・聖なる神
ウジヤ王の死んだ年(BC742年)、イザヤは国の将来に危機感を持っていました。その時に、神である主を見るという体験をしています。
高いところに神の王座があり、セラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。」と賛美していました。神こそが絶対の聖い方で、そこには人間が立ち入ることができないことを示していました。
・人間の罪と汚れ
イザヤは主なる神を見た時に、自らのくちびるの汚れと罪がしめされました。「ああ、私は、もうだめだ。」と思ったのです。神の聖さに照らされて、自分の実態に気づきます。それはいつの場合にも、罪に汚れた存在です。
イザヤの場合は、預言者としての召命を覚えていたので、「くちびるが汚れている」ことは、致命的でした。
・贖いと召命
しかし、主なる神によって罪が示されることは、幸いなことでした。イザヤは天の祭壇から取られた「燃えさかる炭」によってくちびるの汚れと罪が聖められたのです。それはイエス・キリストの贖いの予兆です。
その後、神の召命がありましたが、彼は自発的に応答しました。神によって聖められた者は、いつの場合でも、神の業に対して自発的な応答があるのです。