・「わたしは渇く」
福音書記者ヨハネはイエスの最後を淡々と記します。「わたしは渇く」とあります。臨終に人は「渇く」のですが、主イエスもなだめの生贄として一切の苦しみを体験し、生命が尽きて、肉体と霊とが共に渇いているのです。それはまたキリスト預言でもありました。
・「完了した」
「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた 」とあります。一切の苦難をなめ尽くして、それが「完了した」のです。イエスの苦難はすべての人の身代わり、なだめとしての苦難でした。兵士がイエスのわき腹に槍を刺した時に「血と水が出て来た」とあります。その血は贖いの印であり、水は聖めの印です。
・信仰によって
神の子キリストの贖いをどのようにして、わたしのものとすることができるでしょうか。もはや私自身の罪のために払う代価も苦難も必要はありません。ただ自分の無力さを認めて、イエスが私のために死んだことを信じることです。そして流された血潮を受け取ることだけが大切なのです。
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」ヘブル10:22