・知識は人を高ぶらせ
コリント教会では「偶像にささげた肉」についての問題がありました。それは知識偏重の一派が起こしていたもので、正しい知識を持っているならば、自由に、それを主張して行動すべしという考えでした。
しかしパウロは、たとえ真理としての知識を持っていたとしても、他の人々に対する配慮が無いなら、人を高ぶらせるだけで、何の意味もないと明言します。
・愛は人の徳を建てる
「愛」とはアガペーで、神がキリストを通して、それがご自身の本質であることを示されました。エロスとかフィリアなどという人間が生来持っている自己中心の愛とは異なります。「人を建てる」とは隣人の信仰心を確立させるために作用するということです。「愛・アガペー」は自己を低くし、隣人を建てあげるのです。それによって自己の人格も建て上げられます。さらに神によって認知される者となります。
・兄弟を躓かせないために
パウロは具体的に「偶像にささげた肉」の問題について論じた後に、彼自身の問題に対する基本的態度を明示します。
「食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません」とあります。偶像にささげられたとしても肉自体には、何の問題もないのですが、弱い兄弟の良心と信仰の躓きにならないようにとの決意です。ここに単に知識だけによるのではなく、「愛・アガペー」によって行動する姿勢が明示されています。
2023/4/30 Ⅰコリント8:1~13 知識と愛
2023/4/23 Ⅰコリント7:25~35 「有は無」とする信仰
・そのままの状態
パウロはコリント教会の生活全般に対する質問に対して、基本的原則を持って答えています。「処女」とは許嫁状態の女性のことで、その結婚云々についてです。「現在の危急のとき」とは再臨の差し迫っている時ということで、この「現在」は「そのままの状態」がいいと勧めています。世の時は過ぎ去り、再臨前の苦難があるからです。そこで一般の男女であれ、「処女」であれ、そのままの状態がいいと勧めています。しかし独身のものが「結婚したからといって、罪を犯すのではありません」と語っています。
・「有は無」とする姿勢
「ときは縮まって」とは、再臨の時がより近くなっている」ということです。ここに、この世を漫然と過ごすのではなく、終わりの日の再臨を切迫感を持って待望する姿勢の大切さを示しています。その未来展望をとおして現在の適切な生活姿勢が導き出されます。つまり「妻のある者は、妻のない者のように…喜ぶ者は喜ばない者のように…世の富を用いる者は用いすぎないように」です。「この世の有様は過ぎ去るからです。」日本的にいえば、「有は無」とする姿勢です。
・思い煩わないため
以上の姿勢は、世の実際生活で「思い煩わない」ために益となります。つまり、人の苦しみは世に執着し、「ああでもない、こうでもない」と思い煩うことから発生します。しかし再臨信仰を通して有は無」と達観することで、煩いはなくなるからです。
2023/4/16 Ⅰコリント7:8~16 キリスト者の結婚観
・独身と結婚
パウロは、まず独身の勧めをしています。世に囚われず、神奉仕、御国待望には「良い」としています。
「しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい」とあります。性的情欲は不品行に向かわせる危険があります。それを避けるために結婚は神によってもうけられた恵みの手段です。それもまた神の前に「よい」「聖い」ものです。
・離婚いけません…相手信者
信者同士に対して「妻は夫と別れてはいけません」「夫は妻と離別してはいけません」と命令します。時代時代に、様々な離婚の理由が主張されることがありますが、どのような理由であれ、信者どうしの離婚は禁じられています。結婚自体が「よい」「聖い」あり方だからです。
「別れたのだったら、結婚せずにいるか…和解」とあります。新たな結婚のための離婚は、姦淫とされています。それで「結婚せずに」とあります。「和解」はいつでも「よい」関係の再構築となります。
・離婚いけません…相手が未信者
未信者の伴侶が「承知している場合は、離婚してはいけません」とあります。その理由として「信者でない夫(妻)は妻(夫)によって聖められて」とあります。キリスト信仰による聖めとは、外にも広がり、信仰者の家庭全体に及ぶのです。
「離れていくのであれば、離れて行かせなさい」とあります。伴侶がキリスト教信仰を嫌って離婚しようした場合のことです。キリスト者は元々、信仰によって神の前に自由にされているのですから、その場合は「そのまま」の状態で「平和」に神に仕えるよう勧めています。
2023/3/05 1コリント7:1~7 独身と結婚
・独身と結婚
パウロはコリント教会からの問い合わせに対して答える形でキリスト者の独身と結婚生活について指針を示しています。
まず「男が女に触れないのは良いこと」と独身生活を尊重しています。「触れない」とは性的関係を持たないという禁欲スタイルです。「しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい」とあります。
・夫と妻の義務
「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい」。ここで「義務」とは性的なつとめのことです。結婚について「産めよ増えよ」、「キリストと教会」などの意味付けがありますが、不品行から互いを守ることも重要な意味です。
「合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょに」と離れる場合も互いの「合意」が必要であり、しかも「再びいっしょ」が条件です。
・独身と結婚の賜物
最後にパウロは「すべての人が私のようであること」と独身で専心して神に仕える幸いについて述べています。しかし「ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っている」と語り、独身にしろ、結婚にしろ、すべて神からの「賜物」で、その賜物を通して、不品行を避け、神に仕えることが大切であることを確認しています。
2023/2/26 1コリント6:12~20 神の栄光を現す
・からだは主のため
キリスト者は救われて自由とされています。しかし自由の意味についてよく理解する必要があり、自由であるからといってからだを罪に汚してはなりません。「からだは不品行のためにあるのではなく、主のため」だからです。
また「その御力によって私たちをもよみがえらせて」とあるとおり、救いと復活の力は、私たちの心だけではなく、からだにも及んでいるからです。
・肉の結合と霊の結合
「キリストのからだの一部」と信仰者の霊とからだがキリストとの霊的結合の中にあることが示されています。キリストから切り離して遊女のからだと「交わる」時、肉の結合となり罪の奴隷状態となります。
「主と交われば、一つ霊」とありますが、信仰にとどまるとき、心もからだも御霊の原理の中におかれることを示しています。
・神の栄光を現わす
「宮」とは聖所至聖所がある建物のことで、旧約時代は、そこに神の霊が宿るとされてきました。しかし今の時代、キリストの贖いによって「あなたがたのからだは…聖霊の宮」です。
そこで求められていることは「自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」です。私たちの場合も、不品行の時代に生きていますが、私たちのからだと人生を通して「神の栄光」を現わす者として招かれているのです。
2023/2/19 1コリント6:1~11 神の国の正しさと平和
・教会内の争い
パウロは、教会員同士での財産等についての訴訟騒動を取り上げています。彼らはそれぞれ町の裁判所に訴え出ていたのです。
それ対してパウロは、些細なことで異邦人社会で訴訟を起こすべきではなく、むしろ聖徒たちに仲裁を頼んで解決するように促しています。それは世の終わりにおいて聖徒たちが世界を裁く立場となるので、そのあり方を今の時代に反映させるべきだからです。
・仲裁者と和解
「兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者」とあります。些細な問題をクリスチャンの仲裁で解決するようにということです。さらに「互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北」とあるように、些細な問題で相手をいちいち非難するのではなく、忍耐して、和解の姿勢を持つことの大切さを示しています。それがキリストの和解によって立つ神の国/教会のあるべき姿です。
・神の国の正しさと平和
私たちの場合も、教会についての認識が希薄で、世のサークルのひとつのように考える傾向があります。しかしそうではなく、教会はキリストの御名と聖霊によって洗われた神の国です。私たちはその聖さと正しさを保たなければならないのです。
「正しくない者は神の国を相続できない」とは、まさしくその通りの警告の言葉です。
2023/2/12 Ⅰコリント5:1~8 純粋で真実な祭り
・不品行の問題
パウロはコリント教会にあった不品行を取り上げています。それは異邦人にも見られないほどの悪でした。しかし、教会の指導者たちは、その不品行に対して何の対処もしていませんでした。 そこでパウロは「霊において…サタンに引き渡した」と語っています。断固として、不品行は裁かれるべきであることを示しています。
・古いパン種を取り除く
「あなたがたの高慢は、よくない」「ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませる」とあります。高慢があらゆる悪の原因であり、しかも指導者たちの高慢から、教会の中に、ありとあらゆる悪と腐敗が広がっていることを非難しています。
「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい」とあります。キリストの贖いによって聖められている教会において大切なことは、外側の悪と共に、内面の心に忍び込む高慢を取り除く必要を訴えています。
・純粋で真実な祭り
「純粋で真実なパンで、祭りを…」と、ここでも心の中のこと、その純粋さと真実が求められています。キリストの群れ、教会では、心の内側の良さを基本となるのです。また「祭り」とは、積極的な参加が求められる場で、教会の礼拝と交わりのことです。私たちも、この祭りに導かれているので、心からのコミットメントをしていきましょう。
2023/2/12 Ⅰコリント4:14~21 神の国と力
・福音による父
パウロは、コリント教会に対して霊の父であることを明言しています。色々な教師たちがいたのですが、異邦人の使徒としての唯一無二の立場です。
「福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだ」とは、ちょうど創世記でアダムが「生んだ」ということと比較できます。アダムの場合は地上の生命により彼に似た子たちを生んだのですが、パウロは、福音によってキリストの生命によって「生んだ」と語っています。それはアダムの生命以上に、リアルな生命です。
・私にならう者に
「私にならう者となって…」とあります。キリストに似た者としての私にならうようにということです。福音の言葉だけではなく、信仰姿勢と生活スタイル全体を真似るということです。
またパウロの代わりに愛弟子のテモテを遣わすので、彼をとおして学び、真似るように勧めています。教会の牧師も、そのような存在として建てられています。
・神の国は言葉にはなく力に
「神の国はことばにはなく、力に」とあります。コリント教会のある者たちは、キリスト教とは、ただの言葉だけの宗教と考え、知識を誇り高慢になっていました。
しかしパウロは、教会では、神の力が働く神の国であり、愛の祝福があり、神の裁きが起こるダイナミックな場であることを示しています。
2023/1/29 Ⅰコリント4:6~13 仕える王様
「書かれていることを越えない」
「書かれていること」とは、聖書のことで、いわゆる「十字架のことば」です。「越えない」とは、それが神の言葉であることを覚えて、恐れと愛を持って受け止め、人間の知恵や考えを加えて、逸脱しないということです。
「一方にくみし、他方に反対して高慢にならない」とは、党派を作って互いに対立する誤りです。党派心は、いつでも人間的な高ぶりが伴い、しかもエスカレートします。私たちは、その点をチェックして、高慢に陥らないように心がけなければなりません。
・高慢な王様
コリント教会の人々は、これらの逸脱がありました。自分で自分をすぐれた者とし、全て自分の能力で獲得したかのように誇り、王様のようになっていたのです。その態度は、誰でもかまわず裁くという態度でした。この「高慢な王様」の態度は、コリント教会だけでも、どこの教会でも起こりうる悪です。
・仕える王様
コリント教会の高慢はギリシャの知恵と文化の影響を受けた根深いものでした。そこで使徒は自分たちの実態を示しながら、「十字架のことば」としての福音に従う者のあり方を示しています。
「死罪に決まった者…」「私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません」。どれもキリストにならって「十字架を負う」姿勢です。
2023/1/22 Ⅰコリント4:1~5 人間の日と主の日
・キリストのしもべ
使徒パウロは、教会における働き人としての自分たちの立場について「キリスト・イエスのしもべ、また神の奥義の管理者」と語ります。ただキリストを主人として従い、その主権のもとで、働く者ということです。 そこで大切な点は、不特定の誰かではなく、主人であるキリストに対して忠実であるかが大切であるとしています。
・人間の判定(日)は小さなこと
教会の働き人は、教会の人々による様々な判定をうけます。「人間による判定(日)」です。私たちは、毎日、人間の目と言葉によって何らかの審判を受けながら働き、生活するのです。
あるいは自分で自分を評価して裁く場合もありますが、しかしそれは「非常に小さなことです」とあります。パウロが、様々な人間の判定や評価によって煩わされないのは、絶対的な軸をもっていたからです。
・「主の日」に委ねる
「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかに」と「主の日」の審判について記しています。「主の日」のみが、パウロの判定の絶対的な軸でした。そして「未来の審判」に備えて、「今の日」の働きと生活を営んでいました。
この使徒の信仰姿勢は、すべてのキリスト者にとっても、まったく同じであるべきです。
2023/1/15 Ⅰコリント4:1~6 ただキリストのもの
・世の知恵は愚か
使徒は、繰り返し、世の知恵と世にとらわれることの愚かさについて、指摘し、諌めています。世の知恵は、人間の目には賢く、偉大のように見えて、神の前では、まったく愚かで、悪巧みに過ぎないからです。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える」 とヨブ記や詩篇にもあるとおりです。
・すべてはあなたがたのもの
使徒は、キリスト者とは、世と世の知恵に従属するような小さい存在ではなく、神の子として、大きな存在であることを示しています。
「パウロであれ、アポロであれ…すべてあなたがたのもの」とは、そのことです。この認識は、ただ神の知恵のみが明らかにすることであって、それはキリスト者の自由です。
・ただキリストのもの
そして「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のもの」とあります。 キリストによる自由は、何のためかについて明確です。それはただキリストだけを礼拝し、キリストだけに仕えるためです。そしてまた、世の一切から自由にされて礼拝する姿が、そのまま父の神の栄光となるのです。
私たちの福音自由教会の「自由」もそのような意味が込められています。世の力と知恵と情報が圧倒的な時代ですが、世の力に左右されず、ただキリストを礼拝する自由なる神の子たち、神の群れとして、自覚を持ち、整えられていきたいです。
2022/12/04 Ⅰコリント3:10~17 聖なる神殿
・キリストが土台
パウロは教会を建物に例え、自分が「土台を据えた」と語っています。それは使徒としての使命かつ権利でした。その「その土台とはイエス・キリスト」とありますが、それは福音の真理と言い換えることができます。
「そして、他の人がその上に家を建て」とあります。 土台があっても、その上に家が自動的にたつのではなく、各時代に働き人らの説教と牧会により、また教会メンバーの奉仕によって目に見える形で建てられていくのです。
・建物と材質
「この土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら」とあります。「金、銀、宝石」とは、神の知恵と御霊に属する人たちが用いる尊い材質です。「木、草、わら」は人間の知恵が混在した建て方、肉に属する人たちが用いた材質です。それらは人の目には、区別が付きませんが、神の審判の「日」に火の試練によって顕わにされます。
・聖なる神殿
「あなたがたは神の神殿…御霊が…宿って」とあります。旧約時代はエルサレムに神殿があり、そこに神の臨在があるとされていました。しかし旧約時代はすべて雛形で、本体は新約時代に顕わにされました。ただ教会のメンバーには、聖なる神の神殿との自覚がない場合が多いので、警告を与えているのです。
私たちの教会もまた、聖なる神の神殿としてこの地に建てられています。すでに据えられている土台の上に、恐れと愛をもって、良い材質の教会を建てていきましょう。
2022/11/27 1コリント3:5~9 成長させたのは神
・アポロとは?パウロとは?
先に「肉に属する人」に対して信仰の成人を「霊に属する人」と表現していました。さらに使徒は「霊に属する人」のものの見方を示しています。
「アポロとは何…パウロとは何…」とあります。コリント教会の人々は、教師たちを過大視していたので、その真の立場と役割を霊的な視点で見るように促しています。
・成長させたのは神
「私が植えて、アポロが水を注ぎ」とあります。パウロが福音宣教によって教会を植え付け、アポロは水を注いで成長を促したということです。それらも現象だけ見れば大切な役割です。しかし、現象に現れない最も大切な存在者を見失ってはならないということです。「成長させたのは神」ということです。
さらに「植える者と水を注ぐ者は、一つ」とあります。神は成長させてくださるだけではなく、教会の誕生から成長に至るまで、一切の権利と責任をもっておられる唯一の方です。
・あなた方は神の畑、神の建物
「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑…」とあります。すべて「神の」所有と働きのもとにあるということです。ひとりの神のみが、教会の主であり、働いておられる方であり、報酬と裁きをなす方です。
私たちもこの神のもとで、植えられ、育てられ、御国での報酬に預かる者たちです。霊的な洞察を明確にして、一人の神のみを恐れ、愛して、一人の神の教会を築いてゆきましょう。
2022/11/20 Ⅰコリント3:1~4 肉の人と御霊の人
・御霊の人と 肉の人
パウロは、この箇所で「御霊に属する人」と「肉に属する人」という2つのタイプのクリスチャンについて語っています。「御霊に属する人」とは、福音信仰を通して与えられた御霊がその人の中心的原理となっている人のことです。いわば、大人のクリスチャンです。
それに対して「肉に属する人」とは信仰を通して御霊を受けて入るのですが、なおお生まれながらの人のように肉の世界に生きている人のことです。いわば霊的な「幼子」です。
・今でも無理、肉の人
パウロはコリント宣教したときには、人々は改心して間もなく、世的体質のままだったので、信仰の初歩をしかも平易な語り方で伝えました。「乳を与えて、堅い食物を与えませんでした」とはそのことです。しかし「実は、今でもまだ無理」と手厳しいです。彼ら自身は、自分たちこそ「御霊に属する人」で霊的大人と自認していたのですが、その尊大な鼻を砕いています。「肉に属する人」は、厳しく指摘しなければ気が付かないからです。さらに教会の分派状態も「肉」の結果であることを指摘しています。
・肉の人から御霊の人に
これは私たちの場合もまったく同様です。私たちもまた信仰を通して御霊を受けているのですが、私たちのうちに働く「肉」の力に翻弄されるのです。そこで自分のうちに働く「肉」の原理を認めて、御霊の人となるべく、「十字架のことば」を真摯に受け止め、御霊の人として絶えず、献身姿勢を保つ必要があるのです。(ローマ8:5~6)
2022/11/06 1コリント2:10~13 御霊による啓示
御霊による啓示
神の民は「神の知恵」を与えられていますが、それは「御霊によって…啓示」とあります。御霊は旧約聖書では世の終わりに注がれると預言されていましたが、今や、信仰者に与えられています。御霊は、神の霊ですから父の神の「深みにまでおよばれる」とあります。
・神の賜物を知るため
人間の場合でも、その人の心のうちは、その人自身の「霊」以外には誰も知ることはできません。それと同じように「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」とあります。
神は、私たちに御霊を与えて下ったのは「賜ったものを、私たちが知るため」とあります。神は私たち一人一人を愛しておられるので、プライベートに神の愛と賜物を知らせようとしておられるのです。
・御霊のことは御霊によって
「御霊のことばをもって御霊のことを解く」とあります。御霊の領域は人間には到達も介入もできない世界です。ただ神の御霊のことばに従って解釈し、受け取る以外には方法はないのです。
私たちはすでに「御霊のことば」として聖書が与えられています。ですから聖書を正しく読むことが、御霊のことを解くための基本的手段です。しかし、さらに自分の思いと高ぶりを砕いて、切に導きを求めるときに、御霊は私にとってのキリストを明瞭に心に照らし出します。
2022/10/30 Ⅰコリント2:6~9 神の知恵 キリスト
・「成人」の知恵
パウロは世の知恵を否定しながらも、「成人の間で、知恵を語る」とします。「成人」とは「十字架のことば」を無条件で受け入れる信仰者のことで、「知恵」とは「神の知恵」です。また同じ「知恵」でもやがて廃れる「世の知恵」とは、全く別種の永遠の真理としての知恵であるとしています。
・隠された奥義 神の知恵
「隠された奥義」とは、「神の知恵」は新約に至るまで誰にも知られることがなかったことを示しています。また世の人々には完全に隠されている知恵ということです。主イエス・キリストの十字架の出来事は、何よりの証拠です。キリストこそ「神の知恵」であったのに、世の権力者たちがこぞって十字架に押しやったのです。
・神の知恵 キリスト
最後にパウロは、イザヤの預言を引用して、「神の知恵」は世の人々には、まったく計り知れない知恵であることを示しています。それはただ「神を愛する者のために、神の備えてくださったもの」なのです。
主イエス・キリストは「神の知恵」「神の奥義」そのもので、私たちの救いとなり、益となるために定められている方です。私たちは、全面的に「神を愛する」姿勢を正して、その方の素晴らしさに目と耳、さらに心を開きたいと願わされます。
2022/10/23 1コリント2:1~5 神の力による信仰
・宣教のはじめ
パウロは宣教のはじめという視点でも、教会の原点を示しています。まず「すぐれた言葉、すぐれた知恵を用いて」を述べ伝えなかったということです。反対に「神のあかし」としてふさわしく「イエス・キリスト…十字架につけられた方の他は、何も知らないことに決心した」とあります。キリストの救いのことのみをしっかりと語ったのです。
・御霊と御力の現れ
またパウロ自身も、コリント伝道の際に、人間的には「弱く、恐れおののいていた」と証言します。しかし、その分、パウロの宣教のことばには、人間的粉飾はなく、率直でした。そこに「御霊と御力の現われ」があったのです。パウロの霊力などではなく、素朴な福音宣教の結果です。
・神の力による信仰
「人間の知恵に支えられず、神の力に支えられるため」とあります。信仰のはじめは、また信仰の原点であり、土台です。「神の力」はいつの場合でも、人間の知恵によるのではなく、純粋で素朴な福音宣教を通して働きます。
このようにしてパウロは、福音を語る者と聞く者の基本姿勢を確認しています。私たちは、神の御霊、神の力を求めますが、それはいつの時代も、巧みなことばや知恵にあるのではなく、ただキリストの福音そのものによるのです。
2022/10/16 Ⅰコリント1:26~31 主にあって誇れ
・信仰の原点…召し
互いに分派を作っていたコリント教会の人々に対して、パウロは「あなたがの召しのことを考えて」と語りかけています。「召し」とは、神に呼ばれて救いに入れられたことで、その時の状態を思い起こすようにということです。
「この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく…」と、彼らの多くは社会的に、決して優れた者たちではなかったのです。「世の知者」であった場合でも、「召し」はその知恵の愚かさと虚しさを知らされた時だったのです。その信仰のはじめは同時に、信仰姿勢の原点です。
・だれをも誇らせない
「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び」とあります。神の「召し」と「選び」の目的が示されています。
さらに「神の御前でだれをも誇らせないため」とあります。「だれでも」は、直訳「すべての肉」です。あえて人間を「肉」と表現して、神との区別を明確にしています。創造者に対して、被造物は誇ってはならないのです。誇ることは、罪の闇を深めるだけです。
・誇る者は主にあって誇れ
「誇る者は主にあって誇れ」とエレミヤ書が引用されています。エレミヤは「新しい契約」の預言をしましたが、それがキリストにあって成就したことが明言されています。新しい契約の祝福は、ただ「キリストにあって誇る」人々の中で、顕わにされるのです。
2022/10/9 1コリント1:18~25 十字架のことば
・十字架のことば
「十字架ことば」とは、福音のことです。世の多くの者たちは「キリストが十字架にかかった」との内容に躓き、「愚か」と断じて滅びにとどまります。しかし「十字架のことば」は、神によって、心開かれて信じるに至った私たちにとっては「神の力」として、罪をきよめ、新しい生命を作り出します。
・宣教のことば
「知恵ある者の知恵を滅ぼし」とイザヤ書の預言を引用して、聖書に一貫した神のお取り扱いを示しています。 神の前では、いつの場合でも、知者の知恵は滅ぼされ、賢者は愚かとされるのです。
「十字架のことばの愚かさ」が「宣教のことばの愚かさ」21と言い換えられています。「宣教のことば」とは神の救いの公布ということです。それは人間の知恵も努力も必要なく、世の知者には「愚か」とみなされます。しかしそこに世の知者を退ける神の知恵があります。
・キリストは神の力
「十字架のことば」「宣教のことば」の愚かさによって提示されるのは「キリスト」です。キリストは十字架につけられ、全世界に宣教されている神の救いそのものです。どの国民にとっても躓き、愚かとみなされるのですが、召された者たちには、そこに神の力と知恵が顕わにされるのです。
召された私たちは、ただ世の知恵を排してキリストによってのみ教会を作るのです。
2022/10/2 Ⅰコリント1:10~17 教会の一致
・教会の一致
「みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保って」とあります。キリスト信者はキリストにあって兄弟姉妹どうしであり、霊的に1つのもとされており、それゆえに具体的な形で一致を作り保っていくようにとの勧めです。この「教会の一致」の勧めは、ヨハネ福音書17章で主イエスご自身が切に祈っているテーマです。
・キリストが分割されてはならない
ところがコリント教会では、際立った形で一致が失われ、互いのグループが対立している状態でした。
「私はパウロに…私はアポロに……私はケパに…私はキリストに」といった状態でした。
そこでパウロは福音は、そのままキリストの体としての教会の中で実践されなければならいことを示します。ですから、教会の分裂は「キリストを分割する」というような冒涜的行為であることを示して諌めています。
・十字架がむなしくならないため
「キリストの十字架がむなしくならないために」とあります。キリストの福音は、いわゆる十字架の性質を持っており、まずは人間的知恵や誇りが砕かれてから、そのまま純粋に据えられる神の真理です。人間の知恵、誇りによって歪曲されて受け取られたのでは「十字架がむなしく」なるのです。
これは、コリント教会だけではなく、私たちの教会も、深く探られなければならない点です。