2021/4/11 ルカ福音書10:25~37 良きサマリヤ人のたとえ

 ・隣人とは
 あり律法学者が主イエスに「永遠のいのち」獲得の手段について尋ねた時、主イエスは彼の偽善を見抜いて、律法つまり「神と隣人を愛せよ」という命令を実行するように命令します。しかし彼は自分の正しさを示そうとして「私の隣人とは誰ですか」と問います。

・良きサマリヤ人のたとえ
 そこで主イエスは良きサマリヤ人の例えを語ります。つまり、ある人が強盗に襲われて半殺しにされて倒れていた時に、誰が彼を愛して助けたかという話です。祭司もレビ人もそこを通り、その人を見たのですが、彼らは見て見ぬふりをして通り過ぎます。しかし「あるサマリヤ人」は「彼を見てかわいそうに思い」、回復するまで徹底した介抱をしました。祭司とレビ人の姿は、律法主義で義人を装っているユダヤ人のすがたであり、そこには愛も生命もないことが暴かれています。「サマリヤ人」とは、イエスご自身を暗示しています。愛と生命は律法の枠外から到来するのです。そしてすべての人は、霊的にはむしろ、半殺し状態の存在なのです。

・良きサマリヤ人…イエス
 私たちの場合も、まず自分は霊的には半殺し状態の存在であることを素直に認める必要があります。そして良きサマリヤ人であるイエスの愛と救いを受けて癒やされ、新しい生命を獲得することが大切です。その後に、彼にならって「同じように」することができるのです。

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