・墓石が動いて
「安息日が終わったので」マグダラのマリヤたちは、イエスの体に香油を塗るために、墓に向かいました。いわば過去のイエスの追憶に向かったのです。彼女たちは、大きな墓石をどのようにして動かしたらよいのかと心配を抱えていましたが、しかし墓に着くと大きな墓石がすでに転がされていました。
・「あの方はよみがえられました」
彼女たちは、墓に入ったところ、イエスの体はなく「真っ白な長い服をまとった青年が右側にすわっているのが見え」ました。その青年(御使い)は、空の墓の意味について次のように語ります。
「あの方はよみがえられました。ここには おられません。」
空の墓について、色々な人々が様々な解釈をします。しかし、この言葉は神の言葉であり、神の解釈であり、どのような人間の解釈よりも真実です。
・ガリラヤへ
さらに御使いは「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。…そこでお会いできます。」と告げます。ガリラヤは弟子たちの故郷で、イエスとの思い出の場所です。しかし御使いが示す「ガリラヤ」は新しいガリラヤであり、未来における復活のイエスと出会いを意味します。
この後、み言葉に従って弟子たちと女性たちは、ガリラヤに向かい、そこで約束の通りに、復活のイエスに出会い、礼拝します。そこでも主イエスはみ言葉を告げて、弟子たちの心を未来に向けています。
2022/4/17 イースター礼拝 マルコ福音書16:1~8 墓石が動いて
2018/9/30 召天者記念礼拝 「復活の証人」 マルコ12:18~27
・生ける神
主イエスはサドカイ人たちとの復活論争において、出エジプト記3章をとおして、神がどのようなお方であるか示しています。
そこではモーセが羊飼い時代にシナイ山に赴いたときに不思議な光景を目撃したことが記されています。「火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった 」とあります。つまり神は常に生きておられる方であることです。
・生きている者の神
しかしまた、ここでは神のもう一つのご性格が啓示されています。「神がその燃える柴の中から語りかけて『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』 」とあります。このことばは、神が民との関係をもけっして絶えさせることがない方であることを示されまています。主イエスはこの言葉を引用して、死者の復活の証明としています。つまり「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」とあるとおりです。神は信仰によって御民とした者をいつまでも覚えておられて、必ず復活に至らせるということです。
・復活の証人
私たちの教会の召天者たちも、見える形ではその姿を見ることができませんが、神に覚えられ、神と共に生きている人々です。真実な神は、主イエスによって、その約束の通り新しい肉体の復活に至らせてくださるのです。そこで召天者たちは、私たちにとって、復活の証人として、声なき声で証し続けています。
2012/5/13 母の日礼拝 マルコ7:24~30
・女性の求め
主イエスがツロ・フェニキヤ行ったときに、ギリシャ人の女がひれ伏し、願い続けました。小さい娘が「汚れた霊」につかれ、誰にも癒してもらうことができなかったのです。
・主イエスの拒絶
しかし主イエスは彼女の求めを拒絶して次のように語ります。「子供たちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです。」 子供たちとは、ユダヤ人のことを意味し、小犬とは異邦人の女あるいはその娘のことです。少々、侮蔑した言葉です。
・女の信仰
それでも女性は引き下がらずに次のように切り返します。「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」。 自分を小犬にしてへりくだり、徹底して主イエスのあわれみを求めています。また「パンくず」ほどの恵みでも癒されるという強い信仰が見られます。
主イエスは、女性の信仰に驚きます。「女が家に帰ってみると・・・悪霊はもう出ていた」とあります。
・子育てと信仰
この女性の信仰は、子育てをする母たちが、共通して要請される信仰です。毎日の生活で、子どもたちは色々な「悪霊」の脅威にさらされ、時にはひどく困難な問題が起こってくるのです。その時、祈りが答えられないからといってへこたれることなく、どこまでも祈り続けることです。そのときに、母の信仰も飛躍し、子どもも癒されます。
主イエスがツロ・フェニキヤ行ったときに、ギリシャ人の女がひれ伏し、願い続けました。小さい娘が「汚れた霊」につかれ、誰にも癒してもらうことができなかったのです。
・主イエスの拒絶
しかし主イエスは彼女の求めを拒絶して次のように語ります。「子供たちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです。」 子供たちとは、ユダヤ人のことを意味し、小犬とは異邦人の女あるいはその娘のことです。少々、侮蔑した言葉です。
・女の信仰
それでも女性は引き下がらずに次のように切り返します。「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」。 自分を小犬にしてへりくだり、徹底して主イエスのあわれみを求めています。また「パンくず」ほどの恵みでも癒されるという強い信仰が見られます。
主イエスは、女性の信仰に驚きます。「女が家に帰ってみると・・・悪霊はもう出ていた」とあります。
・子育てと信仰
この女性の信仰は、子育てをする母たちが、共通して要請される信仰です。毎日の生活で、子どもたちは色々な「悪霊」の脅威にさらされ、時にはひどく困難な問題が起こってくるのです。その時、祈りが答えられないからといってへこたれることなく、どこまでも祈り続けることです。そのときに、母の信仰も飛躍し、子どもも癒されます。
2011/4/24 マルコ16:1~20 イエスは甦られた
・週の初めの日の早朝
主イエスは安息日が終わった次の日に甦られました。そのとき、女たちが墓に向かいましたが、すでに大きな石が動き、墓の入口は開いていました。
古い時代が過ぎ去って、キリストの甦りと共に新しい時代が到来していたのです。そこでは一切が変転し、罪も死も、心配も不安も、大きく重い問題も、すべてのキリストの勝利に飲み込まれているのです。
・主イエスは甦られた
「あの方はよみがえられました」とは墓の中にいた白い衣の天使の言葉です。それは第1に、墓が空である理由を示した言葉、第2にその事実を示す言葉、第3にキリストの救済の御業の一切が完遂されたことを示す言葉です。しかし、神のことばですから、それ自体が復活の力を持ちます。そして主イエスの復活の出来事は、見て分かるよりも、聞いて信じることが重要なのです。それによって復活の力と勝利は私たちを飲み込み、私たちの内側にも影響を及ぼすのです。
・ガリラヤ、さらに全世界へ
天使は「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます」と告げます。そこでイエスと出会い、礼拝することができるのです。
私たちの礼拝もまた、甦りのイエスと出会う場です。そこで私たちはイエスの救いの一切を受け取り、甦りの力が与えられ、神の愛に満たされるのです。
さらに宣教命令が加えられます。「全世界に出て行き・・・福音を宣べ伝えなさい」とあります。復活の生命は、満ちあふれていくのです。
主イエスは安息日が終わった次の日に甦られました。そのとき、女たちが墓に向かいましたが、すでに大きな石が動き、墓の入口は開いていました。
古い時代が過ぎ去って、キリストの甦りと共に新しい時代が到来していたのです。そこでは一切が変転し、罪も死も、心配も不安も、大きく重い問題も、すべてのキリストの勝利に飲み込まれているのです。
・主イエスは甦られた
「あの方はよみがえられました」とは墓の中にいた白い衣の天使の言葉です。それは第1に、墓が空である理由を示した言葉、第2にその事実を示す言葉、第3にキリストの救済の御業の一切が完遂されたことを示す言葉です。しかし、神のことばですから、それ自体が復活の力を持ちます。そして主イエスの復活の出来事は、見て分かるよりも、聞いて信じることが重要なのです。それによって復活の力と勝利は私たちを飲み込み、私たちの内側にも影響を及ぼすのです。
・ガリラヤ、さらに全世界へ
天使は「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます」と告げます。そこでイエスと出会い、礼拝することができるのです。
私たちの礼拝もまた、甦りのイエスと出会う場です。そこで私たちはイエスの救いの一切を受け取り、甦りの力が与えられ、神の愛に満たされるのです。
さらに宣教命令が加えられます。「全世界に出て行き・・・福音を宣べ伝えなさい」とあります。復活の生命は、満ちあふれていくのです。
2011/4/17 マルコ15:22~41 十字架のイエス
・十字架のイエス・・初めの3時間
主イエスはゴルゴダの丘で午前9時に十字架につけられました。その際に、主イエスは「没薬を混ぜた暴動」を飲むことなく、苦しみの限りを経験されます。また人々の罵りにさらされ、精神的にも辛さの中におかれていました。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことを」(Ⅰペテロ2:22)しませんでした。
・十字架のイエス・・暗闇の3時間
正午から午後3時まで「全地が暗く」なりました。神が御子を怒り呪ったことが、自然現象として現れたのです。それは絶望の極致でした。
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」という叫びは、ご自分の絶望感からの叫びと共に、詩篇22:1の預言の成就です。主イエスは十字架で私たち罪人の身代わりとなられたのです。
・「まことに神の子」
「正面に立っていた百人隊長」は「この方はまことに神の子であった」と告白します。の主イエスが十字架の上で、一切の苦しみを拒むことなく、そのまま受容された姿に、不思議な感銘、神々しさを覚えたのです。
私たちもまた、百人隊長のように「正面に立って」十字架の主イエスを見上げるときに、感銘と覚え、同じ告白をせずにはいられません。また、その一切が、私たちの罪の身代わりとしてと思うときに深い感謝を持ち、礼拝するのみです。
主イエスはゴルゴダの丘で午前9時に十字架につけられました。その際に、主イエスは「没薬を混ぜた暴動」を飲むことなく、苦しみの限りを経験されます。また人々の罵りにさらされ、精神的にも辛さの中におかれていました。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことを」(Ⅰペテロ2:22)しませんでした。
・十字架のイエス・・暗闇の3時間
正午から午後3時まで「全地が暗く」なりました。神が御子を怒り呪ったことが、自然現象として現れたのです。それは絶望の極致でした。
「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」という叫びは、ご自分の絶望感からの叫びと共に、詩篇22:1の預言の成就です。主イエスは十字架で私たち罪人の身代わりとなられたのです。
・「まことに神の子」
「正面に立っていた百人隊長」は「この方はまことに神の子であった」と告白します。の主イエスが十字架の上で、一切の苦しみを拒むことなく、そのまま受容された姿に、不思議な感銘、神々しさを覚えたのです。
私たちもまた、百人隊長のように「正面に立って」十字架の主イエスを見上げるときに、感銘と覚え、同じ告白をせずにはいられません。また、その一切が、私たちの罪の身代わりとしてと思うときに深い感謝を持ち、礼拝するのみです。
2011/4/10 マルコ15:16~21 クレネ人シモンの十字架
・紫の衣とイバラの冠
主イエスは大勢のローマ兵士たちによって愚弄されました。彼らは主イエスに「紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせて」「ユダヤ人の王さま、バンザイ」と葦の棒で頭をたたいたり、つばきをかけたりしました。
彼らは「ユダヤ人の王キリスト」とは偽りで、十字架に定められた者、反国家、反社会的存在としてあらん限りの乱暴をしたのです。
・ヴィラ・ドロロ-サ
「イエスを十字架につけるために連れ出した」とあります。十字架刑を受ける者は、見せしめのため町中の道を歩かされました。主イエスが歩いた道は、ヴィラ・ドロローサ(苦しみの道)と呼ばれています。主イエスが予告されたように、十字架の道を歩むことが主イエスの道でした。それはその名の通り、苦難の道であり、悲しみの道、辱めの道、罵りの道でした。
・クレネ人シモンの十字架
十字架の時は、いかなる人でも主イエスの側に立つことが困難になるものです。しかしクレネ人シモンは強制的にではあったにしろ、主イエス・キリストのために十字架を負ったのです。
その時には、決して喜ばしく思えませんでしたが、シモンの十字架体験は恵みと祝福となりました。事実彼の家庭はクリスチャンホームとなり、彼だけではなく妻も子どもたちは立派な働き人となったのです。
ピリピ1:29に「キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わった」とありますが、この御言葉は真実です。
主イエスは大勢のローマ兵士たちによって愚弄されました。彼らは主イエスに「紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせて」「ユダヤ人の王さま、バンザイ」と葦の棒で頭をたたいたり、つばきをかけたりしました。
彼らは「ユダヤ人の王キリスト」とは偽りで、十字架に定められた者、反国家、反社会的存在としてあらん限りの乱暴をしたのです。
・ヴィラ・ドロロ-サ
「イエスを十字架につけるために連れ出した」とあります。十字架刑を受ける者は、見せしめのため町中の道を歩かされました。主イエスが歩いた道は、ヴィラ・ドロローサ(苦しみの道)と呼ばれています。主イエスが予告されたように、十字架の道を歩むことが主イエスの道でした。それはその名の通り、苦難の道であり、悲しみの道、辱めの道、罵りの道でした。
・クレネ人シモンの十字架
十字架の時は、いかなる人でも主イエスの側に立つことが困難になるものです。しかしクレネ人シモンは強制的にではあったにしろ、主イエス・キリストのために十字架を負ったのです。
その時には、決して喜ばしく思えませんでしたが、シモンの十字架体験は恵みと祝福となりました。事実彼の家庭はクリスチャンホームとなり、彼だけではなく妻も子どもたちは立派な働き人となったのです。
ピリピ1:29に「キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わった」とありますが、この御言葉は真実です。
2011/4/3 マルコ15:1~15 ユダヤ人の王
・ユダヤ人の王
祭司長とユダヤ議会は主イエスを死刑にしようとして、ローマ総督ピラトに引き渡します。訴えの罪状は「ユダヤ人の王」でした。ユダヤ人の王とはキリストを意味し、旧約以来、ユダヤ人が待望していた救い主のことでした。
主イエスはピラトの前でも、ご自分が「ユダヤ人の王」であることを否認しませんでした。
・彼らは王を捨てる
ユダヤ人たちの憎しみはエスカレートしていきます。彼らはかたくなに主イエスを拒み、むしろ強盗の釈放を求めます。さらに主イエスに対して「十字架につけろ」と憎しみと殺意をむき出しに、徹底して捨て去りました。
・旧約の終わり
マルコ12章「ぶどう園のたとえ話」はこの出来事を予知しています。父の神がユダヤ人に対して預言者らを送り、最後にご自分の愛する一人子を与えて悔い改めを求めたのに、彼らは御子を拒絶し、殺害するに到るのです。それは旧約の終わりとなり、彼ら自身も捨てられる出来事となりました。
・新しい契約の「礎の石」
しかし全能の神は旧約を終わらせると同時に、新しい契約を異邦人に対しても提供されます。主イエスは新しい契約の「礎の石」となりました。すべての罪人の罪を赦し、ただ恵みによってすべての人を受け入れる礎です。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない」ローマ9:33とあるとおり、誰でもイエスをキリストと信じる者は、救われるのです。
祭司長とユダヤ議会は主イエスを死刑にしようとして、ローマ総督ピラトに引き渡します。訴えの罪状は「ユダヤ人の王」でした。ユダヤ人の王とはキリストを意味し、旧約以来、ユダヤ人が待望していた救い主のことでした。
主イエスはピラトの前でも、ご自分が「ユダヤ人の王」であることを否認しませんでした。
・彼らは王を捨てる
ユダヤ人たちの憎しみはエスカレートしていきます。彼らはかたくなに主イエスを拒み、むしろ強盗の釈放を求めます。さらに主イエスに対して「十字架につけろ」と憎しみと殺意をむき出しに、徹底して捨て去りました。
・旧約の終わり
マルコ12章「ぶどう園のたとえ話」はこの出来事を予知しています。父の神がユダヤ人に対して預言者らを送り、最後にご自分の愛する一人子を与えて悔い改めを求めたのに、彼らは御子を拒絶し、殺害するに到るのです。それは旧約の終わりとなり、彼ら自身も捨てられる出来事となりました。
・新しい契約の「礎の石」
しかし全能の神は旧約を終わらせると同時に、新しい契約を異邦人に対しても提供されます。主イエスは新しい契約の「礎の石」となりました。すべての罪人の罪を赦し、ただ恵みによってすべての人を受け入れる礎です。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない」ローマ9:33とあるとおり、誰でもイエスをキリストと信じる者は、救われるのです。
2011/3/27 マルコ14:53~72 ペテロの否認
・イエス
主イエスは大祭司邸で祭司長、長老、律法学者の尋問を受けます。彼らは初めから主イエスを死刑にする訴えを探しましたが、罪を認めることができませんでした。最後に大祭司が「あなたはキリストですか」という質問に対して、明確に「私は、それです」と告白します。暗黒の中でも、主イエスは真実と誠実を保たれました。そこに神の子としての栄光が輝いたのです。
・ペテロの否認
ペテロの詰問も同時進行します。彼は自分の正体を隠してを大祭司の下の庭で火にあたっていました。一人の女中は彼に対して詰問して言います。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね」。ペテロは否認します。2度目もそうでした。3度目には他の者たちも「この人はあの仲間」と言いだします。ペテロは「のろいをかけて誓い」強く否定します。
「鶏が、二度目に鳴いた」とき、彼は主イエスの予知を思い起こし、自らの信仰の弱さ、罪を深く思い知り「泣き出」しました。それは自分の力を過信する信仰者の結末です。
・回復
やがてペテロは信仰を回復させ、大使徒と呼ばれる良き信仰者とされます。そのためにはどうしても、この辛い体験を通る必要があったのです。自分の意志や力を過信、肉の側面が打ち砕かれて、初めて純粋にキリストを信じる信仰が養われ始めたのです。
「・・・キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」Ⅰペテロ2:24とあります。ペテロだけではなく、私たちも自分の弱さと罪を思い知り、キリストによって癒されて初めて、良き信仰者としての土台を築くのです。
主イエスは大祭司邸で祭司長、長老、律法学者の尋問を受けます。彼らは初めから主イエスを死刑にする訴えを探しましたが、罪を認めることができませんでした。最後に大祭司が「あなたはキリストですか」という質問に対して、明確に「私は、それです」と告白します。暗黒の中でも、主イエスは真実と誠実を保たれました。そこに神の子としての栄光が輝いたのです。
・ペテロの否認
ペテロの詰問も同時進行します。彼は自分の正体を隠してを大祭司の下の庭で火にあたっていました。一人の女中は彼に対して詰問して言います。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね」。ペテロは否認します。2度目もそうでした。3度目には他の者たちも「この人はあの仲間」と言いだします。ペテロは「のろいをかけて誓い」強く否定します。
「鶏が、二度目に鳴いた」とき、彼は主イエスの予知を思い起こし、自らの信仰の弱さ、罪を深く思い知り「泣き出」しました。それは自分の力を過信する信仰者の結末です。
・回復
やがてペテロは信仰を回復させ、大使徒と呼ばれる良き信仰者とされます。そのためにはどうしても、この辛い体験を通る必要があったのです。自分の意志や力を過信、肉の側面が打ち砕かれて、初めて純粋にキリストを信じる信仰が養われ始めたのです。
「・・・キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」Ⅰペテロ2:24とあります。ペテロだけではなく、私たちも自分の弱さと罪を思い知り、キリストによって癒されて初めて、良き信仰者としての土台を築くのです。
2011/3/20 マルコ14:43~50 ユダの裏切り
・ユダの裏切り
神の国に暗黒の力が押し寄せました。イスカリオテのユダは悪の力に飲み込まれて、主イエスを裏切ることになります。彼は十二弟子に選ばれていたのですが、悪に染まり、その悪が熟して、ついに公然とした反逆心が芽生え、裏切りという行動に向かったのです。
彼は「剣や棒を手にした群衆」を隠れ場に導き、イエスに口づけして認知させました。面従腹背という言葉がありますが、それがさらに公然とされたのです。
・他の弟子たちの弱さ
暗やみの力の中で、ある弟子は剣で対抗しようとしますが、結局は逃げ去ります。絶望感と恐怖心が彼を覆ってしまったからです。また「ある青年(マルコ)」が途中までついて行きますが、彼もまた惨めな姿で逃げ帰ります。
圧倒的な悪の力の中で、他の弟子たちも、自分の弱さが顕わになってしまったのです。地上の悪の力というのは、それが牙をむきだしたときには、もはや人間の力では対抗できないのです。
・暗やみの力の中で
主イエスは裏切りも捕縛も、さらに十字架さえも、すべて「聖書が成就するため」と語っています。つまり「暗やみの時」の一切は神の救いのご計画に含まれているということです。救いは、暗やみの時を通り抜けた向こうにあるのです。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、・・・捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない 。」8:31のです。
このことは私たちの信仰の日々でも全く同じです。ただ暗やみのときに弱さが顕わになったとしても「ユダにはなるまじ」と言うことです。
神の国に暗黒の力が押し寄せました。イスカリオテのユダは悪の力に飲み込まれて、主イエスを裏切ることになります。彼は十二弟子に選ばれていたのですが、悪に染まり、その悪が熟して、ついに公然とした反逆心が芽生え、裏切りという行動に向かったのです。
彼は「剣や棒を手にした群衆」を隠れ場に導き、イエスに口づけして認知させました。面従腹背という言葉がありますが、それがさらに公然とされたのです。
・他の弟子たちの弱さ
暗やみの力の中で、ある弟子は剣で対抗しようとしますが、結局は逃げ去ります。絶望感と恐怖心が彼を覆ってしまったからです。また「ある青年(マルコ)」が途中までついて行きますが、彼もまた惨めな姿で逃げ帰ります。
圧倒的な悪の力の中で、他の弟子たちも、自分の弱さが顕わになってしまったのです。地上の悪の力というのは、それが牙をむきだしたときには、もはや人間の力では対抗できないのです。
・暗やみの力の中で
主イエスは裏切りも捕縛も、さらに十字架さえも、すべて「聖書が成就するため」と語っています。つまり「暗やみの時」の一切は神の救いのご計画に含まれているということです。救いは、暗やみの時を通り抜けた向こうにあるのです。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、・・・捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない 。」8:31のです。
このことは私たちの信仰の日々でも全く同じです。ただ暗やみのときに弱さが顕わになったとしても「ユダにはなるまじ」と言うことです。
2011/3/13 マルコ14:32~42 ゲッセマネの祈り
・ゲッセマネ
主イエスは十字架前夜、ゲッセマネというオリーブ山の園で祈りの時を持ちました。その祈りは「悲しみのあまり死ぬほど」と告白しているほどに苦悶に満ちていました。
ゲッセマネはいわば十字架直前の前哨戦の場であり、主イエスはそこでの祈りにおいて勝利して、十字架に向かっていったのです。
・ゲッセマネの祈り/その1
「アバ、父よ」と主イエスは心からの信頼を持って父の神に祈っています。主イエスは神の一人子しての権利を持ち、自由なる祈りが聞き届けられてきました。
「この杯」とは十字架の苦難を意味します。神の怒りと呪い、家族と弟子たちとの関係の破局、旧約の民との断絶など暗黒の時を意味しました。その苦しみを回避しようとすることは、人の弱さを知る方として当然の求めでした。
・ゲッセマネの祈り/その2
また主イエスは、祈りが「あなたのみこころ」を聞きそれに従う決意をする場であることを心得ていました。神の御心は預言の言葉で示されていましたが、十字架直前にさらに深く、強く、明瞭に示される必要があったのです。
この両者の狭間での苦悶の祈りが続きましたが、主イエスは最終的に「わたしの願い」を放棄し、父の御心を自分の使命とするのです。
・私たちのゲッセマネ
主イエスはその間、眠りこけていた弟子たちに対して「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい」と命令しています。
これは同時に私たちに対する命令であり、私たちの場合も様々な誘惑に勝つにはゲッセマネの祈りを模範として祈り続けることが肝要です。
主イエスは十字架前夜、ゲッセマネというオリーブ山の園で祈りの時を持ちました。その祈りは「悲しみのあまり死ぬほど」と告白しているほどに苦悶に満ちていました。
ゲッセマネはいわば十字架直前の前哨戦の場であり、主イエスはそこでの祈りにおいて勝利して、十字架に向かっていったのです。
・ゲッセマネの祈り/その1
「アバ、父よ」と主イエスは心からの信頼を持って父の神に祈っています。主イエスは神の一人子しての権利を持ち、自由なる祈りが聞き届けられてきました。
「この杯」とは十字架の苦難を意味します。神の怒りと呪い、家族と弟子たちとの関係の破局、旧約の民との断絶など暗黒の時を意味しました。その苦しみを回避しようとすることは、人の弱さを知る方として当然の求めでした。
・ゲッセマネの祈り/その2
また主イエスは、祈りが「あなたのみこころ」を聞きそれに従う決意をする場であることを心得ていました。神の御心は預言の言葉で示されていましたが、十字架直前にさらに深く、強く、明瞭に示される必要があったのです。
この両者の狭間での苦悶の祈りが続きましたが、主イエスは最終的に「わたしの願い」を放棄し、父の御心を自分の使命とするのです。
・私たちのゲッセマネ
主イエスはその間、眠りこけていた弟子たちに対して「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい」と命令しています。
これは同時に私たちに対する命令であり、私たちの場合も様々な誘惑に勝つにはゲッセマネの祈りを模範として祈り続けることが肝要です。
2011/3/6 マルコ14:12~26 最後の晩餐
・最後の晩餐
主イエスは十字架前夜、弟子たちと共に過越の食事をしました。主イエスの預言の通り、とある家の2階では、食事の用意ができていました。イエスが彼らをその場に招いたという事です。
私たちもまた導きによって一つ教会に集められていますが、一人一人がキリストによって愛され、覚えられて招かれているのです。
・心をきよめる事
食事の前に、主イエスは弟子たちを試みながら、イスカリオテのユダが裏切りを暗示します。間もなく彼はそこから離れます。
私たちは聖餐に際し、自分の信仰を確かめる必要があります。裏切りでもなく、中途半端な心でもなく、悔い改めと信仰と献身の思いを持って聖餐にあずかることが大切です。
・1つの体から裂かれたパン
「パンを取り・・・「これはわたしのからだです」」と。聖餐式のパンはキリストの体を象徴します。やがてキリストが十字架上で肉体を裂かれるように、それは裂かれ、提供されることを示しています。ただその時代の弟子たちだけではなく、すべての時代のすべての人に提供されています。私たちが御言葉を信じて食するときに、それは私たちの内でキリストの生命となります。
・1つの血であるブドウの杯
「これはわたしの契約の血」。ブドウの杯はキリストの血を象徴します。昔から契約の際には血がながされました。それにより古い罪過がきよめられ、新しい契約の締結となるのです。私たちは約束の言葉を信じて飲むときに、新しい契約により神の子とされるのです。
主イエスは十字架前夜、弟子たちと共に過越の食事をしました。主イエスの預言の通り、とある家の2階では、食事の用意ができていました。イエスが彼らをその場に招いたという事です。
私たちもまた導きによって一つ教会に集められていますが、一人一人がキリストによって愛され、覚えられて招かれているのです。
・心をきよめる事
食事の前に、主イエスは弟子たちを試みながら、イスカリオテのユダが裏切りを暗示します。間もなく彼はそこから離れます。
私たちは聖餐に際し、自分の信仰を確かめる必要があります。裏切りでもなく、中途半端な心でもなく、悔い改めと信仰と献身の思いを持って聖餐にあずかることが大切です。
・1つの体から裂かれたパン
「パンを取り・・・「これはわたしのからだです」」と。聖餐式のパンはキリストの体を象徴します。やがてキリストが十字架上で肉体を裂かれるように、それは裂かれ、提供されることを示しています。ただその時代の弟子たちだけではなく、すべての時代のすべての人に提供されています。私たちが御言葉を信じて食するときに、それは私たちの内でキリストの生命となります。
・1つの血であるブドウの杯
「これはわたしの契約の血」。ブドウの杯はキリストの血を象徴します。昔から契約の際には血がながされました。それにより古い罪過がきよめられ、新しい契約の締結となるのです。私たちは約束の言葉を信じて飲むときに、新しい契約により神の子とされるのです。
2010/7/4 マルコ14:1~7 ナルドの香油
・ナルドの香油
一人の女が「純粋で、非常に高価なナルド油」をイエスの頭に注ぎました。香油は女の奉仕の質を象徴しているようでした。人間的不純な意図が何一つ含有せず、自分の命をささげきるような奉仕と言うことです。ナルド油と共に、女の奉仕の香りが漂っているのです。
・弟子たちの憤慨
「何人かの者が憤慨し」とあります。彼らは表向きは貧しい人たちのことを思っているようですが、実際は人間的欲が隠れていました。いくら良い奉仕と言っても、人間的欲や意図が付きまとっていたのでは、奉仕は嫌な臭いも付きまといます。
・イエスの評価・・立派と
「わたしのために、りっぱなこと」と主イエスは、女の奉仕を評価します。女は主イエスから受けた恵みの応答として、香油を注ぐ奉仕をしただけだったのです。女もまた、自分のニーズにあった自分のための有り余る贖いを受けていたのです。
主イエスは御自身の恵みの応答としてなす心からの奉仕をすべて快く受け取って祝福してくださいます。
・福音の記念の香
「福音が宣べ伝えられる所なら・・記念となる」。福音とは、主イエスの恵みと救いを入れる器です。福音が伝えられ、受け入れられるところでは、いつでも救いが実現します。そして応答としての奉仕によりキリストの香りが漂うのです。
一人の女が「純粋で、非常に高価なナルド油」をイエスの頭に注ぎました。香油は女の奉仕の質を象徴しているようでした。人間的不純な意図が何一つ含有せず、自分の命をささげきるような奉仕と言うことです。ナルド油と共に、女の奉仕の香りが漂っているのです。
・弟子たちの憤慨
「何人かの者が憤慨し」とあります。彼らは表向きは貧しい人たちのことを思っているようですが、実際は人間的欲が隠れていました。いくら良い奉仕と言っても、人間的欲や意図が付きまとっていたのでは、奉仕は嫌な臭いも付きまといます。
・イエスの評価・・立派と
「わたしのために、りっぱなこと」と主イエスは、女の奉仕を評価します。女は主イエスから受けた恵みの応答として、香油を注ぐ奉仕をしただけだったのです。女もまた、自分のニーズにあった自分のための有り余る贖いを受けていたのです。
主イエスは御自身の恵みの応答としてなす心からの奉仕をすべて快く受け取って祝福してくださいます。
・福音の記念の香
「福音が宣べ伝えられる所なら・・記念となる」。福音とは、主イエスの恵みと救いを入れる器です。福音が伝えられ、受け入れられるところでは、いつでも救いが実現します。そして応答としての奉仕によりキリストの香りが漂うのです。
2010/6/13 マルコ13:1~13 最後まで耐え忍ぶ
・初臨から再臨までの時代
主イエスは弟子たちに対して初臨から再臨までの時代について展望を与えます。その時代はもやはエルサレムの神殿中心の時代ではなくキリストの弟子たちの時代/教会の時代です。しかしそれは産みの苦しみの時代で、その苦しみを通して教会は完成と栄化に向かうのです。
・惑わされない、あわてない
この時代、多くの偽キリストが登場してキリスト者を惑わそうとします。また戦争や地震、飢饉の時代もあって、サタンは神の臨在を疑わせてあわてさせようとします。
私たちは短絡的な判断をしないで、神の前に静まって祈り正しい判断をする必要があります。
・福音を証する
苦しみの時代は、福音が拡大するときです。あらゆる機会が福音宣教のための好機となります。教会は、時が良くとも、悪くとも福音宣教を心掛けるのです。「あらゆる民族に宣べ伝えられなければ」というのが、神のビジョンです。
・聖霊に頼る
福音の証は、人間の業ではありません。聖霊が伴って私たちに代わってあかしさせてくださると言うことを信じるべきです。証だけではなく、私たちの生活の全般は聖霊の導きの中にあり、あらゆる時が好機とされ、その人自身も聖められます。
・最後まで耐え忍ぶ
「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」とみ言葉の通りです。忍耐する中で、聖霊の御業は完全に完成に向かい、神の救いの世界は成熟、完成するのです。
主イエスは弟子たちに対して初臨から再臨までの時代について展望を与えます。その時代はもやはエルサレムの神殿中心の時代ではなくキリストの弟子たちの時代/教会の時代です。しかしそれは産みの苦しみの時代で、その苦しみを通して教会は完成と栄化に向かうのです。
・惑わされない、あわてない
この時代、多くの偽キリストが登場してキリスト者を惑わそうとします。また戦争や地震、飢饉の時代もあって、サタンは神の臨在を疑わせてあわてさせようとします。
私たちは短絡的な判断をしないで、神の前に静まって祈り正しい判断をする必要があります。
・福音を証する
苦しみの時代は、福音が拡大するときです。あらゆる機会が福音宣教のための好機となります。教会は、時が良くとも、悪くとも福音宣教を心掛けるのです。「あらゆる民族に宣べ伝えられなければ」というのが、神のビジョンです。
・聖霊に頼る
福音の証は、人間の業ではありません。聖霊が伴って私たちに代わってあかしさせてくださると言うことを信じるべきです。証だけではなく、私たちの生活の全般は聖霊の導きの中にあり、あらゆる時が好機とされ、その人自身も聖められます。
・最後まで耐え忍ぶ
「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」とみ言葉の通りです。忍耐する中で、聖霊の御業は完全に完成に向かい、神の救いの世界は成熟、完成するのです。
2010/6/6 マルコ12:38~44 礼拝の心得
・律法学者の偽善に対する警告
主イエスは律法学者たちの偽善に気をつけるように警告されます。彼らは自分の敬虔さ、権威、優越さを人の面前にアピールするためにのみ心を配っていました。「長い衣を着て歩き回ったり、広場であいさつされる・・・会堂の上席、宴会の上座が大好き」でした。しかし偽善は人の目はごまかせても、神の目には悪として判断され、「人一倍きびしい罰を受ける」のです。
・貧しいやもめの献金
正反対の例として「やもめの献金の話」が紹介されています。貧しいやもめがレプタ銅貨2つ(約100円)を投げ入れました。それは金額としては小さいものでしたが、貧しいやもめにとっては「生活費の全部」でした。主イエスは「どの人よりもたくさん投げ入れた(献金した)」と最大限の評価を与えました。
・礼拝の心得
この2つの物語を通して、主イエスは私たちに礼拝と信仰生活の心得を示しておられます。第1に、私たちは偽善であってはならないと言うことです。人の目を気にしてばかりでは、いくら人の評価を得たとしても、神の前では「きびしい罰」を受けることになります。
それに対して、私たちの奉仕、ささげ物が、いくら小さいものでも、神様の前に精一杯捧げたものならば、神は「善し」としてくださるのです。目に見えない神を信じて、心からのささげ物をすると言うことが大切なのです。
主イエスは律法学者たちの偽善に気をつけるように警告されます。彼らは自分の敬虔さ、権威、優越さを人の面前にアピールするためにのみ心を配っていました。「長い衣を着て歩き回ったり、広場であいさつされる・・・会堂の上席、宴会の上座が大好き」でした。しかし偽善は人の目はごまかせても、神の目には悪として判断され、「人一倍きびしい罰を受ける」のです。
・貧しいやもめの献金
正反対の例として「やもめの献金の話」が紹介されています。貧しいやもめがレプタ銅貨2つ(約100円)を投げ入れました。それは金額としては小さいものでしたが、貧しいやもめにとっては「生活費の全部」でした。主イエスは「どの人よりもたくさん投げ入れた(献金した)」と最大限の評価を与えました。
・礼拝の心得
この2つの物語を通して、主イエスは私たちに礼拝と信仰生活の心得を示しておられます。第1に、私たちは偽善であってはならないと言うことです。人の目を気にしてばかりでは、いくら人の評価を得たとしても、神の前では「きびしい罰」を受けることになります。
それに対して、私たちの奉仕、ささげ物が、いくら小さいものでも、神様の前に精一杯捧げたものならば、神は「善し」としてくださるのです。目に見えない神を信じて、心からのささげ物をすると言うことが大切なのです。
2010/5/16 マルコ12:28~34 神への愛 隣人への愛
・神への愛
「どの命令が一番大切ですか」との律法学者の質問に対して、主イエスは申命記6:5以降を引用して答えます。「心を尽くし・・・あなたの神である主を愛せよ。」
これは私たち人間のすべてによって神を愛するように命じたものです。私たちは自己愛に満ちていますが、それを砕いて徹底して神を優先して愛するようにと言う命令です。
・隣人への愛
次に「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と。
隣人とは家族や友人、同じ民族のことですが、さらにすべての人という意味もあります。神への愛は具体的に隣人愛で現されるように命令されています。
私たちは自己中心で自己の益のためには必死になり、それを優先するものです。それと同じように隣人の益を求めるようにと言うことです。
イエスはあえてこのように語ることにより、律法の世界での命令はそのまま神の国において適用されるべきことを明瞭にしたのです。
・神に愛され、救われてから
律法学者もイエスの回答に賛同しますが、主イエスは「あなたは神の国から遠くない。」と言われただけでした。
愛の命令は語っただけでは絵に描いた餅で、実践されなければ意味がないのです。その意味で、律法学者は「遠くはない」が、神の国には行っていないことを明示しています。
神の国は確かに愛の王国ですが、そのためには、私たちが先に、神によって愛され、キリストの救いを受けなければなりません。そのためには自分の罪の深さを覚えて自らに絶望し、ただ神の愛の中に生きることです。
「どの命令が一番大切ですか」との律法学者の質問に対して、主イエスは申命記6:5以降を引用して答えます。「心を尽くし・・・あなたの神である主を愛せよ。」
これは私たち人間のすべてによって神を愛するように命じたものです。私たちは自己愛に満ちていますが、それを砕いて徹底して神を優先して愛するようにと言う命令です。
・隣人への愛
次に「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と。
隣人とは家族や友人、同じ民族のことですが、さらにすべての人という意味もあります。神への愛は具体的に隣人愛で現されるように命令されています。
私たちは自己中心で自己の益のためには必死になり、それを優先するものです。それと同じように隣人の益を求めるようにと言うことです。
イエスはあえてこのように語ることにより、律法の世界での命令はそのまま神の国において適用されるべきことを明瞭にしたのです。
・神に愛され、救われてから
律法学者もイエスの回答に賛同しますが、主イエスは「あなたは神の国から遠くない。」と言われただけでした。
愛の命令は語っただけでは絵に描いた餅で、実践されなければ意味がないのです。その意味で、律法学者は「遠くはない」が、神の国には行っていないことを明示しています。
神の国は確かに愛の王国ですが、そのためには、私たちが先に、神によって愛され、キリストの救いを受けなければなりません。そのためには自分の罪の深さを覚えて自らに絶望し、ただ神の愛の中に生きることです。
2010/5/9 Ⅱテモテ1:3~7 母からの良心と信仰
・私たちが産み育てるべきもの
使徒パウロは人を育てる基本として、「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰」が大切であると述べています。そこからすべての良いものが生まれ出るからです。
このことは母親と私たちが、目ざすべきポイントです。世の中では知的肉体的能力や様々な技巧が求められるのですが、それ以前に生み育てるべきことから目を離してはなりません。
・きよい良心
私たちは目に見えることを優先しますが、それでは心と良心は様々な欲と罪に汚れますし、たえず思い煩いの虜になって力を失います。
「きよい心と正しい良心」とは何よりも目に見えない神に対する一途な心ですが、それは神との交わり、神を見続ける中で養われます。神御自身がきよく、正しい方だから、ご性格が映し出されるからです。
母親が「きよい心と正しい良心」をもって子どもたちと交わるときに、子どもたちの中にも同じ心が映し出されるのです。
・純粋な信仰
「純粋な信仰」は「偽りのない信仰」ということです。信仰生活と言いながら、外面の細々としたこと、人の目だけを気にしているならそれは偽りの信仰です。どのような時にも、神を信頼し、神に従うという内なる決意の中で「純粋な信仰」は養われます。
「そのような信仰は・・・祖母ロイス・・・母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っている」とあるように、私たちの子たちにも映し出されていくのです。「きよい良心」にしろ「純粋な信仰」にしろ良い心は、次世代にも確実に伝播していくのです。
使徒パウロは人を育てる基本として、「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰」が大切であると述べています。そこからすべての良いものが生まれ出るからです。
このことは母親と私たちが、目ざすべきポイントです。世の中では知的肉体的能力や様々な技巧が求められるのですが、それ以前に生み育てるべきことから目を離してはなりません。
・きよい良心
私たちは目に見えることを優先しますが、それでは心と良心は様々な欲と罪に汚れますし、たえず思い煩いの虜になって力を失います。
「きよい心と正しい良心」とは何よりも目に見えない神に対する一途な心ですが、それは神との交わり、神を見続ける中で養われます。神御自身がきよく、正しい方だから、ご性格が映し出されるからです。
母親が「きよい心と正しい良心」をもって子どもたちと交わるときに、子どもたちの中にも同じ心が映し出されるのです。
・純粋な信仰
「純粋な信仰」は「偽りのない信仰」ということです。信仰生活と言いながら、外面の細々としたこと、人の目だけを気にしているならそれは偽りの信仰です。どのような時にも、神を信頼し、神に従うという内なる決意の中で「純粋な信仰」は養われます。
「そのような信仰は・・・祖母ロイス・・・母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っている」とあるように、私たちの子たちにも映し出されていくのです。「きよい良心」にしろ「純粋な信仰」にしろ良い心は、次世代にも確実に伝播していくのです。
2010/5/2 マルコ12:18~27 アブラハム イサク ヤコブの神
・復活論争
サドカイ人とは、祭司階級の人々で律法(モーセ五書)だけを受け入れ、死人の復活を否定している人々です。彼らは結婚についての詭弁を用いて復活を否定しようとします。七人と結婚した女は「復活の際・・・だれの妻なのでしょうか。」と。
・聖書と神の力は復活を示す
主イエスは聖書と神の力は信仰者の復活を示していることを明示します。「人が死人の中からよみがえるときには・・・天の御使いたちのようです」と。
地上の結婚は肉の弱さゆえの制度です。復活の時、天ではさらにすぐれた生命と絆が与えられます。「御使いたち」はさらにすぐれた生命と絆によって神と結ばれ、互いも結ばれています。復活のことを、地上の枠内で考えてはならないのです。
・アブラハム イサク ヤコブの神
さらに主イエスは「モーセの書にある柴の箇所」(主エジプト3:6)から「私はアブラハム イサク ヤコブの神」との言葉を取り上げます。神は族長たちに交わりを与えましたが、それは地上の生涯に留まらないのです。地上の生涯が終えた後にも続き、彼らは神の生命によってなお、生きているのです。神は契約の愛において永遠で、死に勝利する復活の力を有する方です。
・復活信仰に生きる
私たちの時代は、地上のことだけの時代です。人々の心は、やがて来る死に対する恐怖と不安に満ちています。この時代、私たちは永遠の絆と復活の生命を下さる神を信じ、その礼拝者として生きることが許されているのです。
サドカイ人とは、祭司階級の人々で律法(モーセ五書)だけを受け入れ、死人の復活を否定している人々です。彼らは結婚についての詭弁を用いて復活を否定しようとします。七人と結婚した女は「復活の際・・・だれの妻なのでしょうか。」と。
・聖書と神の力は復活を示す
主イエスは聖書と神の力は信仰者の復活を示していることを明示します。「人が死人の中からよみがえるときには・・・天の御使いたちのようです」と。
地上の結婚は肉の弱さゆえの制度です。復活の時、天ではさらにすぐれた生命と絆が与えられます。「御使いたち」はさらにすぐれた生命と絆によって神と結ばれ、互いも結ばれています。復活のことを、地上の枠内で考えてはならないのです。
・アブラハム イサク ヤコブの神
さらに主イエスは「モーセの書にある柴の箇所」(主エジプト3:6)から「私はアブラハム イサク ヤコブの神」との言葉を取り上げます。神は族長たちに交わりを与えましたが、それは地上の生涯に留まらないのです。地上の生涯が終えた後にも続き、彼らは神の生命によってなお、生きているのです。神は契約の愛において永遠で、死に勝利する復活の力を有する方です。
・復活信仰に生きる
私たちの時代は、地上のことだけの時代です。人々の心は、やがて来る死に対する恐怖と不安に満ちています。この時代、私たちは永遠の絆と復活の生命を下さる神を信じ、その礼拝者として生きることが許されているのです。
2010/4/25 マルコ12:13~17 神のものは神に
・試みと罠
パリサイ人とヘロデ党の者たちは、税の問題でイエスをためして罠に落しいれようとしました。パリサイ人は異教徒の支配者に税を納めることを嫌い、ヘロデ党は賛成していました。イエスが税を納めることに賛成すれば、パリサイ人が不敬虔と言ってイエスを非難でき、反対すれば皇帝に対する反逆者といって訴えることができます。
・カイザルのものはカイザルに
イエスは銀貨をもってこさせてそこにカイザルの肖像と銘が刻まれていることを確認させます。そして 「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」と。
イエスは世の権力者に税金を納めること、その支配の中で生活することを認めているということです。ローマ13:1にも「存在している権威はすべて、神によって立てられたもの」とあるとおりです。
・神のものは神に
「神のものは神に返しなさい。」
人間の心は神の形に似せてつくられ、それは神のものです。それは誰が何といおうと神に返さなければならないと言うことです。このように主イエスは、神の領域は、絶対に不可侵であることを宣言しているのです。
・私たちの日常と礼拝
私たちはこの国と社会の中で生活しています。また家庭や職場があります。毎日の生活でそのしきたりに従うことは大切なことです。しかし週1回の礼拝は、一切の世の煩いを避けて、「神のものは神に返す」ために、イエス・キリストの神に礼拝するのです。
パリサイ人とヘロデ党の者たちは、税の問題でイエスをためして罠に落しいれようとしました。パリサイ人は異教徒の支配者に税を納めることを嫌い、ヘロデ党は賛成していました。イエスが税を納めることに賛成すれば、パリサイ人が不敬虔と言ってイエスを非難でき、反対すれば皇帝に対する反逆者といって訴えることができます。
・カイザルのものはカイザルに
イエスは銀貨をもってこさせてそこにカイザルの肖像と銘が刻まれていることを確認させます。そして 「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」と。
イエスは世の権力者に税金を納めること、その支配の中で生活することを認めているということです。ローマ13:1にも「存在している権威はすべて、神によって立てられたもの」とあるとおりです。
・神のものは神に
「神のものは神に返しなさい。」
人間の心は神の形に似せてつくられ、それは神のものです。それは誰が何といおうと神に返さなければならないと言うことです。このように主イエスは、神の領域は、絶対に不可侵であることを宣言しているのです。
・私たちの日常と礼拝
私たちはこの国と社会の中で生活しています。また家庭や職場があります。毎日の生活でそのしきたりに従うことは大切なことです。しかし週1回の礼拝は、一切の世の煩いを避けて、「神のものは神に返す」ために、イエス・キリストの神に礼拝するのです。
2010/4/11 マルコ12:1~12キリストを礎石とする
・ぶどう園のたとえ
主イエスは「ぶどう園のたとえ」を通して、「神の国」の祝福がユダヤ人から取り去られたこと。そして異邦人に与えられるようになったことを示します。
神はユダヤ人たちに対して預言者たちを送り、さらにはひとり子キリストを送って誠実と恵みを示しました。ところがユダヤ人たちは殺して反逆心と邪悪さを顕わにしたのです。その結果、神の国は彼らから取り去られ異邦人に渡されたのです。
・見捨てた石が礎石に
「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。」
主イエスは、別のたとえで捨てられたキリストが異邦人教会の「礎の石」となったことを示します。キリストはユダヤ人たちによって捨てられ殺されましたが、復活して新しい教会の礎石となったのです。神は初めから異邦人の救いを計画しており、それはユダヤ人の反逆により「奇跡的に」実現しました。
今や、キリストは異邦人に、そして私たちの教会にも救いの礎として提供されています。すべて私たちに対する神の愛とみ力によっています。
・キリストを礎石とする
私たちはキリストを礎石として教会生活、信仰生活を築き上げるべきです。そのためにはどのような時にも彼に信頼することが大切です。慌てて業をなすのではなく、静まって信じ続けることです。また「自分の思い」「人間的な欲」を中心とするのではなく、徹底して神の言葉と御心を求めることです。行いと思いにおいて聖さを保つことです。さらに礼拝を通して霊のいけにえをささげることです。(Ⅰペテロ2:4~6)
主イエスは「ぶどう園のたとえ」を通して、「神の国」の祝福がユダヤ人から取り去られたこと。そして異邦人に与えられるようになったことを示します。
神はユダヤ人たちに対して預言者たちを送り、さらにはひとり子キリストを送って誠実と恵みを示しました。ところがユダヤ人たちは殺して反逆心と邪悪さを顕わにしたのです。その結果、神の国は彼らから取り去られ異邦人に渡されたのです。
・見捨てた石が礎石に
「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。」
主イエスは、別のたとえで捨てられたキリストが異邦人教会の「礎の石」となったことを示します。キリストはユダヤ人たちによって捨てられ殺されましたが、復活して新しい教会の礎石となったのです。神は初めから異邦人の救いを計画しており、それはユダヤ人の反逆により「奇跡的に」実現しました。
今や、キリストは異邦人に、そして私たちの教会にも救いの礎として提供されています。すべて私たちに対する神の愛とみ力によっています。
・キリストを礎石とする
私たちはキリストを礎石として教会生活、信仰生活を築き上げるべきです。そのためにはどのような時にも彼に信頼することが大切です。慌てて業をなすのではなく、静まって信じ続けることです。また「自分の思い」「人間的な欲」を中心とするのではなく、徹底して神の言葉と御心を求めることです。行いと思いにおいて聖さを保つことです。さらに礼拝を通して霊のいけにえをささげることです。(Ⅰペテロ2:4~6)
2010/3/21 マルコ11:12~20 祈りの家
・いちじくの木
主イエスはいちじくの木に実がなっていなかったので、それを呪いました。この出来事は、神のためになんの実もなさなかったエルサレムと神殿に対する呪いを暗示します。
・宮きよめ
宮きよめの出来事は神殿の異邦人の庭で置きました。異邦人の祈りを無視して、商売がなされていたのです。主イエスは彼らを「追い出し」「腰掛けを倒し」「通り抜けることを・・・お許しにならなかった」のです。
このようにして、主イエスは神殿が商売や欲のために用いられるべきではなく、聖別されるべきところであることを強く示しているのです。
・「祈りの家」
「祈りの家」とは、神との交わりの場、聖なる空間という意味があります。旧約の神殿は、ユダヤ人だけではなく異邦人にとっても神との交わりの場です。新約においては、教会がその役目を果たしています。
教会には、色々な側面があります。互いの交わり、集会、会議などなどです。しかし教会の本質は神との交わり、つまり霊的な礼拝と祈りです。このことを見失ってはなりません。
・世における「祈りの家」
世の人々は、不安とおののきの日々を過ごしており、「聖なるもの」を渇望しています。教会は何よりも「祈りの家」となって世に聖なる空間を提供しています。「地の塩、世の光」との御言葉がありますが、まさにそのとおりです。
主イエスはいちじくの木に実がなっていなかったので、それを呪いました。この出来事は、神のためになんの実もなさなかったエルサレムと神殿に対する呪いを暗示します。
・宮きよめ
宮きよめの出来事は神殿の異邦人の庭で置きました。異邦人の祈りを無視して、商売がなされていたのです。主イエスは彼らを「追い出し」「腰掛けを倒し」「通り抜けることを・・・お許しにならなかった」のです。
このようにして、主イエスは神殿が商売や欲のために用いられるべきではなく、聖別されるべきところであることを強く示しているのです。
・「祈りの家」
「祈りの家」とは、神との交わりの場、聖なる空間という意味があります。旧約の神殿は、ユダヤ人だけではなく異邦人にとっても神との交わりの場です。新約においては、教会がその役目を果たしています。
教会には、色々な側面があります。互いの交わり、集会、会議などなどです。しかし教会の本質は神との交わり、つまり霊的な礼拝と祈りです。このことを見失ってはなりません。
・世における「祈りの家」
世の人々は、不安とおののきの日々を過ごしており、「聖なるもの」を渇望しています。教会は何よりも「祈りの家」となって世に聖なる空間を提供しています。「地の塩、世の光」との御言葉がありますが、まさにそのとおりです。
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