2022/10/16 Ⅰコリント1:26~31 主にあって誇れ

・信仰の原点…召し
 互いに分派を作っていたコリント教会の人々に対して、パウロは「あなたがの召しのことを考えて」と語りかけています。「召し」とは、神に呼ばれて救いに入れられたことで、その時の状態を思い起こすようにということです。
「この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく…」と、彼らの多くは社会的に、決して優れた者たちではなかったのです。「世の知者」であった場合でも、「召し」はその知恵の愚かさと虚しさを知らされた時だったのです。その信仰のはじめは同時に、信仰姿勢の原点です。

・だれをも誇らせない
「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び」とあります。神の「召し」と「選び」の目的が示されています。
 さらに「神の御前でだれをも誇らせないため」とあります。「だれでも」は、直訳「すべての肉」です。あえて人間を「肉」と表現して、神との区別を明確にしています。創造者に対して、被造物は誇ってはならないのです。誇ることは、罪の闇を深めるだけです。

・誇る者は主にあって誇れ
「誇る者は主にあって誇れ」とエレミヤ書が引用されています。エレミヤは「新しい契約」の預言をしましたが、それがキリストにあって成就したことが明言されています。新しい契約の祝福は、ただ「キリストにあって誇る」人々の中で、顕わにされるのです。  
 

0 件のコメント: