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2021/11/21 ルカ福音書14:25~33 弟子の条件

 ・弟子の条件
 主イエスはご自分についてくる群衆に対して、弟子の条件とは何かについて、次のように語っています。
「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」
 地上に生きる人間にとって「自分のいのち」は言うまでもなく、家族と親族は何よりも愛すべき存在です。それを「憎むように」ということは、世の常識を覆す革命的言葉です。

・自分の十字架を負って
 さらに「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」と畳み掛けています。「十字架」とは、地上の一切を否定する象徴です。地上のものに未練を残していては、イエスの弟子となれないと明言しているのです。
 「塔を築こうとするとき」「どんな王でも…戦いを交えようとするとき」と2つの例を用いて、物ごとを成功させたり、勝利するときに、基本となる合理的判断が必要であることを示しています。それがイエスの弟子となる場合は、「自分のいのちを憎む」「十字架を負う」ということだということです。

・神中心の生活転換
 これらの命令は、ショック療法的言葉で、私たちが地上の生命に執着するよりも、神を第一に愛すべきをことを具体的に示しているのです。その基礎があって初めて、地上のいのちも人間関係が純化され、健全で幸いとなるからです。

2018/5/13 Ⅰコリント13:4~13 母の愛 母の手


・母の愛、母の手
 聖書に「愛は寛容であり、愛は親切」とあります。 寛容とは受動的愛であり、親切とは能動的愛です。生まれながらの赤ちゃんはかわいいのですが、粗暴です。その子は、母の育み、つまり寛容と親切によって人間として成長します。その具体的手段はお母さんの手です。

・道しるべ
 また母の愛は、子どもを神の愛に向かわせる道しるべになります。青年時代に、私は真理を捜し求めました。その時に、真理には愛が付随するという風に考えました。それは母の愛が疑い得ないもので、善なるものと考えたからです。そこから向かったのはキリストの愛です。母の愛はやがてその生命とともに尽きるものですが、キリストの愛は永遠です。その愛に出会ったときに、神の手のひらの上に置かれたような平安を感じました。

・祈りの手
 最期に、母の愛/母の手は、祈りとして用いられます。母の愛にも力にも限界があるので、神の愛に子どもを委ねることが大切です。母の手は、祝福された手ですから。神がその祈りを拒むわけはないのです。

2018/4/1 1コリント15:50~58 終わりのラッパ


・終わりのラッパ
 パウロは世の終わりに天からのラッパの響きがあり、それとともに体の復活が起こることを示します。その際「血肉のからだは神の国を相続」することはなく、「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられる」のです。神の国に入ることができるのは、福音によって御霊を宿した者たちで、そのすべてが御霊に属するからだに変えられるのです。

・死は勝利にのまれた
 「死は勝利にのまれ」とは預言者のことばですが、ラッパの響きとともに神の壮大なドラマが完結します。地上では死は絶対的圧制者で誰も立ち向かうことができません。しかしキリストの死と復活において、死の敗北が始まり、終わりの時に大逆転劇が起こります。キリストと民が死の支配を打ち破り、すべて新しい体に復活するからです。

・堅く動かされることなく
 復活の教理は、キリスト教の礎です。それを動かそうとする誤った教えが周囲にありますが、それに惑わされることなく、堅い信仰を保つことが大切です。
 「労苦がむだでない」とあります。キリスト者としての証や奉仕、また地上での生涯全体の労苦のことです。それらは地上の死によって絶えてしまうのではなく、私たち自身と友の復活という永遠の価値につながるからです。
 

2017/9/10  1コリント13:1~8 「愛は絶えることがない」

・愛がないなら
 婚約式の前に、夫婦関係についてお話しします。テーマは「愛」についてです。1コリント13章は教会の交わりだけではなく、夫婦関係についてそのまま適応できます。13節では「愛がないなら」という言葉がくり返し語られ、「何の値うちもない」「何の役にも立たない」と結論づけられます。結婚して夫婦になることで、色々な目標を持つのですが、「愛がないなら」「何の値うちもない」ということになります。

・愛の実際
 パウロがここで言っている「愛」とは、観念的ではなく、隣人に対する「愛」です。夫婦の場合は、それぞれ目の前にいる伴侶ということになります。愛は、その具体的な関係の中でのみ形づくられます。「愛は寛容であり、愛は親切…」とあります。それはどちらも自分勝手を押さえて、相手を受け入れる態度です。「すべてをがまんし…もまた、自分の直情的な怒りを抑えて、相手を建て上げることを第1とする態度です。それは生来の人間には不可能なのですが、それでもキリストの愛の中で、達成しようと志すことが大切です。

・愛は絶えることがない
「愛」は決して華やかなものでなく地味なものです。しかし「愛は決して絶えることがありません」と断言します。互いに不完全で異なる者どうしが、夫婦となります。神はそこで完全、永遠の価値を作ってくださるのです。


2016/5/29 Ⅰコリント15:58 虚無と真実



1コリント15:58から
 「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」 1コリント15:58
 コリントはギリシャの町で、この世の実生活を軽んじる傾向がありました。そのために、虚無的な生活スタイルが蔓延し、道徳的にも退廃していました。しかしパウロはキリスト者はこの世の実生活も大切にするようにと勧めています。それはキリスト教信仰は、具体的な生活の中で育まれ、永遠に至る生命が養われ、実る場であるからです。

・古さを大切にする文化
 私は一週間のドイツスイスツアーで目にとまったのは、彼の国民が古い町、古い文化を大切にしていることです。そして、その古き町を愛し、今の自分たちの生活も着実に積み上げているということです。そこには何よりも心の安らぎがあります。ドイツ語で「古い」はアルテといいますが、その言葉には慕わしさ、懐かしさという意味も含まれていることです。

・虚無と真実
 ドイツの童話作家ミヒャエルエンデは「モモ」「ネバーエンディングストーリー」を書いていますが、そこでとり上げている問題は、現代の効率主義と虚無でした。効率、発展というお題目の中で、古いものを否定していくときに、そこに残るものは虚無だけということです。
 私たちは虚無の悪魔にも打ち勝つキリストという真実が与えられたのですから、堅実な信仰と教会生活を通して、真実な世界をこの町にも打ち立てたいと願わされました。

2015/9/27 召天者記念礼拝 Ⅰコリント15:42~49 復活について



・召天された方々
 私たちの教会では、すでに召天された方々は21名になりました。それぞれが地上の生涯のある時点で、キリストを信じて、復活の生命を与えられました。私たちは、召天者を偲ぶだけではなく、この方々に与えられた希望をよく覚えるべきです。

・血肉の体で蒔かれ
 「朽ちるもの」「卑しいもの」「弱いもの」「血肉のものと語られておりますが、これは地上の生命を意味します。「蒔かれ」とは、「神の言葉」と言う種が蒔かれたということです。つまり、生涯において神の言葉に接して、それを心から信じたときに、私たちの地上の生命に中に「蒔かれる」ということです。
・甦らされ
 この「種」はチッポケに思われますが、その中には神の力が宿っています。そこから芽生え成長するものは復活の生命であって、地上の生命とは、全く異なります。つまり「朽ちない」「栄光ある」「強い」「御霊に属する」生命です。また、天の御国でも生きる生命です。
 また「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」とあります。つまり復活の生命は、空虚なものではなく、具体的に霊とからだが伴う生命であるということです。
 召天者は、すでにその約束に入れられていますが、私たちも信仰を保って、終わりの日に体の復活に預かるようになりましょう。

2013/5/12 Ⅰコリント13:4~13 シャクナゲ色の母の愛

・シャクナゲ色の母の愛
  母の日の頃、シャクナゲの花が咲きます。薄紅色の花は、母の愛の優しさ、親しみ、美しさにピッタシだと常々思います。
  母の愛が良い色に染まっていくためには、日頃の労苦が付きものです。「愛は寛容であり、愛は親切で…」とありますが、これらの愛は決して楽ではありません。自分が砕かれるのと比例して、私たちの内に生じるのです。

 ・永遠の愛の色
 母の愛が、キリストの愛によって深められ、純化されるときに、その愛もまた「決して絶えることがありません」。
  現代の母は、色々な能力や知識が要求されるのですが、子どもとの間で育まれる愛ほど、価値あるものはありません。地上の賜物も、能力も、財産もすべて廃れていく中で、愛のみは「絶えることはない」のです。

 ・ある母の愛
  東日本大震災のおりに、ダウン症の孫を助けて、自らは津波にながされた女性がいました。孫が車に乗るのを見届けてから、名を呼んで「バンザイ、バンザイ」と叫んだそうです。
  ダウン症の子の母は、後でその話を聞かされました。初めは、父を責め、ダウン症の子どもを生んだことを悔やんでいました。しかし、孫を助けるために自分の生命を捨てた母の愛、また愛の中で生かされている子どもの柔和な笑顔を見ているうちに、少しずつ心の傷が癒されたということです。
  キリスト者の母の場合は、何よりもキリストの愛によって、愛が強められ、深まるのです。