2019/2/24 使徒の働き21:1~14 御名のためなら


・船旅と苦難の預言
 パウロ一行は、ギリシヤ、アジヤの教会を後にして、船でフェニキヤそしてエルサレムへと向かいます。途中の町々で弟子たちと会いますが、彼らは異口同音にエルサレムでの苦難を示されて、パウロの旅を中止するように要請します。

・御名のためなら
 するとパウロは「私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えました。パウロの使徒としての使命感が強く表されています。彼はキリストと出会い、使徒としての召命を得たとき以来、もはや古い自分のに生きるのではなく、キリストの御名のために生きる姿勢が、明確にされていました。そしてキリストとのための苦難、だけではなく死も覚悟したいき方となっていました。

・殉教者の精神
 パウロの姿勢は、すべてのキリスト者も学ぶべき信仰姿勢です。それは彼の手紙でも示されています。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」ピリピ1:21
 このパウロの示すキリスト者の信仰姿勢は、後に殉教者の精神と受け継がれます。それは地上で生きるためにも、御国に凱旋するためにも、有益で筋の通った生き方です。

2019/2/17 使徒の働き20:33~38 受けるより与える方が


むさぼったことなく
 人の金銀や衣服をむさぼったことはありません」と、使徒パウロは自分の立場を利用して「むさぼる」ことがなかったことを明言します。むしろ「両手は」自分と仲間の必要のために働いたと語っています。自分のあり方を通して、無欲で献身的なリーダーの姿勢を示しています。

弱い者を助け
 さらに「労苦して弱い者を助けなければならないこと」の大切さを語ります。それはキリストのあり方であり、リーダーがまず、キリストを模範とした姿勢を示し、それが教会全体の姿勢になるように教えています。世では強い者が主体となりますが、教会では弱い者に合わせ、全体が進んで行くということです。

・受けるより与える方が
 主イエスの言葉として「受けるよりも与えるほうが幸いである」と語ります。世の人は、受ける幸いのみを求めます。しかし新しくされた人は「与える方が幸い」を知っています。パウロは、教会の中で、率先して「与える方が幸い」であることを示しました。そして教会リーダーたちも、その「幸い」を身をもって知り、示していくように促しています。  

2019/2/10 使徒20:32 みことばと教会


・恵みのみことば
 ミレトの告別説教において、パウロは「あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます」と語っています。教会の主は、人間ではなく神ご自身です。神は人間の権威や知恵ではなく、ご自身の権威と知恵をみことばをとおして教会に与えています。また「恵みのみことば」とあるように、教会リーダーは律法とは全く異なった福音としてのみことば理解を深める必要があります。

・みことばと教会
 「みことばは、あなたがたを育成し」とあります。育成とは、徳を建て上げることで、神の民として養い育て上げるということです。またみことばは、個人だけではなく、教会を立て上げる礎であり土台であり、設計図であり、力です。みことばによって、一致して、愛を持って、献身をもって、知恵をもって建て上げる時、教会は盤石となります。

・みことばと御国
 「聖なるもの御国を継がせる」とあります。みことばは人を世から区別して、神の民とする霊の力です。また地上の幸いだけではなく、神の国を相続として与える手段であると明言します。見た目はちっぽけな言葉に過ぎませんが、ここに新しい生命が宿されていて、その生命は神の国の生命であることを示しています。
 ある神学者はキリスト教は「The Bookの宗教」と明快に語っています。私たちもThe Bookに心をしっかりと傾けて、自分と教会の育成の要として学び、用いていきましょう。

2019/2/3 使徒の働き20:13~27 ミレトの告別説教2…神の血で贖われた教会


・自分自身と群れ全体とに
 パウロはミレトにおける告別説教で長老たちに対して「自分自身と群れの全体とに」「気を配りなさいと」と命令します 。自分自身の信仰と共に教会全体にと言うことです。ちょうど羊飼いが羊の群れの安全に心掛け、健康と成長のため、群れとして保たれるために「気を配る」のと同じです。

・神の血で贖われた教会
 「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」とあります。神の子キリストの血の代価によって贖われたということです。その血は生命そのものであり、世の何ものよりも尊く、永遠の価値をもっています。故に教会も神の目には何よりも高価な群れです。 その尊さを覚えさせて、さらに「牧しなさい」「監督」しなさいと勧めています。それに対してリーダーとして立てられた人々は、召命感をもって応答する必要があります。

・狂暴な狼
 「狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回る」とあります。これは異端に対する警告です。パウロの時代にも、ユダヤ主義の異端がありました。それ以来、「凶暴な狼」が手を替え品を替えて、教会に侵入してきました。
 現代、知られている異端には、統一原理、エホバの証人、モルモン教などがあります。最近はタラッパンや全能神など、得体の知れないものもあります。この点で、教会のリーダーたちは「目を覚まして」警戒を怠ってはならないのです。

2019/1/27 使徒の働き20:13~27 ミレトの告別説教 その1 牧会姿勢


ミレトまで
 パウロ一行はトロアスからエーゲ海に浮かぶ島々をくぐり抜けながら航行し、途中、ミレトに立ち寄ります。そこから、エペソ教会の長老たちを呼び出して、告別の説教をします。この長老たちは、パウロによって任命され、教会の責任と監督を任せられた人々でした。

・ミレトの告別説教
 まず、パウロはエペソで彼自身がどのような姿勢で福音のために奉仕したかを想起させます。つまり「謙遜の限りを尽くし、涙をもって…主に仕えた」ということ。さらに教える姿勢としては「益になることは、少しもためらわず…教え」たということです。また神のご計画の全体を知らせ、悔い改めと主イエスに対する信仰をハッキリと語ったということです。

・走るべき行程を…
 さらに「自分の走るべき行程を走り尽くし」とキリストに仕えてきた姿勢を証します。「走るべき行程」とは、競技のコースのことで、マラソン選手のように、召命を一生懸命に全うしたということです。
 また福音のためなら「私のいのちは少しも惜しいとは思いません 」と覚悟を述べています。人間が、その人生をある価値のために燃焼させるとき、その価値の尊さが認識されるものです。パウロの場合は、キリストのために人生を完全燃焼されることで、キリストご自身のすばらしさが輝きでたのです。それは彼にとっても最上の喜びと満足でした。
 私たちも少しでも、パウロと同じ足取りで歩みたいと願わされます。

2019/1/20 使徒の働き20:1~12 トロアスの教会


・新しい生命の集団
 パウロはエペソを去ってマケドニヤ、ギリシヤを巡ります.彼を中心とした集団には、様々な地方出身の人々が加わっていました。まさしく新しい生命の集団でした。彼らはキリストの福音によって結びつけられていました。

・トロアスの教会
 彼らはギリシヤを後にして、対岸のトロアスに立ち寄ります。トロアスは古代叙事詩イリアッドスの舞台でした。しかし彼らは全く新しい世界観、死生観をもたらしています。
 「週の初めの日に…集まった」とあります。彼らは愛餐/聖餐の交わりをし、御言葉の勧めと説き明かしの時をもっています。これは日曜礼拝の起源です。
・ユテコ…新しい生命の中で
ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた」とあります。教会の交わりの中で、不慮の事故や悲劇的な出来事は起こったのです。
 パウロは彼を抱きかかえて「心配することはない。まだいのちがあります」と語っています。パウロの元で復活の奇跡が起こったのです。それは福音の交わりにある永遠の生命について証しとなり、人々は「人からならず慰められ」ています。
 私たちは時代も、場所も遙かかなたの時代に生きています。しかし、トロアスで起こったことと基本的に同じことが、私たちの内でも起こっているのです。

2019/1/13 使徒の働き19:1~20 エペソ教会と聖霊

第3次伝道旅行とエペソ
 パウロによる第3次伝道旅行の主な伝道地はエペソでした。エペソはアジアの州都でローマ第4番目に大きな町でした。しかしアルテミスの神殿や魔術が盛んな霊的には、暗い土地柄でした。

・聖霊のバプテスマ
 エペソでは、先にアポロやほかの弟子たちが伝道活動をしており、いくらかのキリスト者がいました。しかし彼らはヨハネのバプテスマしか知らず、人間的悔い改めと形式的バプテスマで留まったままでした。
 そこでパウロが「主イエスの御名によってバプテスマ」を授けると、彼らは「聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした」のでした。
・エペソ教会と聖霊
 パウロは、長くエペソに留まって伝道したため、福音はアジア州全体に伝播することになりました。それはパウロの力だけではなく、彼の周囲にいた弟子たちにもよります。
 はじめに聖霊のバプテスマを受けた人々は12人でしたが、彼らはちょうど、はじめの使徒たちのように聖霊によって一致して御言葉の宣教と教会形成をなしました。

 私たちの教会形成も、それぞれが聖霊のバプテスマを受けていることを自覚することが大切です。さらに、主イエスにすべて明け渡して献身する姿勢を持つ時に、今の時代においても聖霊は私たちに満ちるのです。


2019/1/6 ミカ書6:6~8 へりくだって神とともに


何をもって主の前に
 預言者ミカは「何をもって主の前に進み行」くべきか、何が神に喜ばれるのかと問うています。新年の礼拝で、私たちも同じような問いかけをすべきです。
「全焼のいけにえ…」とあります。物や業などの犠牲だけを献げるのが真の礼拝か問い、それを否定しています。幾ら多くのもの、貴重なものを、見栄や自分勝手な考えで献げたとしても形だけの礼拝を神は喜ばないのです。

・公義と誠実を愛すること
「主は何をあなたに求めて」おられることは「ただ公義を行い、誠実を愛し」とあります。公義とは神の義を知り、それを社会生活、家庭生活において実行することです。誠実を愛するとは、神が「あなた」になす誠実を知ることから始まります。誠実とはヘブル語でヘセドと言い、恵み、愛、いつくしみという意味も含まれます。次に、それを愛して隣人に対して同じように行うことです。

・へりくだって神とともに
 「へりくだってあなたの神とともに歩むこと」とは、ミカが示す主要な信仰姿勢です。自己中心な存在ですから、それを押しとどめ、砕くことが大切です。そのようにして、神の道を知ることができ、神の歩まれる道を、神に従って進むことができるのです。
 またこの生き方は聖書が理想とするもので「エノクは神と共に歩んだ」創522,「ノアは神とともに歩んだ」6:9とある通りです。

2018/12/30 ミカ7:18~20 罪を海の深みに


「あなたのような神が、他に」
 預言者ミカは、「あなたのような神は、ほかにあるでしょうか」と告白しています。神は天地創造の神としてご自身を示し、また歴史の中で、約束通りに救いの業をなしてこられた神です。力と存在と正義と聖さにおいて、比較できる神々はありません。私たちの国の神仏もこれに比べることはできません。

・そむきの罪を見過ごしにされる神
 さらに神のすばらしさは「残りの民」に対して現されます。「残りの者」とは、最後まで信仰を保つ人々のことで、私たちキリスト者もまた「残りの民」です。神は彼らに対して「そむきの罪を見過ごしにされ」「怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれる」方です。
・罪を海の深みに
 ミカは神が啓示された新しい救いの約束にもとづいて祈っています。「すべての罪を海の深みに投げ入れて」とは、出エジプトの時に、パロと軍勢とを海に投げ入れたように、今度は、罪そのものを踏みつけて、海の深みに投げ入れるようにと祈っています。罪の廃棄こそが、祝福の条件だからです。

・一年の終わりに
 私たちは一年の終わりに礼拝に集っていますが、このミカの祈りを借りて、私たちも祈るべきです。そして、罪の赦しについて確信を持ち、聖められた心と姿で新しい年を迎えたいのです。そこに神の祝福と生命がくだると信じるからです。