2018/6/24 使徒の働き9:36~43 ヨッパでの奇跡


弟子タビタ
 使徒の働きの舞台は海辺の町ヨッパに移ってきました。ギリシャ的な地であり、そこから世界が見えてきます。「女の弟子タビタ」は、家の教会を主催しており、貧しいやもめたちのために着物を造ったり、施しをしていました。そんなすばらしいキリスト者でも「病気になって死に」という現実に直面しています。

・ヨッパでの奇跡
 そこで彼女の友人たちは近くの町に来ていた使徒ペテロを呼びます。ペテロはタビタの家に着くと、彼女が寝かされていた間に赴いて祈りタビタ。起きなさい。」と語ります。「すると彼女は目をあけ…起き上がった」とあります。ペテロと弟子たちの主イエスに対する復活信仰が働いたのです。

・奇跡の意味
 タビタに起こった奇跡の意味は幾つか考えられます。第1には、キリスト者はみな神に覚えられて、神のもとでは生きた者とされているということです。第2には、使徒とその言葉は、主イエスの権威が付与されていることです。それは使徒によって与えられている福音です。その福音は、私たちの口にあり、心にあります。
 それゆえキリスト者は地上において何があっても「堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励む」Ⅰコリント15:58ことです。

2018/6/17 父の日招待礼拝 父ノアと歴史 創世記6:9~12


・父ノアと歴史
 ノアは神に祝福された典型的な父親でした。彼は罪の反乱と暴虐の時代に彼独自の歩みをなし、その子孫に大きな影響を与えました。「ノアの歴史」とありますが、「歴史」という言葉は「生む」という意味です。父ノアは母とは異なった意味で子どもたちを生み、時代を生み出していったのです。

・「正しい」という歴史
 「ノアは正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった」とあります。「正しい」とは真っ直ぐなということです。彼は神の道から外れ、曲がりくねった時代にあって、唯一の「正しい」を造り、歩んだと言うことです。世という強大な流れに逆らって、「正しさ」を貫くことは困難がともないますが、日々、神に従う中で、その生涯が一本の真っ直ぐな「正しい」道となったのです。そして神の裁きの時に、彼が造った小道を歩んだ家族だけが救われたのです。

・現代…父の歴史
 現代も、世の力と罪が氾濫している時代です。この流れの中で、独自の「正しい」道を造り出し、生み出していくことには、困難がともないます。しかし、それがちいさなものであったとしても、子どもたちに受け継がれ、結局は、子どもたちのために救いの道を備える結果となるのです。

2018/5/27 使徒の働き9::10~22 選びの器と助け手


・アナニヤ
 主イエスはサウロを改心に導くと同時に、彼がしっかりと立つために、他のキリスト者を用います。アナニヤはダマスコ在住の信者で、みなに尊敬されている人物でした。主イエスは、幻の中で彼に語りかけて、サウロのところに行くように命令します。

・選びの器と助け手
 はじめアナニヤはサウロが迫害者であることを理由に躊躇します。しかし主イエスは「あの人は…わたしの選びの器」と語り、強いて向かわせます。神が選んだ器でも、他のキリスト者の助けによって、はじめて神の器になるということです。そしてアナニヤがサウロのもとに行って頭に手をおいて祈ると、「ただちにサウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになり」彼は元気づきました。
  
・その後のサウロ
 サウロはアナニヤを通してダマスコの教会の交わりにも入り、「ただちに…イエスは神の子である」と宣べ伝え始めました。その後、エルサレムに行って「弟子たちの仲間にはいろうと試み」たのですが「みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていました」。この時にも助け手が現れます。バルナバは使徒たちのところに彼を引き連れていき、まじわりを築いたのです。そこでサウロはエルサレムでも、自由に大胆に福音を語ることができたのです。
 いつの時代でもどのような「選びの器」でも助け手が必要なのです。

2018/5/20 使徒9:1~9 サウロの改心


・迫害者サウロ
 まさしくサウロは迫害者でした。「脅かしと殺害の意に燃えて」キリスト者たちを捕らえ、遠くダマスコの町のキリスト者たちを捕らえるために、大祭司の許可証をもって向かいました。

・天からの光と改心
 「ところが…突然、天からの光が彼を巡り照らし」とあります。天の栄光とともに、主イエスが、直接にサウロに臨んだのです。一方的なあわれみによる顕現でした。
「…なぜわたしを迫害するのか」。キリスト者を迫害することが、即、イエスを迫害することとしています。神のためにと思ってなした迫害は、神と主イエスに対する反逆でした。 サウロは、自分の罪に気がつき、改心せざるを得ませんでした。

・悔い改め
 天の光により、サウロは地に倒れ、さらに盲目になりました。彼が使徒として立ち上がるためには、なお神様のお取り扱いが必要だったのです。盲目の中で、深い悔い改めの時が過ぎ、やがて力づけられて神の器として活躍することになるのです。

2018/5/13 Ⅰコリント13:4~13 母の愛 母の手


・母の愛、母の手
 聖書に「愛は寛容であり、愛は親切」とあります。 寛容とは受動的愛であり、親切とは能動的愛です。生まれながらの赤ちゃんはかわいいのですが、粗暴です。その子は、母の育み、つまり寛容と親切によって人間として成長します。その具体的手段はお母さんの手です。

・道しるべ
 また母の愛は、子どもを神の愛に向かわせる道しるべになります。青年時代に、私は真理を捜し求めました。その時に、真理には愛が付随するという風に考えました。それは母の愛が疑い得ないもので、善なるものと考えたからです。そこから向かったのはキリストの愛です。母の愛はやがてその生命とともに尽きるものですが、キリストの愛は永遠です。その愛に出会ったときに、神の手のひらの上に置かれたような平安を感じました。

・祈りの手
 最期に、母の愛/母の手は、祈りとして用いられます。母の愛にも力にも限界があるので、神の愛に子どもを委ねることが大切です。母の手は、祝福された手ですから。神がその祈りを拒むわけはないのです。

2018/5/6 使徒の働き8:26~40 ガザに下る道で


・ガザに下る道で
 ピリポは御使いの指図にしたがって「ガザに下る道に」向かいます。するとそこにエチオピヤ人の宦官が、エルサレム巡礼から帰国する途上にありました。彼は馬車の上でイザヤ書53章を読んでいました。そこにはキリスト預言があり、またキリストによって外国人も不具者も「主の集会に加えられて」救われる約束がしるされていました。

・導く人がなければ
 ピリポは彼に近寄って「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と問うと導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と答えました。そこでピリポは馬車に乗り、宦官にイザヤ書53章に記されている苦難のしもべは、誰であり、彼は何をしたのかについて 「宣べ伝え」ました。「宣べ伝える」とは使徒的解釈によってイエスこそキリストであると語ることです。それによって、封印された謎であった一切が明瞭にされ、罪人も外国人もハンディがある者も、すべてが救いに入るのです。

・救いとバプテスマ
 宦官はピリポの証を信じて、通りがかりの水場でバプテスマを受けました。バプテスマは明確な信仰告白であり、救いと神の国に入る門です。
 神はご自身で求道する者たちを起こしておられます。同時に神は私たちをその求道者のもとに導こうとしておられます。私たちはその出会いの中で、ハッキリとイエスこそキリストと宣教するのです。

2018/4/29 使徒の働き8:1~25 サマリヤの教会


・迫害と宣教
 ステパノの殉教を契機に、ユダヤ教徒たちはキリスト教会を激しく迫害します。とくにヘレニストキリスト者に対する攻撃が激しかったようです。
 それで信者たちはエルサレムから離散することになったのですが、かえって主イエスの宣教命令が進展することになりました。「エルサレム、ユダヤをとサマリヤの全土」に福音を証しするという命令と約束です。神の御心は、チャンスの時もピンチのときも、いつも進展するのです。

・ピリポによるサマリヤ宣教
 特に七人の一人ピリポの活動はめざましいものがありました。彼はサマリヤ方面に下っていき、通りすがりの町々で福音宣教をなしました。サマリヤ人は律法を中心とした彼ら独自の宗教を持ち、彼らなりのメシヤ待望もあったため、大勢が信仰に導かれます。

・サマリヤの教会
 この出来事を聞いて、使徒ペテロとヨハネが派遣されます。彼らが手を置いて祈ったときに、サマリヤの信者の上にも聖霊がくだりました。サマリヤ教会の成立です。
 しかし中には、なお魔術的世界の根が残っているシモンのような人物も存在しました。彼は魔術のように、人間の恣意や金銭で聖霊の能力を買うことができると考えたのです。使徒たちは厳しく彼を戒め、また徹底した悔い改めを求めました。

2018/4/22 使徒の働き6:8~7:60 ステパノの殉教


・ステパノ
 ステパノは聖霊と力に満たされてキリストを証しました。リベルテン会堂のユダヤ人たちと対立することになり、彼らはステパノと議論しました。しかし打ち負かすことができなかったために、神殿と律法を冒涜したという偽証により議会に連れて行きました。

・ステパノの証
 議会でもステパノは怖じけることなく、大胆に弁明します。その第1点は、神はエルサレム神殿だけに留まる方ではなく、どこにおいても選びの民に対して自分を現す方であると言うこと。第2点は、ユダヤ人はいつの時代も、かたくなで神に逆らっていたということでした。
・ステパノの殉教
 ステパノの弁明に対して、ユダヤ人たちは怒り、彼を町の外に連れ出して石で打ち殺しました。反対にステパノは天を見上げて、ユダヤ人のためにとりなします。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と。その姿はそこに居合わせた青年パウロの心に深く刻まれ、後の改心の布石となっています。

・私たちと証
 私たちは、明確に語ることをはばかる文化の中にあり、ステパノのような証を避ける傾向があります。しかし時には、明確に、キリストを証しすることが大切です。それによって貴重な魂が捕らえられることになるのです。

2018/4/15 使徒の働き6:1~7 新しい神殿…教会


配給の問題
 教会が成長するにつれ、内部の問題も表面化しました。ギリシャ語を使うユダヤ人やもめへの配給が滞るようになったのです。このことは、教会の働き人の問題をクローズアップすることになりました。つまり12人の使徒たちだけでは、教会のすべての奉仕に対処しきれないということです。

・七人の奉仕者
 そこで使徒たちは教会全員の中から七人の奉仕者を選びださせ、自分たちは「みことばと祈り」の奉仕に専念することを宣言します。新しい神殿である教会の根幹は神との接点であり、それがみことばと祈りだからです。そして七人に手をおいて祈り、新しい奉仕者として任職します。その結果、教会の内に聖霊が働き、さらに成長していきました。

・新しい神殿…教会
 教会は、これ以降、エルサレム以外にも成立し、そこで外国人牧師、監督、長老、様々な奉仕者が立てられることになります。それによってどこにあっても新しい神殿、キリストの体として祝福されていくことになったのです。

2018/4/8 使徒の働き5:17~32  いのちのことば


・世と迫害
 大祭司とサドカイ派の権力者たちは使徒たちに対してねたみを持ち、彼らを捕らえて拘束します。使徒たちはキリストの福音を委ねられていた者たちでしたから、小さな集団の行く末を完全に閉ざしてしまう行為でした。世はいつの時代にも、福音と教会に対してこのように敵対します。

・「いのちのことば」と神の国
 「ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き」とあります。天使は神のしもべであり、神の国を守る無敵の軍勢です。教会を神の国として、天使が救いの手をのべているのです。さらに「人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と命令します。福音には、永遠の生命が宿されており、福音宣教が地上に誕生した神の国の第1の務めです。使徒たちは、天使の命令通りに大胆に語っています。

・はずかしめと喜び
 使徒たちは、再び、ユダヤ当局に拘束され、詰問されます。しかし彼らは憶することなく「人に従うより、神に従うべきです」と大胆に弁明します。さらに鞭打ちにあいますが、「御名のためにはずかしめを受けるに値する者とされたことを喜び」とあります。
 使徒たちは目前の権威に憶することなく、目に見えない神の国を信じ、その使命を喜んで成し遂げたのです。
 私たちも神の国に仕える者たちですが、委ねられた「いのちのことば」の宣教にいそしみましょう。
 

2018/4/1 1コリント15:50~58 終わりのラッパ


・終わりのラッパ
 パウロは世の終わりに天からのラッパの響きがあり、それとともに体の復活が起こることを示します。その際「血肉のからだは神の国を相続」することはなく、「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられる」のです。神の国に入ることができるのは、福音によって御霊を宿した者たちで、そのすべてが御霊に属するからだに変えられるのです。

・死は勝利にのまれた
 「死は勝利にのまれ」とは預言者のことばですが、ラッパの響きとともに神の壮大なドラマが完結します。地上では死は絶対的圧制者で誰も立ち向かうことができません。しかしキリストの死と復活において、死の敗北が始まり、終わりの時に大逆転劇が起こります。キリストと民が死の支配を打ち破り、すべて新しい体に復活するからです。

・堅く動かされることなく
 復活の教理は、キリスト教の礎です。それを動かそうとする誤った教えが周囲にありますが、それに惑わされることなく、堅い信仰を保つことが大切です。
 「労苦がむだでない」とあります。キリスト者としての証や奉仕、また地上での生涯全体の労苦のことです。それらは地上の死によって絶えてしまうのではなく、私たち自身と友の復活という永遠の価値につながるからです。