2013/3/24 イザヤ53:5~12 贖いの小羊

・そむきの罪と咎
  イザヤは人間の罪について、これまでも鋭く暴き立ててきました。ここでは「そむきの罪」「咎」という言葉で表現しています。人間の堕落のはじめは、羊が迷い出るようでしたが、その本質は反逆であり、立ち返れない深刻な堕落でした。それは現代の私たちを支配しています。

 ・贖いの小羊
  しかしイザヤは、「しもべ」が私たちの罪の身代わりとなることを預言します。「彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」。また「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と。「しもべ」は贖いの小羊として、私たちの罪を担い、私たちには彼が持つすべての祝福をもたらしたのです。

 ・イエス・キリスト
  それから七百年後、バプテスマのヨハネがイエスを見て「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。イエスこそこの「しもべ」であり、その正体は神の一人子でした。彼の贖いは完璧です。
  このようにして、イザヤは旧約世界とは全く別個の、さらにすぐれた贖いを示しました。このすぐれた贖いに預かるためには、古い価値観,世のすべての価値観を捨てて、ただ彼を信じて受け入れるだけでいいのです。

2013/3/17 イザヤ53:1~4  苦難のしもべ

・神の若枝
  53章でイザヤは、「苦難のしもべ」の預言をします。彼こそが、神から全権を受けて地上に救いを実現する代理者です。
  「彼は主の前に若枝のように芽生え」とあります。人間として到来して、神の恵みを十二分に受けて御心にかなった者として成人したということです。

 ・見とれる姿もなく
  しかし「しもべ」は人の目には「見とれるような姿もなく、輝きもなく」「見ばえもしない」存在でした。さらには「さげすまれ、人々からのけ者にされ」る者です。
  神からの全権者であるならば、王者としての風格があり、常に家来を従える存在であるというのが、一般人の常識ですが、その常識を覆す姿でした。
 また「病を知っていた」とは知的にと言うよりも、体験的に知っていたと言う意味です。彼自身が病を負った者となり、悲痛な体験をしたということです。  

 ・苦難のしもべ
  どうして「しもべ」は何重もの苦難にあい、悲しみと病を体験したのでしょうか。それは第一に、苦しみと非難の中にある人々のことを知り、彼らと共にあって、慰めるためです。第二には、彼らの病と痛みをご自分が担い、彼らにはご自分の祝福と生命を与えるためでした。つまり彼らを救うためです。
 この七百年後に、イエス・キリストがこの「苦難のしもべ」として、到来しますが、確かに彼は、私たちの罪と病と痛みの一切をご自分の身に受けたのでした。

2013/3/10 イザヤ52:7 救いの「良い知らせ」


・救いの「良い知らせ」
 イザヤは新しい救いについて預言すると同時に、その伝達手段についても語っています。「良い知らせ」として伝えられるのです。何か秘蹟がある秘義があるというのではなく、明瞭な言葉として伝えられると言うことです。
 日常生活でも良いニュースだけで、私たちの気持ちや心が180度変わる経験をしますが、「良い知らせ」は生命自体と生涯に変革をもたらします。

・「良い知らせ」とは福音
 イザヤが語る「良い知らせ」とは、神との平和と霊的な幸いで豊かさのの実現です。それは「あなたの神が王となる」というメッセージで示されているようにイエス・キリストによって成就します。つまり、「良い知らせ」とはキリストの福音のことです。これは旧約の世界を支配する律法とは別の救いであり、裁くのではなく、罪人をこそ救う教えです。
 さらに「良い知らせ」は救いの伝達手段であり、同時にそれ自体に救いが包含されています。現代でも、それを聞き受け入れた人々の心の中では、死から生命へという180度の変革が起こります。

・「…足は何と美しい」
 最後に救いの「良い知らせ」に必要とされていることは、「伝える者の足」です。つまり福音のために働く人々です。私たちはすでに「良い知らせ」を信じる幸いに預かっていますが、さらに伝える者の足」となるという幸いも委ねられています。その人々は神の目に「美しい」とされるのです。

2013/3/3 イザヤ46:1~4 背負う神

・「わたし」に聞け
  人は、偶像などの目に見えるものに信頼を置く体質を持っています。しかしそれらは何の力もなく、かえって足手まといとなるのです。
  「わたしに聞け」と主なる神は、語りかけます。聖書の神は創造主であり贖い主です。神の言葉にさえ耳を傾けるなら私たちは救われます。

 ・背負う神
  「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者」とあります。私たちの母が胎内に認知する前から、神は私たちを担い、誕生後も親の背後で運んでくださったのです。
  イザヤ書の言葉は当時のユダヤ人に対して語られているだけではなく新約の民である私たち一人一人に語られています。「あなた」のこれまでの人生も神に担われてきたと言うことです。

 ・年を取っても
 「あなたがたが年をとって」「しらがになって」あります。老年になった時、体力が無くなり、病気がちになり、人々に見放されるという不安が増大します。しかし神は「わたしは背負って、救い出そう」と約束してくださいます。
  神は「背負う神」です。その誠実と恵みは徹底しており、ついには私たちの罪を御子キリストに背負わせ十字架に向かわせるに至ります。
  私たちはしっかりと「わたしは背負う」と語りかけてくださっている神のみ声を聞き、その約束に一切を委ねるべきです。

2013/2/24 イザヤ43:1~7 あなたは高価で尊い

・「あなたを贖った」
  恐れの中にある民に対して、神は励ましの言葉を与えます。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ…」
 神が私たちの近親者となってくださって、私たちを罪から、死から、あらゆる敵と危機からの救済者となっておられると言うことです。

 ・「あなたは…高価で尊い」
  高価とは宝石のように尊い存在であると言うことです。「愛している」とは、利害関係を超えて、永遠の人間関係を結んでくださっていると言うことです。
  生まれながらの私たちは、ただ汚れた者ですが、神によって贖われた者は、贖い主キリストゆえに、聖さ、義、良さなどすべての飾りを身に付けています。それで神は私たちをなお愛してくださいます。

 ・御目を通して自分を見る
  私たちは自分の目と頭で自分自身を見る習慣がありますが、それは恐れと絶望に導きます。私たちは神の目を通して自分を見る習慣を身に付ける必要があります。そのとき、生まれながらの自分は罪ある者として示されますが、同時にキリストゆえに永遠の愛の中で生かされ、守られていることに気づかされます。

 ・神に対する応答
  最後に、私たちが神の愛の中に留まるためには、私たちの側でも、心から神と贖い主キリストを受け入れる必要があります。「選ばれた者は、選んだ方を自分でも選ばなければならないのです。」

2013/2/17 イザヤ42:1~4 いたんだ葦を折ることもなく

・救いを打ち立てる「しもべ」
  旧約の世界では様々な神のしもべが登場します。みな、神の御心を地上に実現するために派遣された者たちです。しかしイザヤ42章以降に登場する「しもべ」は極めてユニークな存在で、罪と死に対する救い、つまり究極の救い(公義)を打ち立てるために、地上に遣わされます。

 ・「叫ばず、声を上げず…聞かせない」
  彼は罪とエゴの下にある者たちとは異なり、7つの否定的態度を持ちます。「叫ばず、声を上げず…聞かせない」とは、ことさらに自己アッピールをしない姿勢を表しています。彼は自分を知らせるよりも、人々の声を聞き、苦しみと悲惨に耳を傾ける存在であることを示します。

 ・「いたんだ葦を折ることもなく」
 「いたんだ葦を折ることもなく」とは、その優しくあわれみ深い態度を示します。人は弱い存在で心傷つきいたんでいます。その弱さを斟酌し、支え、建て上げる働きをするのです。さらにはその柔らかい心で、罪をきよめ、死んだ者をもも甦らすのです。

 ・十字架のイエス  この「しもべ」とはイエス・キリストのことです。彼は大工の子として誕生し、30才になってから公生涯に現れ、十字架の死をもって地上の生涯を終えました。相手を砕くことに拠ってではなく、自分が砕かれることによって救いをもたらしたのです。その救いは「島々に」あらわにされています。
  私たちがキリストの救いを見いだすためには、まず自分自身の心の「衰え(消え)」「くじけ(傷み)」を直視することが大切です。

2013/2/10 Ⅰコリント15:35~55 肉体の復活

・12箇条「肉体の復活」
  12箇条信仰告白の最後は「肉体の復活」についてです。次のようにあります。「信者は主とともなる永遠の祝福と喜びによみがえり、不信者はさばきと永遠に意識する刑罰によみがえることを信じる。」

 ・肉体の復活
  聖書では、キリストが肉体によって復活したように、信者も肉体の復活することを示します。ちょうどキリストは初穂であり、信仰者はそれと同じように復活すると言うことです。
 また復活の体は、御霊に属する体です。それは生まれながらの生命に血肉の体があるように、御霊の生命にふさわしい「よりすぐれた体」栄光ある姿」でよみがえります。

 ・最後の審判と復活
  肉体の復活は、最後の審判時に起こります。そのときに、信仰者は新しい体に復活して、「主とともなる永遠の祝福と喜びによみがえり」ます。それは救いの完成の時です。
  しかし、キリストをしりぞけた者はその救いを獲得することなく、永遠の刑罰に陥って滅びます。

 ・信仰生活の励み
  ですから、私たちは「心を引き締め、身を慎み、…ひたすら待ち望」(1ペテロ1:13)む姿勢を整えるべきです。それは地上のどのような時でも、キリストを信じる信仰を強め、救いの完成に向かって希望を持って生きることです。

2013/2/3 イザヤ41:8~14 恐れるな

・不安と恐れ
  地上に生きる私たちは、基本的に恐れの状態にあり、心の奥底には恐れの感情が溢れています。何か、困難な出来事が起こったときに、その感情はあふれ出してきます。それは神の民であっても同じです。

・選ばれた神のしもべゆえ
  しかし主である神は、あらゆる仕方で神の民から「恐れ」の感情を取り去ろうとなさいます。まず、私たちが神によって「選ばれた民」であり、「神のしもべ」「神の友/神に愛されている者」であることを覚えさせています。神は、私たちのために「贖う者/近親者」となってくださったのです。

 ・神の臨在と助けゆえ
  「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」「恐れるな。わたしがあなたを助ける」とあります。神は目には見えませんが、この約束の通り、共にあり、助けてくださる方です。私たちが虫けらのような小さな者、罪人であっても、心から救いを求める時、救ってくださるのです。

 ・「恐れるな」を心に刻む
  私たちは恐れの感情に打ち勝つには、神の約束を信じるとと共に、その言葉をしっかりと心に刻むことが大切です。心に刻まれた御言葉は、ちょうど大波の時にも、決して崩れることがない防波堤となって、私たちを守るのです。

2013/1/27 イザヤ40:27~31 待ち望む信仰

・現実とつぶやき
 イザヤは人々のつぶやきを指摘しています。人々は目先の現実ばかり見て困難を覚え、つぶやいていたのです。私たちもただ目先の現実だけにとらわれていたら、いつの間にか呟きと不安と不信仰になってしまいます。

 ・永遠の神を見上げる
  信仰者が忘れてはならないことは、神の言葉を聞き、神に教えられ、神を見上げると言うことです。その時に肉眼で見て早合点した現実とは異なる神の世界が見えます。神は永遠の神であり、人間の思いと力を遙かにこえた方です。また民に対してその力と生命を与えようとしておられる方なのです。

 ・待ち望む信仰
  それでは私たちはどのようにして、神の力を受け取ることができるのでしょうか。それはただ「主を待ち望む」という信仰姿勢のみです。主を信じ続けると言うことです。色々な困難がやってきますが、その中で信じ続けることで信仰は鍛えられていきます。

 ・新しく力を得る
  イザヤは主を待ち望む者がどのような力を受けるかについて鷲のたとえを用います。鷲は羽を痛めたとき、じっと待ちます。するとやがて新しい羽が生え、前よりも力ある羽となります。鷲はその風切り羽でもって上昇気流をとらえて高く登ることができるのです。丁度そのように、神の民は待ち望む信仰が新しい羽になり、神の風を受けて上昇することができるのです。

2013/1/20 イザヤ40:6~8 神の言葉は永遠に立つ

・すべての人は草
  人間は知能があり、他のものと比較してすぐれていると錯覚することがあります。また霊魂は不滅であると聞くことがあります。しかし本質は「肉」に過ぎず、草と同じように滅び行く存在です。また人間との関わりやその頼もしさや慕わしさも、野の花のように絶えてしまいます。

 ・主の息吹がそこに吹くと
  人間のはかなさは、何かの事件や災害時に明瞭になります。旧約の時代には周辺諸国の侵略がそれでした。人々は殺戮され、捕囚に憂き目にあい、人間が如何に頼りがない存在であるかを思い知ったのです。
  しかし、事件や災害と見えることも、本質は「主の息吹」でした。地上の生まれながらの人間は神の怒りの元にあります。滅びという現実の中で、神の怒りの元にある存在であることを、厳しい形で示されるのです。詩篇90編にはそのことがしるされています。

 ・神の言葉は永遠に立つ
  しかしながら、「私たちの神」は神の民に対しては厳しいだけの神ではありません。それ以上にあわれみと恵みに満ちた神です。その恵みの手段は御言葉をとおして明示されました。人の「栄光=ヘセド」は頼りなくとも、神の「栄光/恵み=ヘセド」は永遠なのです。
  私たちは神の言葉である福音を信じることで、どのような時にも神によって新しい生命に生き返らせ、神の言葉と共に永遠に生きるのです。

2013.1.13 イザヤ37:14~20 ヒゼキヤの祈り

・背景
 アッシリヤ帝国は勢力を伸ばし周辺諸国を滅ぼします。またBC721年には北イスラエルが滅亡しました。イザヤ書36~39章の記事はBC701年頃の出来事と思われます。この時、アッシリヤ帝国は南ユダに矛先を向けエルサレムを包囲していました。
  この時の南ユダ王国の王はヒゼキヤでした。彼は敬虔な人であり、この危機に際して、信仰的に対処します。

 ・ヒゼキヤの信仰
  ヒゼキヤの祈りの言葉に、彼の信仰があらわされています。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。 」とは、一切の被造物から超然とした絶対神ということです。天使ケルビムは一切の被造物の頂点にありますが、その遙か上に君臨するのが主なる神です。
  「ただ、あなただけが地のすべての王国の神」という告白は、異国の神々は偶像で主なる神のみが生きている神という告白です。

 ・ヒゼキヤの祈り
   ヒゼキヤは自分のことよりも神を第1に覚えて祈っています。まず神の名が「そしられ」侮られていることを問題視して祈っています。さらに、自分のためというより神の栄光のために祈っています。  「私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」  神は御心にかなった祈りに答えてくださり、翌朝、アッシリヤ軍勢は撃退されたのです。

2013/1/6 イザヤ35章 シオンへの帰還

・終わりの時
  神の民にとって地上の生涯は必ずしも、良いことばかりではありません。むしろ、暗闇の時、不毛の時が多いのです。預言者イザヤの時代も、そのような時代でした。
  しかし、イザヤは未来の預言をします。つまり神は「終わりの時」に荒野と砂漠にサフランを咲かせるように、神の国を実現してくださると言う預言です。

 ・キリストにある時
  「神の国」はキリストの到来によって、一部、実現します。また使徒パウロは「今は今は恵みの時、今は救いの日です」と語っています。
  つまり「神の国」は、キリストの福音と共に私たちの内面において実現しているということです。私たちが、福音を信じるときに、神の国の民とされ、神の国に入れられるのです。

・シオンへの帰還
  神の民に取ってこの世は寄留の地です。そこが最終目標ではなく、神の国が完全に姿を現す「終わりの時」に、なお向かっていきます。
  その際、神の民には「大路」が用意されています。御言葉と聖霊によって照らされた大路で、そこを通る限り、悪魔も世の権威も、行く道を妨げることはできません。

 ・未来に向かって
  今は、未来に対する展望を失いかけている時代です。人々は刹那的な喜びで気を紛らわしたり、絶望的な気持ちになっています。しかし、私たちは神によって与えられ、招かれている未来の時代があることを明瞭に覚える必要があります。そこ自覚から、生きる力と希望が沸き上がってくるのです。

2012/12/23 ルカ2:8~20 天に栄光 地に平和

・闇の世界
  クリスマスに登場するのは、ヨセフとマリヤ夫妻、羊飼いたちです。彼らは、世の辛さ、貧しさ、惨めさを嫌と言うほど味わっていた人々でした。ですから、クリスマスの夜の風景は、彼らのおかれた世の闇を暗示しているといえます

。 ・天使の御告げ
  その彼らに御使いたちが現れて、新しい時代の到来を告げています。御使いガブリエルは御子の誕生を告げ、「天の軍勢」は御子よって興る新しい世界を示しています。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
  新しい時代は、天地創造者である神に栄光が帰され、また神の民こそが、平和に満たされるということです。

 ・「天に栄光 地に平和」
 新しい救いの世界は、ただ幼子イエスを通して実現します。彼は人の目にはただのチッポケで貧しい赤ちゃんですが、聖霊によって心の目が開かれた人々には、「神の栄光」の輝きそのものであることが明らかにされます。
  羊飼いたちは御使いの言葉を信じて、幼子の正体を見いだして、互いに喜び、そして神を賛美して、救いの世界に入れられています。

 ・イエスによって描く
  私たちにも、福音によって御子が提供されています。それは目に見えない存在ですが、御使いの言葉に従って御子をよく見つめるときに、救いの世界が輝いています。私たちは、御子を信じることで、その世界に入ることができ、私たちの内にも御使いたちの賛美が生まれてくるのです。

2012/12/16 Ⅱコリント8:9 クリスマスの恵み

・クリスマスの恵み
  恵みとは、相手のために良くし、相手を生かし、その心を喜ばせることです。そして、それが受け入れられたとき、与える側にとっても、受ける側にとっても、それは良いこととなり、喜びとなります。  神はキリストを通して、私たちに対して恵みを示されました。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」とあるとおりです。
 キリストの富とは、神の子として立場と権威、聖さと義、あらゆる祝福です。しかし、それらを捨てて、貧しくなられました。つまり、人として地上に誕生し、最後はすべてを奪われて十字架の死にまで至りました。呪われた者、もっともに貧しく、卑しい者とされたのです。

 ・恵みの交換
  これらは「あなたがたのため」とあるとおり、私たちの貧しさをその身に受け、私たちに一切の富を与えるためでした。
  これは恵みの交換です。つまり、対等のものではなく、富と貧しさ、聖さと汚れ、癒しと傷と、安楽と重荷という相反するものの交換です。この交換によって、私たちは富む者となるように招かれているです。

 ・恵みを受け入れる  クリスマスの時は、キリストが貧しい姿で地上に誕生したことを記念するときであり、その恵みがクッキリと現されるときです。私たちはもう一度、神がキリストを通して差しだしておられる恵みを覚え、心から受け取りましょう。

2012/12/9 イザヤ30:15 立ち返って静かに

・世にある人間
 神様は人間が2つの世界に依存して生きるように創造されました。第1は神の世界、次に被造世界(世)です。人は堕落以降、神との交わりを避け、目に見える世界に向かうようになりました。しかし、そこは罪の世界、滅びの世界、決して平安はありません。

 ・立ち返って静かに
 「立ち返って静かに」とイザヤは語ります。「立ち返る」とは、振り向くと言うことですから、私たちの心の目を世から離して、神に向くようにと勧めています。神こそが、私たちの心の目を向ける第1の対象です。
 その際に「静かに」する必要があります。私たちの神経を刺激していた世の煩い、囚われの思いを沈める必要があります。その「静かさ」の中で、神のみことば、神の御顔の光が顕わにされるのです。その交わりの中で、神が愛と全能の力で「あなた」を救ってくださることが分かります。

 ・落ち着いて信頼する
 次に「落ち着いて信頼する」とあります。「落ち着く」とは、周囲のことに煩うことなく、心を穏やかにすることです。「信頼する」とは、大丈夫だと信頼して心を安らかにすることです。神の前では熱狂も、頑張りも必要なく、ただ「落ち着いて信頼する」ことが大切なのです。
 神は、内側からも力を与えてくださり、私たち自身を通して、問題を克服させてくださるのです。

2012/12/2 イザヤ28:16 礎の石イエス

・旧約の世界と基礎
  あらゆる建造物には、礎が据えられます。それは重要なことです。極端を言えば、見える部分は氷山の一角であり、その下には大きな基礎があると言うことです。
  丁度そのように、旧約の世界にも目に見える社会と国家の背後には、礎がありました。それはモーセを通しての契約の箱であり、それが安置されたエルサレム神殿でした。

 ・礎の石イエス
  「私はシオンに一つの石を礎として据える」とあります。神は古いものをよしとせず、それとは別の礎を据えることを示します。それは「試みを得た石、堅く据えられた礎の尊いかしら石」とあります。つまり新しい救いの世界の礎です。
  この新しい「礎の石」とは、イエス・キリストのことで、彼は確かに「試みを得た石」「尊いかしら石」です。つまり、処女マリヤから生まれ、十字架の死にまでも従い、三日後に復活しまして、公に神の子として証明された方です。これ以前にもこれ以降にも、このような盤石な礎はありません。

 ・信じる者はあわてることがない
 「これを信じる者は、あわてることがない」とあります。信仰とは、契約のサインと同じです。つまり「イエスこそ神の子で、私の救いです」と心で信じ、口で告白するのです。その信仰で、神は「私」をイエスという礎の上に置いてくださり、どのような危機からも救ってくださるのです。地上の様々な危険から救い、罪と死の脅威からさえ救い出すのです。

2012/11/18 イザヤ27:1~6 時が来れば

・「その日」のレビヤタン
  「その日」神の民を脅かし、訴えるレビヤタン(サタン)が罰せられます。同時に神は御民を「麗しいぶどう畑」として守り、育み、最高の実を作られます。  このことは旧約時代と比較すれば180度の変化で、すべてイエス・キリストの贖いによって成就することです。このお取り扱いの変化は、御民の喜びであり歌となります。

 ・「麗しいぶどう畑」の歌
  神は「麗しいぶどう畑」を愛情深く見守ります。「絶えずこれに水を注ぎ」「夜も昼も見守って」います。成長の害となる「いばらとおどろ」を踏みつぶします。そのようにして最上の実を育て上げます。
  丁度そのように神は、私たち信仰者と教会を絶えず見守り、愛の業を日々なしておられます。

 ・和を結ぶ
 神は私たちに対して「わたしの」守りに頼るように促します。その条件は信じ、信頼し、「和を結ぶ」ことです。「和を結ぶ」とは、実際に平和の業をなすことです。つまり偶像崇拝を止め、神を第1とした生活スタイルと礼拝を持つことです。

 ・時が来れば
  「時が来れば、ヤコブは根を張り…」とあります。神は御民を日々、守り育てていますが、目に見える変化は「時」が来なければ、しっかりと判別はできません。
  そこで私たちに必要になることは神の約束を信じて、神の「時」を待つことです。「時が来れば」、私たちも「花を咲かせ…実を満たす」のです。

2012/11/11 志の堅固な者と全き平安

・私たちの「強い町」…神の都
 「その日」とは、イザヤにとっては未来の時代ですが、私たちにとってはまさに「今の時」です。この時代に、神は私たちのために「強い町」を建設されました。
  それは目に見える城塞都市ではなく、イエス・キリストを基礎とする霊的な町で、目に見えるいかなる守りよりも強固です。また「ハデスの門」もそれに打ち勝つことができません。

・志の堅固な者
  「強い町」である「神の都」に入ることができる者は、「誠実(アーメン)を守る正しい民」とあります。それは「信仰によって義と認められた者」ということです。さらに「志の堅固な者」です。それは神に心をしっかりと向けて「信頼し続ける人」のことです。

 ・全き平安
  「全き平安」とは、「シャローム、シャローム」ということです。それは地上の力によっては獲得することができません。ただ、神の圧倒的な恵みの力によって実現します。
 地上には必ず患難があり、目に見える「シャローム」は永続しません。しかし「全き平安(シャローム シャローム)」は地上の患難の中でこそ、実現していきます。つまり信仰者の志は、患難の中で強化されていくからです。ローマ5:3~5に次のようにあります。 「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す…。この希望は失望に終わることがありません。」

2012/11/4 イザヤ25:1~9 希望の神

・私の神
  「主よ。あなたは私の神。」とあります。「あなた」と「わたし」の関係は、人格関係を表し、互いの信頼関係で成り立ちます。イザヤは神に対して絶対的信頼を置き、その信頼感の中で祈り、賛美し、崇めています。その関係は、神が招いてくださった結果、成立するものであり、イザヤはその招きに対して、身を投げ出すように応答していました。

 ・砦である神  イザヤが主なる神を信頼するのは、実際に信頼に値する神だからでした。まず、「横暴な者たち」をしずめ、「弱っている者」「貧しい者」たちのために砦となってくださるからでした。神の民は、世において「弱っている者」「貧しい者」です。世の力にたよらず、悪と組むことがないからです。

 ・死を滅ぼす神  さらにイザヤは神である主は、「永久に死を滅ぼされる」神と告白します。神は全知全能であること、御民に対して限りない愛と恵みを注がれること、この2つの信仰によって、この究極の告白をしています。
  この箇所は1コリント15:54 に引用されていますが、主イエス・キリストの贖いによって明瞭にされた真理です。

 ・希望の神  「待ち望んだ私たちの神」とあります。それは希望の神と言うことです。人は期待が裏切られたり、希望を失うときに、崩壊していきます。しかも世のものは必ず期待を裏切ります。ただ私たちに対して、「あなた」「アバ、父」と呼ばせてくださる神のみが、私たちの希望なのです。

2012/10/21 イザヤ14:12~15 「暁の子」と傲慢

・暁の子
  「暁の子」とは金星のことで、暁の空にひときわ輝く星です。イザヤは地上の権力者、特にバビロンの王をこの星にたとえました。確かに、彼は当時の世界を征服し、最高の輝きを放っていました。しかし、それだけではなく高慢と傲慢の光もそれ以上に放っていました。地上の権力者の光は、みな虚栄の光を放ちます。それはまたサタンの持つ光です。

・「神のように」という傲慢
  「いと高き方のようになろう」つまり「神のようになろう」という思いは、傲慢の極みです。聖書では、人間の罪の本質として描いています。これは単に昔の王たちの傲慢の姿だけではなく、現代人の姿です。
  この時代は個人が自由を持ち、それぞれが自分の世界を持つことが可能です。その闇の世界で、どこまでも傲慢な自我をを太らせ、勝手に輝かせることが可能なのです。しかしそれは罪の暗闇に輝くだけです。

 ・傲慢の末路
 「あなたはよみに落とされ」とあります。よみとは神から見放された者たち、死者たちのおぞましい世界です。暗闇の中に輝く者の死後は、天国ではなく、「よみ」であり「穴の底に落とされるだけです。  それゆえ私たちは決して傲慢の罠にはまってはならず、その結末をよく覚えることが大切です。

 ・神をのみ輝かす 
  また私たち自身としても、虚栄をはったりすることなく、ただ神にのみ栄光を帰することに心を傾けることが大切です。そこで、礼拝を重んじ、礼拝の場において、私たちの自我を砕き、神に心からの賛美をささげるのです。

2012/10/14 信仰告白「キリストの再臨」


・終末論とキリストの再臨
日本福音自由教会信仰告白第11条に次のようにあります。
「わたしたちの主イエス・キリストの御自身による千年王国前の、切迫した再臨を信じる。この「祝福に満ちた望み」は信者の個人的生活と信仰に重大な意義をもつものである。」
聖書の歴史観は、神による最初があって神による最後があるというものです。しかも「キリストによって」とあるのが特徴です。二千年前にキリストが地上に来られたことを初臨といい、終末における到来を再臨といいます。

・千年王国前の再臨
 黙示録20章にキリストが再臨した後に、信仰者らがキリストともに千年の間、世界を支配するという啓示があります。信仰者は裁かれることなく、キリストのさらなる愛の中におかれると言うことです。
 無千年王国説、千年王国後再臨説をとる教会もありますが、私たちは前千年王国説の立場に立ちます。

・切迫した再臨/祝福の望み
 「目を覚ましていなさい」とあるように、聖書では切迫した再臨について啓示しています。私たちは聖書の歴史観、人生観にしっかりと立ち、「五人の賢い娘たち」のように忍耐深く待つという姿勢を保つべきです。この世の煩いや欲に捕らえられて、キリストの再臨を忘れ、信仰の灯火を消してはならないのです。

2012/10/7 イザヤ11:1~9 エッサイの根株から


・エッサイの根株から
 ちょうど、花や果樹などの品種を作るように、神は人間を選びに選んで、ご自分の御心の器を到来させます。「エッサイの根株」とは、そのような人物であり、アブラハム、ダビデの子孫として到来します。しかも、ダビデ王朝が切り倒された後に、到来する人物キリストです。
 そして、木に実がなるように、「根株の新芽」には、「主の霊」が留まります。そのようにして神の器とされるのです。


・キリストは完全な霊を受ける
 キリストに留まる霊はまさに「主の霊」であってこの世の諸々の霊とは区別される聖なる霊です。また主の霊は主なる神の心と精神そのものですから、完全な「知恵と悟りの霊」です。さらに主の霊は天地創造をなし、歴史を支配する霊ですから、一切の「はかりごとと能力の霊」です。また主なる神ご自身の霊ですから愛する者にご自分を知らせ、また神と交わるに際してのふさわしい姿勢を教えます。つまり「主を知る知識と主を恐れる霊」です。以上7項目が上げられていますが、完全なる霊であるということです。
 新約聖書ではナザレのイエスに聖霊が鳩のように下り、彼こそキリストであることを証ししています。

・私たちにも主の霊が注がれる
 主なる神が、キリストを備えられたのは、彼を仲介にして、私たちにも霊を分け与えるためです。私たちは本来は罪人で悪い実しか持ちません。しかしキリストに結びつくことで、新しい人にされ、霊の実を結ぶことができるのです。ちょうど、接ぎ木された枝のようにです。

2012/9/30召天者記念礼拝 マルコ12:18~27 生きている者の神

・サドカイ人との論争
  主イエスは、サドカイ人たちとの論争を通して明瞭に「死者のよみがえり」を主張されました。サドカイ人たちはモーセ五書だけしか聖典として認めておらず、そこだけからは「死者のよみがえり」の教理を見いださせないと主張しました。そこで主イエスは、あえてモーセ五書の一つの箇所から「死者のよみがえり」を示します。旧新約全巻を貫き、聖書は「死者のよみがえり」を語っているのです。

 ・アブラハムの神、イサクの神…
  出エジプト記三章に「燃える柴」の箇所があります。モーセがミデヤンの羊飼いの時、ホレブ山で燃える柴の光景を見ます。それは燃えているが燃え尽きないので、不思議に思って近づくと、神の啓示がありました。
  「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」  父祖たちは神を信じ、神との交わりを持ちましたが、それは地上の生涯で終わることなく、永遠の絆となっていたのです。そしてちょうど燃え尽きることがない柴のように、信仰者たちは生かされているのです。

・生きている者の神
  世々の信仰者たちは、「死者のよみがえり」の希望ゆえに困難と迫害を甘んじて、信仰を貫きました。私たちの召天者たちも、その信仰のゆえに、神に覚えられ、生かされています。そして、来るべき日に私たちとともに「死者の中からよみがえる」者と定められています。

2012/9/23 イザヤ10章 絶対主権の神

・アッシリヤ王の高慢
  イザヤの時代、アッシリヤ帝国は諸国を侵略し、空前絶後の領土を持つようになっていました。それとともにアッシリヤ王の高慢も自分を神とするほどに高じていました。彼はイスラエルの神を無視して「私は自分の手の力でやった。知恵でやった。私は賢いからだ。」と公言していました。これはすべて高ぶる者の思いであり、姿です。




 ・絶対主権者の神  そこでイザヤは、イスラエルの神こそが絶対主権者の神であることを宣告します。彼はただの道具であって、高ぶってはならないのです。 「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは…おごることができようか。」  





 ・神が神として明らかに  神はご自分こそ真の神であり、絶対主権者であることを歴史を通して明らかにされます。事実、この宣告の後にアッシリヤの王はあえなく滅びます。また歴史上でも、驕る者や高ぶる者は、つかの間に歴史の流れの中に消え去るのです。ただ聖書の神のみが、真実の神、力ある神として明らかにされるのです。


 ・力ある神に立ち返る 私たちの時代も、人々は力ある人、豊かな社会、強力な国家に頼ります。あるいは自分だけを信じると豪語する者もいます。しかし、ただ頼るべき方は、長い歴史を通してご自分を絶対者、救済者として啓示しておられる聖書の神以外にはないのです。



2012/9/9 イザヤ9章 平和の王キリスト

・大きな光
イザヤの時代に、アッシリアが北イスラエルに侵略して3分の2の地域を占領しました。それは旧約の民にとっては、苦しみであり、闇の体験でした。  しかし神は闇の中でこそ光を示されます。イザヤが啓示されたものはこの世のどのような闇にも打ち勝つ「大きな光」でした。
・一人の嬰児  「ひとりのみどりご」とは小さく、へりくだり、柔和な存在を表しています。しかし、彼の上に神の十全の恵みと力が注がれ、その一切は「私たちのため」に用いられます。
  また彼はアブラハムの子孫、ダビデの子孫として預言されてきたキリストです。彼は新しい人間の代表として立てられています。 
・平和の王キリスト  「みどりご」には、二面性があります。見た目は小さいのですが、実は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」 とされています。彼は人々に知恵を与え、どのような悪と危険からも救い、どのような時にも受け入れ、完全な平和と幸いを与えます。






 ・信仰の目で見る  私たちにとってもキリストは、しばしば小さく、弱く、存在が薄いように思われます。しかし信仰の目で彼を見るとき、彼は私たちをも新しい人に創り変え、日々「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」として伴ってくださるのです。

  

2012・8・19 イザヤ6章 贖いと召命



・聖なる神
  ウジヤ王の死んだ年(BC742年)、イザヤは国の将来に危機感を持っていました。その時に、神である主を見るという体験をしています。
  高いところに神の王座があり、セラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。」と賛美していました。神こそが絶対の聖い方で、そこには人間が立ち入ることができないことを示していました。



 ・人間の罪と汚れ
  イザヤは主なる神を見た時に、自らのくちびるの汚れと罪がしめされました。「ああ、私は、もうだめだ。」と思ったのです。神の聖さに照らされて、自分の実態に気づきます。それはいつの場合にも、罪に汚れた存在です。
  イザヤの場合は、預言者としての召命を覚えていたので、「くちびるが汚れている」ことは、致命的でした。

 ・贖いと召命
 しかし、主なる神によって罪が示されることは、幸いなことでした。イザヤは天の祭壇から取られた「燃えさかる炭」によってくちびるの汚れと罪が聖められたのです。それはイエス・キリストの贖いの予兆です。
  その後、神の召命がありましたが、彼は自発的に応答しました。神によって聖められた者は、いつの場合でも、神の業に対して自発的な応答があるのです。






2012/9/2 イザヤ7:1~14 インマヌエル

・動揺と恐れ
  南ユダのアハズ王と民は、敵のアラム軍が北イスラエルに駐屯しているという情報を聞き、非常に動揺しました。彼らは主なる神ではなく、目に見える偶像や大国を頼りにしていたのです。目に見える物を頼る人々は、危機に際して、動揺しうろたえるのです。

 ・神の臨在と救いの勧め
 神は、そのような王と民に対して語ります。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません」「心を弱らせてはなりません」4。また「あなたが信じなければ、長くたつことはできない。」
 神は、どのような時にも、民と共にあり救うことができる方です。目先の危機にうろたえることなく、信仰を保つべきなのです。




 ・処女懐胎の印
  さらに主なる神は、アハズ王に神臨在の印を求めるように促します。アハズ王はそれを拒みましたが、神はイザヤを通して処女懐胎の印を預言します。この預言は、約730年後にマリヤによって成就します。
  処女懐胎の印を通して、神は御民と共に存在すること、しかも無限の力と愛とをもって、どのような危機からでも救ってくださることを示しています。
・インマヌエル 
 「その名をインマヌエルと名づける」とあります。意味は「神は私たちとともにおられる」です。そのなのとおり、神は21世紀の私たちとも共におられて、どのような危機からも救ってくださるのです。私たちは信じて、心の静かさを持つことによって、現代に神を証するのです。 
 


2012/8/12 信仰告白 教会について

・第八条・・・真の教会
  「真の教会がイエス・キリストにある救いの信仰を通し、聖霊により新生し、そのかしらであるキリストの体に結合されているすべての人により構成されるものであることを信じる。」
 
  真の教会とは、全世界全歴史に広がる一つのキリストの体であり、地の国と対峙する神の国のことです。その民は、神の一切の祝福を相続する者たちです。私たちは元来、地の国の者ですが、ただ「信仰を通し」、その民になります。



 ・第九条・・・地方教会会員
  「真の教会の会員である者のみが地方教会会員資格をもつものであることを信じる。」  真の教会に属する者は、抽象的に存在するのではなく、具体的な目に見える地方教会を形成し、そこに属します。私たちの場合は真の教会に属する者として、具体的に桶川福音自由教会を形成し、そこに属しているのです。この地方教会も、また一つのキリストの体です。
  具体的に地上におかれた教会には、多くの試練や苦難がありますが、その中で戦闘の教会として、キリストのために戦います。






 ・第十条・・・地方教会の自治
  「イエス・キリストが教会の主であり、かしらであること、またすべての地方教会がキリストのもとに個々の業務を決定し、つかさどる権利をもつものであることを信じる。」 教会の主は、いかなる地上の権威でも、外部の権威でもありません。ただ目に見えないキリストです。会員一人一人が御言葉と祈りを通して示された御心と判断が、教会活動に反映されます。これが地方教会の自治であり、また自律(オートノミー)です。 ですから、私たちの教会では個々人がキリストにあって成長することが大切であり、また互いの自発性と献身が極めて大切であるということです。

2012/8/5 イザヤ5章 ぶどう畑の歌

・ぶどう畑の歌
  預言者は、失恋歌のように「ぶどう畑の歌」を歌います。その主人公は神ご自身です。神は、最上の土地に、最高のぶどうの苗木を植え、労力と投資を惜しまず、至れり尽くせりで甘いぶどうがなるのを待ったが、「ところが、酸いぶどうできてしまった」というのです。「あり得ない」「想定外」な結果になったということです。
  そこで神はそのぶどう畑を放置し、一切の恵みを断ち切ると宣言します。それは当然の報いで、誰も異議を唱えることはできません。  

 ・イスラエルとユダの罪
  ぶどう畑の歌は、神とイスラエル/ユダの関係を歌ったものです。神はモーセを通して彼らをエジプトからカナンの地に導き、律法に基づいた契約と恵みを与えて、祝福を与えました。ところが、彼らは神を恐れて、律法を守るどころか、悪と欲望に満ちた国に成り下がったのです。その結果は、裁きと旧約の廃止以外はありません。


 ・原罪と神の小羊
  聖書は、彼らが堕落してしまった原因として、原罪ということを顕に示します。原罪は、私たちの奥底に隠れていて、律法によってでなければ明らかになりません。(ローマ7:7)人は、自らの内にある原罪の存在を知って、初めて律法を越えた、優れた救いを待望することになります。
  そこで預言者は、律法よりも優れた救いとしてのキリスト預言を明瞭にしていきます。その旧約の預言を受けて、新約聖書のヨハネ福音書1:29に次のようにあります。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」





2012/7/29 イザヤ4:2~6  シオンに残された者

・主の若枝
  神はアブラハムを選び、さらにダビデを選び、その子孫を通して万民に救いを与える契約を与えてきました。「主の若枝」とはその子孫、すなわちキリストです。

 ・シオンに残された者
  「シオンに残された者」とは、元来、外敵の侵入の中で、シオンに残された者を意味しました。しかし預言者が意味しているのは、世の誘惑、試練、偶像崇拝、つまずきのなかでも、信仰を守り通した人々のことです。神は、「若枝」によって「残された者」を聖とみなし、シオンの永遠の市民としてくださいます。

 ・シオンでの聖めと臨在
  シオンとは神の特別な恵みが注がれる場を象徴しています。そこで神は、「裁きの霊と焼き尽くす霊」によって、「残された民」の罪と汚れをことごとく除き去ります。またすべての会合に臨在を示し、求める者たちを一切の危険と試練から守ってくださるのです。


 ・現代のシオン/教会
  イザヤが預言するシオンとは現代の教会であり、「残された者」とはキリスト者のことです。エペソ1:22~23に神は教会にキリストを与えられたこと、またキリストによって一切を満たして下さると約束してくださっています。
  毎日の生活の中で、私たちも世の誘惑、試練、偶像礼拝、つまずきに直面します。しかしその中で信仰を保つときに、「残された者」として神に覚えられるのです。  さらに信仰による教会の礼拝と会合に主キリストは霊を注いで聖めをなさり、また雲となり火の輝きとなって臨在を現されます。

2012/7/22 イザヤ2:10~22 神にのみ栄光

・「その日」の裁き
  聖書の歴史観は、はじめがあり、終わりがあるというものです。神は正義の神であり、その基準に従って、「その日」に徹底的な審判を下されます。
  多くの者たちは裁きの対象となり、「主の恐るべき御顔」「ご威光の輝き」を避けて、逃げ惑うというのです。それはさながら、日陰の虫たちが突然太陽に照らしだされた時のようです。

 ・すべての高慢が低くされる
  主なる神が、特に裁きの対象とするのは、「高ぶる者」「高慢な者」です。また木々を偶像化する者たち、山々を偶像化する者たち、全て主なる神以外の者を崇拝する者たち、人間の文明を誇り、主なる神を排除する者たち、人間とそのエゴに執着する者たちです。

 ・神のみに栄光  そして「その日」には、「主おひとりだけが高められる」とあります。主は天地創造の神であり、絶対的な支配者です。また主なる神だけが良さと優れた性質をもち、卓越した知恵と力に満ちた存在者です。
 すべては主なる神を高め、たたえなければならないのです。被造物も主なる神を高め、一切の栄光を帰すときに調和と幸いを回復するのです。

 ・「その日」を前に  私たちは、「その日」の裁きの前に、預言者を通して警告が与えられています。そこでそれを良く覚えて、自分の高慢を砕いて、へりくだるべきです。またキリストをとおして救いの道に導いてくださっている神を心より崇めるべきです。

2012/07/15 イザヤ2:1~5 「終わりの日」に

・「終わりの日」に
  イザヤも他の預言者たちも、共通に預言するのは「終わりの日」についてです。神は歴史の主であり、一切を支配します。主なる神の支配は、「今の時」には隠されていますが、「終わりの日」には、明々白々と顕にされます。

 ・主の家の山
  「主の家の山」とは、神殿があったエルサレムのことです。「今の時」は、周辺の強国に絶えず侵略され、その神も宗教も軽んじられていました。しかし「終わりの日」には、どの山よりも高く「そびえ立つ」と預言されます。それは世界のどの宗教よりも、どの神々よりも、格段に優れた宗教と神として、本来の姿を現すということです。

 ・主のことばが出て
  「終わりの日」に、主なる神の救いは、世界中の民族に対して、開かれます。そこで万民はそこに向かい、救いの道、救いの言葉を切望するのです。
  その道、また言葉とは主イエス、キリストの救いの言葉、福音です。彼は預言に基づいて到来した救い主であり、彼の言葉はことごとく純粋で、真実です。すべて求める者に与えられます。

 ・主の光に歩もう  現在に至るまで、多くの民族がキリストの福音を求めて、その救いにあずかっています。キリストご自身が光であり、永遠の命です。そして救われる者たちは光のなかに入れられます。
  私たちの民族は、遅れて「主の家の山」に向かっていますが、自分自身で意思し、また互いに「主の光に歩もう」と励まし合いましょう

2012/7/08  イザヤ1:1~9,18~20 罪が緋のようでも

・イザヤ書
  預言者イザヤは紀元前740~690年ころにかけて活躍しました。内憂外患の時代で、外からはアッシリア帝国の進出、内では神殿礼拝と律法主義に限界が見られた時代でした。

 ・旧約時代と隠された反逆心  「わたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった」と非難しています。神が民をカナンの地に招き入れ、旧約律法を与えて祝福したのですが、反対に彼らの反逆心は増大したということです。
  彼らは神殿と律法の諸規則を持っていましたが、表面的に守るだけで、普段の生活で悪をなしていました。つまり表面的宗教生活で自己義認をなし、決して悔い改めることなく行いと心は罪に満ちていました。

 ・来たれ、論じ合おう
 「来たれ、論じ合おう」とあります。神が一人一人をご自分の前に招いています。そこは何も偽ることはできない神の法廷です。そこで神は私たちの罪を明瞭にされます。次には、神の絶対的恩寵を徹底して、私たちの心と魂に示そうとしておられるのです。

 ・罪が緋のようでも
 「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」  神の前で私たちの罪は緋のように赤々と示されます。しかし同時に、それらが全く清められて、純白の雪のようにされるのです。
 神のもとには、私たちの想像をはるかに超えた恵みと聖めが用意されているからです。それはイエス・キリストによる贖いです。

2012/7/1 ローマ16:17~27 サタンを踏み砕く

・学んだ教え
  最後に、使徒は「学んだ教え」から離れないように、強く勧告します。それはイエス・キリストの福音です。神が預言者たちに啓示し、イエスご自身も宣教した「教え」です。そこに一切の救いの宝と生命が隠されているのです。

 ・異端と分裂を避ける
  教会には、色々な悪が忍びこんできます。特に、「教えにそむいて、分裂とつまづきを引き起こす人たち」を警戒する必要があります。
  「教え」は教会にとって、遺伝子のようなものです。それが健全であれば、健全なキリストの体としての教会が、建て上げられます。しかし、それが傷ついたり、曲げられたりした時に、教会も傷つき、さらに分裂と躓きまで起こってくるのです。

 ・サタンを踏み砕く
  色々な背きを起こす人々の背後にあるのはサタンです。サタンとは敵対者という意味であり、神の業に敵対し、人間の心に背きの思いを吹き込みます。その結果、世の中に色々な汚れ、腐敗、争い、戦争まで起こってきます。
  しかし、私たちが「福音の教え」を忠実に学び、それに従って生きるときに、「サタンを踏み砕く」ことになります。そして「平和の神」の臨在が際立って現れるのです。

2012/06/24  礼典について

・聖礼典
  信仰告白第7条は礼典についてです。「水の洗礼および主の聖餐が現代の時代における教会により守らるべき礼典であることを信じる。しかしそれらは救いの手段としてみなされてはならない。」  日本福音自由教会では、礼典は水の洗礼と聖餐の2つです。これらは聖書において明記されている礼典です。礼典は主イエスの救いの恵みを見える形で示し、見えるみ言葉と言われます。それを信仰によって心の内側に受け取ります。

 ・水の洗礼
  聖書では、実際に洗礼が施された場面が記されていますし、マタイ福音書28章では主イエスご自身の命令があります。  ローマ6章によると、信仰者はキリストと共に死んで一切の罪を聖められたこと、またキリストと共に生き返り新しい命を受けていることを示します。目に見える形では、牧師が水の洗礼を授けますが、霊的には主イエスご自身が授け、聖霊が受洗者の罪を洗い新生させます。

 ・主の聖餐
  マタイ26章、Ⅰコリント11章などに聖餐式の記述があります。その主題はイエス・キリストの救いです。み言葉とともにパンとぶどう液が提供されます。パンはキリストの体、ぶどう液はキリストの血を象徴します。陪餐者は信じつつ食し、飲みます。それによって霊的なキリストの生命と血が内側に提供されます。これらはすべて、信仰によって霊的な食物となるのです。私たちにとってキリストこそ真の食物です。

20120617 父の日礼拝 ルカ15章 放蕩息子の話から

・父子関係の乖離
  放蕩息子の話を見ると、父と子供たちの間に心の乖離があることが分かります。弟は財産を受け取るとさっさと遠くの地に赴きます。兄の方は父とともに暮らしていましたが、心では離れていました。
父は子供に対してどうしても厳しい父として見られがちです。それは子供を躾ける、訓練するという役割から、必然的なことでした。また子供は成長過程で、プライドと過度の自立心を持ちます。その結果、互いに心の乖離が起こるのです。

・父子関係の回復
  弟は、早速、社会で挫折し、全く落ちぶれます。そこで自分の驕った心を悔い改め、心を父親に向け、父のもとに向かいます。
  父親は、自分から走り寄り、子供を抱きかかえて心からの愛情を示します。これが父と子の心の出会いとなります。
兄の方は、その対応に不満を漏らしますが、父は兄息子に対しても、彼に対する愛を知らせるのです。

 ・父子の心の出会い
父は子供に対して、優しさと愛の側面も現して伝える必要があります。厳しさ以上に、こちらの方が重要なのです。
この父の姿は、神に重なります。私たち父親は、神のあり方に習いながら、初めて父親としての使命を全うできるのだと思うのです。

2012/6/10 イザヤ12:1~6 喜びの発信

・「その日」と福音宣教
  「天から神の怒りが啓示されている」とあります。人間は罪深いため、その生涯は神の怒りの下におかれています。
しかし「その日」とは、神の「怒りは去り」「慰め」が来る日のことで、主イエス・キリストの十字架の贖いによって実現します。同時に福音宣教が始まるときです。福音には十字架の贖いが凝縮されています。

 ・救いの泉から喜んで汲む
  「その日」とは今であり、私たちは「喜びながら救いの泉から」汲みます。つまり私たちが福音を聞いて、理解し、それを心に受け入れるなら、福音は私たちの心の中で救いの泉となります。
  私たちの毎日はまた、神の怒り、試練、戦い、苦しみの連続で、さながら旱(ひでり)のようです。しかし福音は渇いた心に救いの水を与えます。そしてその時々に応じて、慰めと力と励ましを与え、喜びをよみがえらせ、愛の神が私たちと共にいることを知らせます。

 ・喜びの発信
  私たちの福音宣教は私たちの信仰生活の体験を基点として始まります。それは「喜びの発信」です。  私たちは礼拝で、諸集会で、毎日の生活で救いと喜びを証するのです。それは自発的になすことであり、また命令されていることです。
  世の人々は、むなしい偶像崇拝をし、不道徳の中を歩み、なお、神の怒りの中におかれています。私たちは明瞭な喜びで、神の救いと臨在を証しするのです。

2012/6/3 ローマ16:1~16 教会の風景

・教会の風景・・・その1
  ローマ書最終章で、パウロは挨拶をしていますが、ここに福音によって立つ教会の風景を垣間見ることができます。  パウロはケンクレヤ教会の女執事フィベについて紹介し、ぜひ彼女を助けるようにと要請しています。彼女もまた良く人を助ける女性でした。「助ける」とは「傍にいる」、「傍に行く」という意味合いを持ちます。教会では、助けを必要としている兄弟姉妹の傍に、即行く風景がよく見られたのです。

 ・教会の風景・・・その2
  プリスキラとアクラのことが紹介されています。彼らはパウロの同労者であり、パウロの伝道旅行の当初から協力した夫妻です。「自分のいのちの危険を冒して」福音のため、人のために奉仕する人たちでした。  「あなたがたのために非常に労苦したマリヤ」とあります。ローマ教会の創設のときから、陰(かげ)になり日向(ひなた)になって労苦したのです。 ローマ教会には、このような人々が何人もいましたが、彼女はその代表格でした。  強いられてではなく、自発的に主イエスに仕える姿、しかも主と同じ労苦を喜んでなす人々でした。

 ・教会の風景・・・その3
  またローマ教会の多くは罪悪のどっぷりと浸っていた人々でした。しかし福音を信じて、偶像崇拝とその慣習の絆を断ち切り、また臨在される主イエスに心から献身していたのです。その内面の変化が、外側の交わりに現されていたのです。

2012/5/27 Ⅱペテロ1:20 神の言葉

・神の言葉はいつも力がある
 Ⅰペテロ1:24「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。25しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」
 人間も人間の言葉も、やがて廃れるものですから、根本的には頼りになりません。けれども、神の言葉は、いつでもどこでも、信じる者にとって、頼りになり、力になります。

 ・聖書は神の言葉
 Ⅱペテロ1:20「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。21なぜなら、 預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
  神は、ご自身の言葉を聖霊をとおして、預言者たちに与えました。モーセ、サムエル、ダビデ、イザヤ、エレミヤなど、すべて預言者です。彼らは、神から受けた言葉を聖書に書き残しました。また預言者と共に使徒たちも言葉も、同じく神からの言葉です。
  私たちは預言者と使徒の言葉を聖書という形で与えられています。この聖書の言葉は、すべて神の言葉で、今の時代の私たちに向けて語られています。ですから、その意味を正しく理解し、心に刻み、御言葉によって完全な救いを得ましょう

2012/5/20 ローマ15:22~33 交わり・コイノニア

・パウロとコイノニア
  使徒パウロはローマ教会の人々との交わりを切望していました。イスパニア宣教の途中にローマに立ち寄り「あなたがた」によって力づけられたいと思ったのです。
  また教会間で交わりが保たれるよう努力しました。貧しいエルサレム教会のためにギリシャの諸教会が献金するよう要請したのです。

 ・コイノニアの意味
 交わりを聖書の言葉でコイノニアといいます。三位一体の神が信仰者をご自身の交わりに招いてくださっているのです。さらに神との交わりを背景にして、信仰者同士が互いに聖い交わりを持つことをコイノニアといいます。

 ・コイノニアの内容
  コイノニアの内容は、第1に福音と信仰の交わり。第2には祈りの交わり。第3に労苦を共有する交わり。第4に物をやり取りする交わりです。私たちは1つのコイノニアにあずかっているしるしとして、聖餐式をもちます。

 ・平和の神の臨在
  信仰者は1人で存在するのではなく、コイノニアの中で存在し、育まれ、成長します。そこに「平和の神」が臨在されます。
  私たちは桶川にある聖なるコイノニアに招かれています。そこで、より祝福され、より平和の神の臨在にふさわしい交わりを作っていきましょう。

2012/5/13 母の日礼拝 マルコ7:24~30

・女性の求め
  主イエスがツロ・フェニキヤ行ったときに、ギリシャ人の女がひれ伏し、願い続けました。小さい娘が「汚れた霊」につかれ、誰にも癒してもらうことができなかったのです。

 ・主イエスの拒絶
  しかし主イエスは彼女の求めを拒絶して次のように語ります。「子供たちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです。」  子供たちとは、ユダヤ人のことを意味し、小犬とは異邦人の女あるいはその娘のことです。少々、侮蔑した言葉です。

 ・女の信仰
   それでも女性は引き下がらずに次のように切り返します。「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」。  自分を小犬にしてへりくだり、徹底して主イエスのあわれみを求めています。また「パンくず」ほどの恵みでも癒されるという強い信仰が見られます。
  主イエスは、女性の信仰に驚きます。「女が家に帰ってみると・・・悪霊はもう出ていた」とあります。

 ・子育てと信仰
 この女性の信仰は、子育てをする母たちが、共通して要請される信仰です。毎日の生活で、子どもたちは色々な「悪霊」の脅威にさらされ、時にはひどく困難な問題が起こってくるのです。その時、祈りが答えられないからといってへこたれることなく、どこまでも祈り続けることです。そのときに、母の信仰も飛躍し、子どもも癒されます。

2012/5/6 ローマ15:7~21 異邦人の救い主

・異邦人の福音
  ユダヤ人は聖書の宗教はユダヤ人のものであるという考えがありました。他方、異邦人はユダヤ人に遠慮する形で福音を受け入れている傾向が見られます。
  そこで使徒パウロは、福音は旧約聖書以来、ユダヤ人と共に異邦人に向けられていることを示します。

 ・異邦人の教会
 さらに神は異邦人のためにパウロを福音による仕え人、また祭司としました。そこにレビ系の祭司という枠を超えた異邦人教会の姿を見ることができます。
  パウロ以降も、神は異邦人教会に働き人をおこし、福音による宣教と聖餐を施させます。また信仰者すべてが祭司とされて、教会全体が「異邦人の光」とされています。

 ・異邦人の供え物
  異邦人教会でも、神はささげ物を求められます。それは信仰者たち自身が福音を理解して受け入れ、自発的に自分をささげることです。それは神のご意志に対する従順ということです。それは彼らにとっても、幸いとなる姿です。

 ・来たれ、異邦人の救い主
   「来たれ、異邦人の救い主」とは、AD4世紀のアンブロシウスの詩ですが、そこには敬虔な信仰姿勢が告白されています。  「私たちは、異邦人はチリにすぎぎない存在です。しかし神は見捨てられず、心の戸の外に立ってたたいています。」
  そこで私たちは心から告白するのです。「どうぞ、私の心にお入りください。私はすべてを献げます」と。

2012/4/29 ローマ15:1~6 強い人も弱い人も

・強い人と弱い人
  私たちには色々な点で、格差があります。力がある強い人と弱い人、能力がある人とない人、持つ人と持たない人というふうにです。世の中では、強い人は自分を誇り、弱い人は苦しむだけという矛盾が生じがちです。  また信仰者の場合も、信仰の自由だけを主張すると個人主義が行き過ぎて、強い者が弱い人に関知しない自己中心に陥る危険性があります。

 ・強い人は隣人の弱さをになう
  しかし「力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべき」です。また「隣人を喜ばせ、その徳を高めるため」に力を用いるべきです。それは強い人の力は隣人のために用いるために与えられた神の賜物だからです。

   ・キリストにならう  「キリストでえ、御自身を喜ばせることはなさらなかった」とあります。むしろ私たちが受けるべき裁きを自ら進んでその身に受けて、十字架の死にまで到りました。キリストは私たちの贖い主であるだけではなく、私たちの道しるべです。私たちが救われたのは、小さいキリストになるためです。

・強い人も弱い人も 教会には色々な点で強い人と弱い人がいますが、互いが互いの弱さをになうべきです。その関係がキリスト体の強い関節になり、一致が生じます。  またそこに聖霊が豊かに注がれ、「心を一つにして、声を合わせて」神をほめたたえるようになるのです。

2012/4/22 ローマ14:13~23 キリスト者の自由


・躓かせない配慮
 「兄弟にとって躓きとなるものを置かないように」とあります。教会に対して寛容であるだけではなく、さらに積極的に愛の配慮を持つようにと言うことです。
 バリヤフリーという言葉がありますが、教会では色々なところで信仰の養いの妨げとなる障害が取り除かれなければなりませんが、その決意が大切です。

・キリスト者の自由
 確かにキリスト者は信仰によって何を食べても何を飲んでも自由が与えられています。ルッターはキリスト者は何者にも束縛されない王であるとまで言っています。しかしながら、その自由を自己主張のために用いるのではなく、隣人の愛のために用いることの方が大切なのです。つまりキリスト者の自由は、神への愛、隣人への愛に向かう自由なのです。

・神の国は義と平和と喜び
 神の国は世の終わりに完成しますが、すでに今の世において、教会という形で現れています。教会は神の国であり、神の国のあり方で交わりを築くところです。
 神の国は「義と平和と聖霊による喜び」とあります。それはキリストがそうであったように、相手をおおうほどの義、自分から和解して作る平和、相手も含んだ喜びということです。神の国の民として、与えられた自由をふさわしく用いましょう。

2012/4/15 信仰告白第6条 救いについて

・救いについて
  信仰告白第6条は「救いについて」です。この背景には、次の二つのことがあります。つまり人間が罪人で神の怒りの下にあること、また罪と死の支配の中にあって悲惨な状態であるということです。

 ・キリストの血と復活が基盤
「キリストの血と復活が、救いの基盤」とあります。神の子キリストの血は無限の贖いの価値を持ちます。無限の高貴な方が、無限の苦しみの中で死んで流された血だからです。  さらにキリストの復活は、彼が死をのみ込む力を持ち、無限の生命の保有者であることを示します。

 ・信仰のみ
神が用意された救いの基盤に、私たちが預かることができるのは、神が定めた手段によります。それが信仰です。「御子を信じる者が…永遠の生命を持つ」とあるとおりです。  異教異端では、努力、めい想、悟り、難行苦行で救われることを説きますが、信仰のみが救われるための「狭い門」です。


 ・義認と新生/救い
  キリストの贖いを通して、私たちの罪はキリストに、キリストの義
は私たちに転嫁されます。それによって私たちは神の怒りから逃れます。  またキリストの死と復活により、聖霊が私たちに与えられますが、聖霊は私たちを新生させ、罪と死の支配から生命の御霊の支配の中に入れます。私たちの生涯は、この原理によって、栄光の姿に変えられていくのです。これが救いです。

2012/4/8 ヨハネ11:1~27 私は甦りです

・ラザロの死
  ラザロはキリスト信者で、私たちの代表として登場しています。彼は重病になり危篤状態でした。しかし主イエスはすぐには赴かず、愛しているがゆえに「なお二日とどまられた」のです。
  「主イエスは病気は癒せるが、死に対しては無力である」という不信仰を正して、より飛躍した信仰に導くために、あえて訪問を遅らせたのです。

 ・この病は死に至らず
  「この病気は死で」終わらずと語られます。主イエスを信じる者は、天の戸籍に名前が刻まれていて、彼は神に覚えられており、常に生きています。彼らにとって肉体の死は眠りに過ぎません。そして、その死の只中で神の生命と栄光がクリヤーに示されます。ラザロの場合も然り、私たち信仰者の場合も然りです。

 ・私は甦りです
  「わたしは、よみがえりです。いのちです・・・」とあります。「わたしは・・・です」とはエゴ エミーというギリシャ語のことばで、神としての存在者を示します。主イエスは神であり、絶対的な甦りの生命を持っています。生命の火は尽きることがなく、消えたと思われるときにも、より勢いよく燃え上がります。

 ・「あなた」は信じますか?
  「信じますか」とはマルタだけではなく、私たちに対しての問いです。キリストの甦りの生命はご自分だけのものではなく、信仰によって彼との接点を持つ者たちにも分け与えられる溢れる生命なのです。あなたはこのことを信じますか。

2012/4/1 マタイ27:33~50  なだめの十字架

・なだめの十字架
 主イエスは神の子であり罪のない方であるのに、ゴルゴダの丘で十字架に付けられました。十字架は身分が低い極悪人のための死刑執行の道具です。  主イエスの十字架は、私たちの罪の身代わり、また贖いのためでした。贖いはなだめによって実現します。なだめとは、神の怒りと処罰としての苦しみを一身に受けると言うことです。

 ・「捨てられる」苦しみ
  主イエスは十字架上で様々な苦しみを受けます。鞭打たれはりつけ磔にされるという肉体的な苦しみもさることながら、その苦しみの本質は「捨てられる」という苦しみでした。  まずユダに裏切られ、弟子たちに見捨てられました。ご自分の民であるユダヤ人には「十字架につけろ」との憎しみに満ちた叫びの中、捨てられました。  極めつけは、父の神によって捨てられたことです。「エリ エリ レマサバクタニ」とは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」との意味です。これは詩篇22:1の預言の成就と言うことだけではなく、主イエスご自身の悲痛な叫びでした。

 ・怒りは去り、愛が注がれる
  主イエスの十字架のなだめによる贖いは、私たちの罪を完全に取り除き、神の怒りから解放します。私たちには色々な負い目や痛みがありますが、十字架を仰ぐときに、怒りは去り、神の愛が来て、私たちをおおうのです。

2012/3/25 ローマ14:1~12 信仰の弱い人を受け入れる

・信仰の弱い人、強い人
同じ主イエスを信じていても、信仰の強い人と弱い人は存在します。また「それぞれ」にはそれぞれの信仰姿勢があります。何を食べるか食べないかでも異なります。 しかしその些細なことが、大きな問題になってしまうことがあります。強い人が弱い人に対して自分の信仰を強要したり、また反対に弱い人が強い人を裁いたりするのです。

 ・信仰の弱い人を受け入れる
私たちが兄弟の信仰を侮るとき、私たちは自分の分を超えているものです。その兄弟の主人はイエス・キリストご自身であって「あなた」ではないのです。 また主イエス・キリストは「あなた」が弱いと思っているその人を支えておられ、確実に立た、成長させることができるのです。

 ・それぞれの信仰の自由が大切
食べるだけではなく、信仰生活全般において 大切なことはそれぞれが主の前に確信をもって判断することです。人の言葉を恐れる必要はないのです。それぞれが、主イエスから直々の信仰の自由をいただいているのです。 また弱い信仰の人であっても神の恵みの中で、「主イエスのため」に存在し生きる者とされています。それは尊いものなので、その信仰に干渉することは極力さけるべきです。 主イエスは私たちが自由を持ち、ただ主イエスのために生き、死めものとなるために、死んで生きて下さつたからです。

2012/3/18 ローマ13:11~14 キリストを着る

・今という時を知る
  聖書には、一つの歴史観があります。それは将来に救いが完成するイエスの再臨の日があるということです。教会は、その「日」を目ざしながら地上に存在しています。  再臨の時は、いつか分かりませんが勢いよく接近しています。私たちは、「今」の意味を覚えて、生活スタイルの転換が求められています。

 ・光の武具を身に付けるとき
  「やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか」  「やみのわざ」とは、この地上の様々な欲や快楽や汚れた業のことです。地上に執着しているときに、これらの虜になります。救いにはいるためには、まずその一つ一つを捨てることが大切です。そして、「光の武具」を装着するのです。これはやがて到来する神の国にふさわしい装着物です。つまり神の聖さと神が喜ばれる生活スタイルを身に付けることです。

・キリストを着る
 「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」  「キリストに従う」「キリストに学ぶ」という勧めよりも、より徹底しています。役者が役作りのために、原作を読み解釈し、試行錯誤して主人公になりきる場合があります。ちょうどそのように、私たちはキリストの言葉から学び、解釈し、黙想し、祈り、試行錯誤して、キリストの生き方、生活スタイル、人との関わり方、心と思いを自分のものとしていくようにということです。

2012/3/11 ローマ13:8~10 愛は律法を全うする

・キリスト者の社会倫理
  キリスト者の社会倫理は、かつての律法のように、細々とした形だけの規定ではありません。むしろ状況倫理であり、基本的な心構えでもって様々な状況に対処します。その第1に「何の借りもあってはいけません」です。「借り」とは、「負い目」ということで、金銭を借りるということだけではなく、様々な害や迷惑を与えて負い目を持つということをも意味します。そのようにして、良い市民として振る舞うのです。

 ・愛の負い目を持つ
 第2は、「愛の負い目」を持つことです。キリストが私たちを愛してくださったように、私たちは先に隣人を愛する姿勢を持つと言うことです。愛とは、隣人を助け、癒し、建て上げる愛で、すべて隣人の益となることをなし、幸せを願うことです。この時に、世に氾濫している自分本位の愛と混同してはなりません。

 ・愛は律法を全うする
  旧約時代の律法の根本精神は愛でした。そして「愛は律法を全うする」のです。愛はまた、人間社会にあるすべての道徳規範の根本精神です。私たちはキリストから神の愛を学び、教会において愛の訓練を受け、さらに世において真実の愛を行使して生きるのです。  世の道徳規範は形骸化したり、希薄化してしまうのが実情です。世の人々も、キリスト者の真実な愛と愛に基づく行動を期待しているのです。