2018/5/6 使徒の働き8:26~40 ガザに下る道で


・ガザに下る道で
 ピリポは御使いの指図にしたがって「ガザに下る道に」向かいます。するとそこにエチオピヤ人の宦官が、エルサレム巡礼から帰国する途上にありました。彼は馬車の上でイザヤ書53章を読んでいました。そこにはキリスト預言があり、またキリストによって外国人も不具者も「主の集会に加えられて」救われる約束がしるされていました。

・導く人がなければ
 ピリポは彼に近寄って「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と問うと導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と答えました。そこでピリポは馬車に乗り、宦官にイザヤ書53章に記されている苦難のしもべは、誰であり、彼は何をしたのかについて 「宣べ伝え」ました。「宣べ伝える」とは使徒的解釈によってイエスこそキリストであると語ることです。それによって、封印された謎であった一切が明瞭にされ、罪人も外国人もハンディがある者も、すべてが救いに入るのです。

・救いとバプテスマ
 宦官はピリポの証を信じて、通りがかりの水場でバプテスマを受けました。バプテスマは明確な信仰告白であり、救いと神の国に入る門です。
 神はご自身で求道する者たちを起こしておられます。同時に神は私たちをその求道者のもとに導こうとしておられます。私たちはその出会いの中で、ハッキリとイエスこそキリストと宣教するのです。

2018/4/29 使徒の働き8:1~25 サマリヤの教会


・迫害と宣教
 ステパノの殉教を契機に、ユダヤ教徒たちはキリスト教会を激しく迫害します。とくにヘレニストキリスト者に対する攻撃が激しかったようです。
 それで信者たちはエルサレムから離散することになったのですが、かえって主イエスの宣教命令が進展することになりました。「エルサレム、ユダヤをとサマリヤの全土」に福音を証しするという命令と約束です。神の御心は、チャンスの時もピンチのときも、いつも進展するのです。

・ピリポによるサマリヤ宣教
 特に七人の一人ピリポの活動はめざましいものがありました。彼はサマリヤ方面に下っていき、通りすがりの町々で福音宣教をなしました。サマリヤ人は律法を中心とした彼ら独自の宗教を持ち、彼らなりのメシヤ待望もあったため、大勢が信仰に導かれます。

・サマリヤの教会
 この出来事を聞いて、使徒ペテロとヨハネが派遣されます。彼らが手を置いて祈ったときに、サマリヤの信者の上にも聖霊がくだりました。サマリヤ教会の成立です。
 しかし中には、なお魔術的世界の根が残っているシモンのような人物も存在しました。彼は魔術のように、人間の恣意や金銭で聖霊の能力を買うことができると考えたのです。使徒たちは厳しく彼を戒め、また徹底した悔い改めを求めました。

2018/4/22 使徒の働き6:8~7:60 ステパノの殉教


・ステパノ
 ステパノは聖霊と力に満たされてキリストを証しました。リベルテン会堂のユダヤ人たちと対立することになり、彼らはステパノと議論しました。しかし打ち負かすことができなかったために、神殿と律法を冒涜したという偽証により議会に連れて行きました。

・ステパノの証
 議会でもステパノは怖じけることなく、大胆に弁明します。その第1点は、神はエルサレム神殿だけに留まる方ではなく、どこにおいても選びの民に対して自分を現す方であると言うこと。第2点は、ユダヤ人はいつの時代も、かたくなで神に逆らっていたということでした。
・ステパノの殉教
 ステパノの弁明に対して、ユダヤ人たちは怒り、彼を町の外に連れ出して石で打ち殺しました。反対にステパノは天を見上げて、ユダヤ人のためにとりなします。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と。その姿はそこに居合わせた青年パウロの心に深く刻まれ、後の改心の布石となっています。

・私たちと証
 私たちは、明確に語ることをはばかる文化の中にあり、ステパノのような証を避ける傾向があります。しかし時には、明確に、キリストを証しすることが大切です。それによって貴重な魂が捕らえられることになるのです。

2018/4/15 使徒の働き6:1~7 新しい神殿…教会


配給の問題
 教会が成長するにつれ、内部の問題も表面化しました。ギリシャ語を使うユダヤ人やもめへの配給が滞るようになったのです。このことは、教会の働き人の問題をクローズアップすることになりました。つまり12人の使徒たちだけでは、教会のすべての奉仕に対処しきれないということです。

・七人の奉仕者
 そこで使徒たちは教会全員の中から七人の奉仕者を選びださせ、自分たちは「みことばと祈り」の奉仕に専念することを宣言します。新しい神殿である教会の根幹は神との接点であり、それがみことばと祈りだからです。そして七人に手をおいて祈り、新しい奉仕者として任職します。その結果、教会の内に聖霊が働き、さらに成長していきました。

・新しい神殿…教会
 教会は、これ以降、エルサレム以外にも成立し、そこで外国人牧師、監督、長老、様々な奉仕者が立てられることになります。それによってどこにあっても新しい神殿、キリストの体として祝福されていくことになったのです。

2018/4/8 使徒の働き5:17~32  いのちのことば


・世と迫害
 大祭司とサドカイ派の権力者たちは使徒たちに対してねたみを持ち、彼らを捕らえて拘束します。使徒たちはキリストの福音を委ねられていた者たちでしたから、小さな集団の行く末を完全に閉ざしてしまう行為でした。世はいつの時代にも、福音と教会に対してこのように敵対します。

・「いのちのことば」と神の国
 「ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き」とあります。天使は神のしもべであり、神の国を守る無敵の軍勢です。教会を神の国として、天使が救いの手をのべているのです。さらに「人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と命令します。福音には、永遠の生命が宿されており、福音宣教が地上に誕生した神の国の第1の務めです。使徒たちは、天使の命令通りに大胆に語っています。

・はずかしめと喜び
 使徒たちは、再び、ユダヤ当局に拘束され、詰問されます。しかし彼らは憶することなく「人に従うより、神に従うべきです」と大胆に弁明します。さらに鞭打ちにあいますが、「御名のためにはずかしめを受けるに値する者とされたことを喜び」とあります。
 使徒たちは目前の権威に憶することなく、目に見えない神の国を信じ、その使命を喜んで成し遂げたのです。
 私たちも神の国に仕える者たちですが、委ねられた「いのちのことば」の宣教にいそしみましょう。
 

2018/4/1 1コリント15:50~58 終わりのラッパ


・終わりのラッパ
 パウロは世の終わりに天からのラッパの響きがあり、それとともに体の復活が起こることを示します。その際「血肉のからだは神の国を相続」することはなく、「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられる」のです。神の国に入ることができるのは、福音によって御霊を宿した者たちで、そのすべてが御霊に属するからだに変えられるのです。

・死は勝利にのまれた
 「死は勝利にのまれ」とは預言者のことばですが、ラッパの響きとともに神の壮大なドラマが完結します。地上では死は絶対的圧制者で誰も立ち向かうことができません。しかしキリストの死と復活において、死の敗北が始まり、終わりの時に大逆転劇が起こります。キリストと民が死の支配を打ち破り、すべて新しい体に復活するからです。

・堅く動かされることなく
 復活の教理は、キリスト教の礎です。それを動かそうとする誤った教えが周囲にありますが、それに惑わされることなく、堅い信仰を保つことが大切です。
 「労苦がむだでない」とあります。キリスト者としての証や奉仕、また地上での生涯全体の労苦のことです。それらは地上の死によって絶えてしまうのではなく、私たち自身と友の復活という永遠の価値につながるからです。
 

2018/3/25 イザヤ53:1~6 苦難のしもべ


・苦難のしもべ
 イザヤ53章では旧約聖書全巻が待望する人物、福音の中心人物についての預言があります。彼は人間として地上に誕生し、人知れず成長します。しかし彼は「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」人物でした。まさしく苦難のしもべでした。

・私たちも「彼」を…
 彼は人々の中で際立つ「人」でした。「さげすまれ、人々からのけものにされ」たからです。ただの「さげすみ」ではなく人が顔をそむけるほどさげすまれ」ました。それは彼が「悲しみ(痛み)の人」にあったからでした。私たちも、彼を神に捨てられた人として「尊ばなかった」とあります。

・「彼」は私たちを…
 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛み(悲しみ)をになった
 彼の病と痛みは、私たちが罪の罰として受けなければならなかったものということです。彼は私たちの罪と罰の一切を担って、打たれ、刺し通され、それによって私たちはいやされ救われたのです。苦難のしもべは、私たちの贖い主であったということです。

・「彼」と私たち
 「彼」と「私たち」が結びつけられ、彼の贖いを受け取る手段はただ信仰です。そこでキリスト者は生涯、その絆の中に生き、信仰を深め、彼を愛を自分のものとするようにすべきです。

2018/3/18 使徒の働き4:36~37、5:1~11 アナニヤ・サッピラ事件



・アナニヤ,サッピラ事件
  信じた者の群れは心と思いを一つにし、財産も共有する場合もありました。バルナバは自分の土地を売り払い、その代金をすべて献げて、みなの称賛をえました。
 ところがアナニヤとサッピラ夫婦は皆からの尊敬と称賛を獲得するために、一部の財産を隠して、すべて献げたという虚偽行為をなしました。しかも夫婦で口裏を合わせてなしたので、ペテロはそれを厳しく非難しました。

・裁き
サタンに心を奪われ」とは使徒の言葉です。単に偽ったというだけではなく、信者の群れでの虚偽行為は、サタンの奴隷、手先としての反逆と断じたのです。事実、サタンはそのようにして、教会に忍び込もうとしていました。それは「 聖霊を欺い」た行為であり、神に対する反逆です。
 ペテロが彼らの虚偽を暴いたとき、アナニヤもサッピラも、即座に「倒れて息が絶えた」のでした。ただちに神の裁きが下ったのです。

・教会と聖
「教会全体…非常な恐れが生じた」とあります。ここで初めて教会という言葉が用いられています。今や教会は、神殿に変わる神臨在の場所であることが明らかにされたのです。「非常な恐れ」とは神への畏怖です。
 この事件を通して、教会が神臨在の場であり、聖なる領域であることを顕わにさせたのです。

2018/3/11 使徒の働き4:1~22 礎の石



・ユダヤの権威
 神殿内でペテロらが福音宣教していたとき、神殿の責任者たちがきて彼らを拘束しました。彼らは使徒たちがイエスの復活について語っているのに困り果てていたのです。翌日、ユダヤ議会が招集され、彼らは大祭司、長老、学者たちの前で尋問を受けます。彼らはユダヤの権威であり、神殿中心の宗教に固執する人々でした。

・ペテロの弁明
 翌日、ユダヤ議会が招集されて、大祭司、長老、学者たちというユダヤの権威が集います。その面前で、使徒たちは「誰の権威、誰の名で語り行ったか」と尋問を受けますが、彼は聖霊に満たされて大胆に、キリストを証します。彼らにとっては、古い名と権威よりは、復活したイエスの権威と名の方が、すぐれていることは、明白でした。

・礎の石
 さらにペテロは詩篇118篇を用いてキリストを証します。「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となったとはこの方のことです」と。神殿中心の旧体制が捨てて十字架にかけて殺したイエスが、復活して新しい神の国の礎となったということです。見た目には見事でも神殿は貧弱な救いであり、キリストこそ万民の救い、永遠の救いであるということを示しています…事実、約40年後に神殿は破壊され、キリストの教えは万民に届けられることになりました。

2018/3/4 使徒の働き3:1~11 美しい「イエスの名」



・「美しの門」で
 ペテロとヨハネが神殿にある「美しの門」を通ろうとしたときに、ちょうど足にハンディーキャップがある男が運ばれてきました。彼はそこで毎日、施しを求めていたのです。「美しの門」は形と装飾が美しかったのでその名がついたのですが、それは神殿にまつわる神の祝福を象徴する名でした。

・イエス・キリストの名
 男は早速、ペテロたちに施しを求めましたが、ペテロは「金銀は私にはない」と答えます。実際に、彼らは金銭を持ち合わせていなかったし、生活は豊かではありませんでした。さらに続けて「私にあるもの」と言って「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と命じました。ペテロは金銭よりも、さらにすぐれた財産は「イエス・キリストの名」という強い確信を持っていたのです。権威ある「名」は決してむなしくはなく、力があります。ましてや神の子イエスは生きており、その名があるところに永遠の力が現れるのです。

・美しい「イエスの名」
 ペテロが語った言葉と共に「たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした」とあります。さらに「歩いたり、はねたりしながら、神を賛美し…」とあります。肉体が癒され、神を賛美する心がよみがえったのです。神殿と門の外見は美しかったのですが、さらに美しく喜ばしい「名」はイエス・キリストの名であることが証明された出来事でした。

2018/2/25 ヨハネ福音書2:1~11 水がぶどう酒に



・カナの婚礼
 主イエスは母と共にカナでの婚礼に招かれていました。ところが婚礼の最中にぶどう酒がなくなりそうになったので、母マリヤはイエスが何とかしてくれるだろうと考えて、そのことを訴えました。それに対して主イエスは「あなたは、わたしと何の関係があるでしょう」と突き放しました。もはや息子ではなく、神の子キリストとしての公の立場だったからです。

・イエスの時
「わたしの時はまだ、来ていません」と主イエスは語っています。イエスを招き、イエスもまた喜んで臨在するところでは主イエスは「わたしの時」、絶対的な恵みと救いの時を用意しているということです。その「時」は、主イエスの十字架と復活の奇跡を反映させるような「時」でした。
 この婚姻において信仰者にもたらされる「イエスの時」とは、どのようなものであるか如実に現しているのです。水がぶどう酒に、しかも最良のぶどう酒に変えられた奇跡がそれです。

・私たちの家庭で
 このことは現代に生きる私たちの場合にもそのまま適応できます。特に夫婦関係と家庭生活においては如実です。私たちの場合も生活の中で、いつしか人間ゆえの欠け、弱さ、足りなさが顕わになる事があります。それは物質的にもそうですが、愛や誠実、寛容や忍耐において特にそうです。そのようなときにキリストを心と家庭に招き入れている人々は幸いなのです。その家庭には「イエスの時」があり、「水がぶどう酒に」変えられるのです。