていました。ところが婚礼の最中にぶどう酒がなくなりそうになったので、母マリヤはイエスが何とかしてくれるだろうと考えて、そのことを訴えました。それに対して主イエスは「あなたは、わたしと何の関係があるでしょう」と突き放しました。もはや息子ではなく、神の子キリストとしての公の立場だったからです。
・イエスの時
「わたしの時はまだ、来ていません」と主イエスは語っています。イエスを招き、イエスもまた喜んで臨在するところでは主イエスは「わたしの時」、絶対的な恵みと救いの時を用意しているということです。その「時」は、主イエスの十字架と復活の奇跡を反映させるような「時」でした。
この婚姻において信仰者にもたらされる「イエスの時」とは、どのようなものであるか如実に現しているのです。水がぶどう酒に、しかも最良のぶどう酒に変えられた奇跡がそれです。
・私たちの家庭で
このことは現代に生きる私たちの場合にもそのまま適応できます。特に夫婦関係と家庭生活においては如実です。私たちの場合も生活の中で、いつしか人間ゆえの欠け、弱さ、足りなさが顕わになる事があります。それは物質的にもそうですが、愛や誠実、寛容や忍耐において特にそうです。そのようなときにキリストを心と家庭に招き入れている人々は幸いなのです。その家庭には「イエスの時」があり、「水がぶどう酒に」変えられるのです。
2017/12/17 ヨハネ1:14~18 ことばは人となって
・ことばは 人となって
「ことばは人となって…」とあります。「ことば」とはキリストのことを意味しますが、父と同じ神の性質を持つだけではなく、あえて肉体をとって人となったと言うことです。「私たちの間に住まわれた」とは、私たち人間と同じ死と罪が支配する世界で生活したことを意味します。
・「神の子」の栄光
神の「栄光」は、旧約聖書においてもしばしば現されてきました。シナイ山において、ソロモンの神殿において、様々な奇跡において現されました。「この方」も奇跡とことばによって神としての栄光を現しました。さらに十字架において罪の赦しによる栄光、復活において公に神の子としての栄光を現しました。どれもこれも「この方の栄光」は罪人に対する「恵みとまこと」に満ち満ちています。
・「見た」ということ
イエスに伴った弟子たちは「この方の栄光を見た」と証言します。彼はイエスの奇跡とことばに栄光を見たのは明らかです。しかしなによりも十字架の姿に輝くほどの栄光を見たのです。初め惨めな姿に躓いていた彼らでしたが、十字架の意味を知らされた時に神としての「恵みとまこと」の尊い姿を心の目で見ることになったのです。
私たちはこのクリスマスに御言葉をとおして幼子キリストを見るのですが、精霊によって心の目も開かれて「この方の栄光」を輝かしていただくように祈りましょう。
2016/4/24 ヨハネ福音書21:15~19 三度の問い
・ヨハネの子シモン
ペテロの元々の名はシモンです。彼は、イエスとの出会いを通して「ケパ(ペテロ)」と呼ばれるようになりました。ケパとは岩という意味で、教会のリーダーとなり、礎となって支え導くようにとの意味です。
確かに、彼はリーダーとしての素質を持った人物で、誰よりもイエスに従うという思いがありました。しかし、肉の弱さも多分にあり、十字架前にイエスを三度否認するという挫折を体験します。
・三度の問い
復活した主イエスは、そのペテロに対して三度の問いかけをして取り扱われます。「あなたは…わたしを愛しますか」との問いに対して、ぺてろは三度「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」 と応答します。かつて否認したペテロでしたが、主イエスの十字架をとおして愛と恵みを示されて、より深い愛を表明します。
・「わたしの羊を飼いなさい 」
これに対して主イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と三度、畳みかけます。それは教会を養い育てる牧者としての働きへの召命でした。ペテロはそれを、しっかりと受け止めて献身し、召命に応えて、その生涯を全うすることになります。
私たちはペテロとは立場が異なりますが、イエスに対する愛はイエスに対する奉仕として現されるべきであるのは、かわりありません。私たちに対するイエスの召命に、心から献身して応えて行きましょう。
2016/4/17 ヨハネ福音書21:1~14 イエスと共に
・漁へ
弟子たちは、復活のイエスを信じていました。しかし、どのようにして生活したらいいのか分かりませんでした。そこで空腹を満たすために漁に出かけます。しかし、彼らの生き方が誤っていたために一晩中働いても一匹も捕ることができませんでした。
・イエスのことば
「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立」ち、弟子たちに語りかけます。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」。その通りにすると「おびただしい魚」が捕れました。これは右側がいいというのではなく、イエスのことばに従うことが大切であることを示しています。
・交わり
イエスは岸ベで「パンと魚」を用意して「パンを取り…魚も同じように」して弟子たちに与えました。主イエスは弟子たちと食事の交わりと共に霊の交わりをされたのです。主イエスとの交わりの中で弟子たちは霊肉共に養われたのです。このようにして、弟子たちはイエスの昇天にいたるまで、訓練されて、成熟した者たちに変えられていったのです。
・イエスと共に
私たちもこれと同じです。キリストを信じた後、キリスト者としてどのようにして生きて行くか、訓練が必要です。それはみ言葉に聞き従うこと、イエスとの交わりを保つことです。それによって、この地上でもイエスと共に生きることが可能となります。
2016/4/10 ヨハネ福音書20:30~31 いのちを得るため
・The Bookの宗教
ヨハネ福音書の著者は弟子のヨハネで、「イエスが愛された弟子」と自己紹介しています。それは最も身近でイエスを知り、観察できた者ということです。またヨハネと共にいた使徒団も「彼の証しは真実」と証言しています。
神の真理は「ことば」を通して伝えるという旧約の伝統がありますが、イエスにある真理も「ことばを通して完全に伝えられるのです。まさしくキリスト教は「The Book」の宗教です。
・「しるし」と神の子キリスト
ヨハネは福音書を書いた目的の1つはイエスがなした「しるし」を伝えるためであると語ります。「しるし」とは、真理を示すための奇跡ということです。つまりはイエスの7つ奇跡を通して、彼こそ神の子キリストであることを知るためということです。またイエスは奇跡と共に、様々な形で「わたしは…です(エゴ エミー)」と語られ、ご自分でも神の子、絶対者であることを示しております。
・いのちを得るため
また「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため」とあります。「いのち」とは地上のいのち(プシュケー)とことなる永遠のいのち(ゾエー)のことです。地上のいのちは罪があり滅ぶものですが、永遠のいのちは神に愛され、交わりを持ち、永遠に生き、復活するいのちです。私たちは、地上のいのちの弱さを覚え、イエスが提供している永遠のいのちを是非とも獲得すべきです。
2016/4/3 ヨハネ福音書20:19~29 見ずに信じる者は幸い
・イエスが来られ
週の初めの夕方、復活のイエスは弟子たちがいた部屋に来て、彼らにその姿を現しました。しかし、トマスだけはそこにおりませんでした。彼は誰よりも目に見えるものに執着し、目に見えないものには疎い人物でした。また世界観と視野が狭い傾向がありました。その分、彼が誰よりも愛したイエスを失った時に、絶望感も人一倍に強かったと言えます。
・「見たら信じる」
他の弟子たちが「私たちは主を見た」と語った時、トマスは「手に釘の跡を見…わきに差し入れてみなければ、決して信じません」と語っています。しかしその心は絶望感に打ちひしがれており、信じる気持ちは毛頭ありませんでした。これはトマスだけではなく、アダム以来、自分の感覚と考えにのみ執着する者の反逆性を帯びた態度です。
・「見ずに信じるものは幸い」
しかし、主イエスはトマスをも愛して、トマスのためにもう一度、現れ、ご自分の手とわき腹を差しだします。この時、トマスは自分の不信仰と罪に深く気づいて悔い改めています。「私の主。私の神。」との信仰告白は、他の弟子たちを越えた告白となっています。
最後に主イエスは「見ずに信じるものは幸いです」と語られますが、それは私たちに対しても語っておられることです。
2017/3/27 ヨハネ福音書20:1~18 復活の朝
・まだ暗いうちに
マグダラのマリヤは「朝早くまだ暗いうち」に墓に来ました。すると墓から石が取りのけられていたので、ペテロとヨハネに知らせます。彼らが来て墓の中を確認すると亜麻布だけが置いてある、イエスの亡骸は見いだすことができませんでした。彼らは不思議に思うだけでした。「まだ暗いうち」というのは辺りが暗かっただけではなく、彼らの心と信仰が暗いままであったことを暗示しています。
・なぜ泣いているのか
マリヤは墓に留まって泣いているとはじめにみ使いが「なぜ泣いているのですか」と問いかけます。次にうしろにいたイエスも同じ問いかけをします。
主イエスは暗闇と悲しみの中にある人に対して、まず「なぜ」と問いかけます。その人は、イエスの前で「なぜ」に答えようとする時、次第に悲しみと絶望から解放される方向に心が向けられていきます。
・復活の朝
「マリヤ」という個人的な呼びかけによって、彼女はイエスを認めます。「羊は彼の声を知っている」とあるとおりです。彼女もまた「ラボニ」と応答します。
また主イエスはすがりつくことを禁じます。そして弟子たちにイエスの復活の事実、さらに昇天することを告げるように命じます。目に見えるものに依存せず、未来における再会に向かって生きるように促しているのです。
マリヤの体験した復活の朝を、私たちも同じように迎えましょう。
2016/3/20 ヨハネ福音書19:28~37 救いは完了した
・「わたしは渇く」
福音書記者ヨハネはイエスの最後を淡々と記します。「わたしは渇く」とあります。臨終に人は「渇く」のですが、主イエスもなだめの生贄として一切の苦しみを体験し、生命が尽きて、肉体と霊とが共に渇いているのです。それはまたキリスト預言でもありました。
・「完了した」
「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた 」とあります。一切の苦難をなめ尽くして、それが「完了した」のです。イエスの苦難はすべての人の身代わり、なだめとしての苦難でした。兵士がイエスのわき腹に槍を刺した時に「血と水が出て来た」とあります。その血は贖いの印であり、水は聖めの印です。
・信仰によって
神の子キリストの贖いをどのようにして、わたしのものとすることができるでしょうか。もはや私自身の罪のために払う代価も苦難も必要はありません。ただ自分の無力さを認めて、イエスが私のために死んだことを信じることです。そして流された血潮を受け取ることだけが大切なのです。
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」ヘブル10:22
2016/3/6 ヨハネ福音書19:1~16 この人を見よ
・イバラの冠と紫の衣
総督ピラトはイエスを兵士たちに渡して愚弄させ、ユダヤ人の憐れみを誘おうとしました。しかし悪者のあわれみは残忍で、虐待はエスカレートしています。人間の内にある残虐性が顕わになっているのです。
さらには「いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた」とあります。
・この人を見なさい
ピラトは無様な姿のイエスをユダヤ人の前に連れ出して「さあ、この人です」と語ります。しかしユダヤ人は憐れむどころか憎悪と殺意をむき出して叫びます。「十字架につけろ。十字架につけろ。」と。十字架刑は当時、最低最悪の死刑手段でした。ユダヤ人たちは、神の子に対して十字架を要求したのですが、それは神に対する罪人たちの態度と言葉の本質です。
・私たちの模範として
「さあ、この人です」という言葉は西欧で“エッケ ホモ”と言い、理想の人間像とされることがあります。侮蔑された神の子の姿こそ、正しい人間の姿であるということです。それは地上においては罪悪が横行し、罪のない正しい人々がしばしば虐待されたり、非難されたり、嘲笑されたりすることが多いからです。
ですから私たちが、毎日の生活において非難や嘲笑の対象になったとしても恥じることはありません。むしろ神のため、義のためにうける非難なので、喜んでいいのです。
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