・福音は恥か
ユダヤ人は律法の業と人間の功績を求めました。ギリシャ人は学問の蓄積と洞察を重んじました。ところが、福音は十字架の言葉に過ぎず、信仰による救いを主張します。ですから当時の人々は福音を恥とするような感覚がありました。
・福音を恥とせず
「私は福音を恥とは思いません」
使徒パウロはユダヤ人とギリシャ人の恥の感覚を知っていました。しかし意志的に恥の思いを否定します。マイナスの感情によって、真理を曲げられてはならないのです。
恥とする人間の文化には救いはなく、ただ福音のうちにしか救いはないのです。
・福音は神の力
「福音をを恥とせず」断言する理由があります。それは福音は、人間のものではなく、人間の外側の神からもたらされる救いだからです。パウロは聖書から、使徒たちの証言から、そして何よりも自分自身の体験と啓示から知っていました。
・信じるすべての人にとって
また「信仰」と言うことも、人々が恥じとする要素でしたが、それこそが神の力を自分のものとする唯一の手段であることを体験的にも知っておりました。パウロは異邦人宣教をしていましたが、彼が行くところどこででも、ただ福音を信じるだけで、人々は救いの喜びを証しし、事実、新しい人に変えられていたのです。
私たちも福音に込められている神の救いの力を覚えて、はっきりと「福音を恥とせず」と告白すべきです。
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